詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

朝吹亮二『まばゆいばかりの』

2010-09-29 00:00:00 | 詩集
朝吹亮二『まばゆいばかりの』(思潮社、2010年08月20日発行)

 朝吹亮二『まばゆいばかりの』は奇妙な具合にはじまる。「贈りもの(さんの庭にはいっぽんの)」という詩の書きはじめ。

さんの庭にはいっぽんの巨樹があってけれどもそれはまだほんのこどもだからやわらかな小枝と葉をのぞかせているだけなのだがやがてほんとうの巨樹になっかつて森であった町をみおろすだろう

 「さんの」と書かれているが、これは何か。「朝吹」さんのように、冒頭に「名前」が省略されていると考えられる。なぜ、省略されているのだろうか。読者に知らせる必要がない、ということだけではない。朝吹自身にも言い聞かせる必要がない。朝吹は、そのだれかを名前のあるだれかのように区別する必要がない。それは朝吹の肉体となってしまっているひとである。
 しかし、「日録(終わらない世界の終わりのための)」には、その「区別のなさ」「肉体となっているひと」とは矛盾するような表現もでてくる。

ねえ、さん
あなたの空隙はそのまま私
の触れることのできるすべてなのです

 書かれなかった名前を「空隙」と呼ぶなら、たしかにそれは「そのまま私」。ここまでは、私が先に書いたことを言いなおしたものと言えるかもしれない。
 3行目が微妙である。
 「空隙」を「そのまま私」といっておいて、すぐ、それをずらしていく。「私/の触れることのできるすべて」。それは「私」ではない。「私の触れることのできるすべて」。「私」はもちろん「私」に触れることができるけれど、触れなければ存在しない(存在できない)「私」ならば、触れる主体としての「私」は、いったいどこに存在しているのか。
 わかったようで、わからない。
 「空隙」ということばが、たぶん、独特なのだ。それは「学校教科書」でいう「空隙」(空間、隙間)とは違うのだ。朝吹の「思想」そのもののことばであり、それは簡単には説明できない何かなのである。

ねえ、さん

 この呼びかけでは、読点「、」がいわば「空隙」をあらわしていることになる。ねえ、○○さん、というべきところに○○が存在しない。存在しないことを指して、朝吹は「空隙」と呼んでいる。しかし、これはほんとうに「空間」「隙間」と同じもの?
 「空隙(空間・隙間)」というとき、それは何かと何かの「空隙」であるはずだが、その何かと何かとはなに? 「あなた」が「不在」であり、かわりにそこに「空隙」が存在する--と読むとき、「あなた」のつくりだす「空隙」とは世界を構成するいくつもの存在そのものの関係性のなかにおける「空隙」ということになる。いまだ関係が構築されていない「もの」と「もの」との「空隙」。
 そして、そのような「空隙」、「もの」と「もの」との無関係を意識するとき、ちょっとおもしろいことが起きる。「空隙」を意識するということは、「もの」と「もの」とが離れているということを意識するということであり、その「もの」と「もの」とが離れていると意識するとき、意識のどこかで「もの」と「もの」とを結びつけいてる。「空隙」を挟んで、「もの」と「もの」が出会っている。「空隙」によって隔てられているものが、いま、意識によって逆に結びつけられている。
 と、ここまで書いてくると……。
 詩とは異質なものの出会いである、という定義が、朝吹のことばに重なってくる。
 「空隙」とは、朝吹にとって、

 詩

 そのものである。

 ところで、「空隙」とは何だろう。
 そのことを考えるとき、朝吹の書いていることばの動きは、いささか奇妙である。「ねえ、さん」には読点「、」という不思議な「空隙」があった。そして、1行目、2行目、3行目には改行という「空隙」がある。
 しかし、冒頭の「贈りもの」にもどると、そういう「空隙」はなく、かわりに「密着」がある。

さんの庭にはいっぽんの巨樹があってけれどもそれはまだほんのこどもだからやわらかな小枝と葉をのぞかせているだけなのだがやがてほんとうの巨樹になっかつて森であった町をみおろすだろうあかい木の実くろい木の実を飛び散らせ果肉も踏み散らしそれでも汗疹かかずに駆け抜けてゆく冬の獣たちいちまいいちまい葉の雫がおなじいくつも舞いあがってすこしいきぐるしいいつもすこし酸素や水素がおおすぎる私は人のはなしもあまりよくきかないでだから会話もとぎれがちで稀薄なそれでもここちよい時がながれていた

 句点「。」も読点「、」もない。文章がつづいている。密着している。つづいている(密着している)けれど、その密着のなかに、変なものが紛れ込む。これは密着しているが密着すべきではないという意識--「異質」という意識がまぎれこむ。そして、その「異質」を意識しながら、ことばは動いている。
 「空隙」と「密着」と「異質」が、朝吹のことばの運動のなかでは「ひとつ」なのである。そして、その三つが「ひとつ」であることが、



なのである。

 その三つを、

ねえ、さん
あなたの空隙はそのまま私
の触れることのできるすべてなのです

 という3行では、別なことばで書いていることになる。どれが「空隙」、どれが「密着」、どれが「異質」であるか、私にはまだいうことはできないが、それは、書かれなかったことばを含む「さん」と「あなた」と「私」である。
 書かれななかった「さん」を「あなた」と呼び、それが「そのまま私」と呼ぶとき、そこには朝吹の詩の「三位一体」の関係がある。切断し、同時に接続し、そのことによっていままで存在しなかったものを生成させるという運動としての、詩。

 朝吹のことば、詩は、そんなふうにして動いていく、と私には感じられる。「もの」(存在)をへめぐりながら、あるいは記憶をへめぐりながら、いやことばそのものをへめぐりながら、切断と接続と異質のなかで、不在の存在論を試みている、不在を生成させるということを試みていることばの運動のように感じられる。


*

 アマゾンのアフィリエイトの登録(?)が遅いのか、私の感想が早すぎるのかわからないが、この詩集もまだアマゾンでは買えないようだが、今年読むべき1冊であることはたしかだ。売り切れないうちに書店で注文することをお薦めします。


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