詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

中堂けいこ『ホバリング』

2010-09-11 00:00:00 | 詩集
中堂けいこ『ホバリング』(書肆山田、2010年08月22日発行)

 中堂けいこ『ホバリング』は複数の形式の詩が集められている。そのいくつかは、私にはよみづらかった。たとえば、詩集のタイトルにもなっている「Hovering」。

あお向けに喉をならしアズレイン 水溶性の嗽成分 口をつく発語へ
わたしの頭上から飲み下すことの困難さ たとえば巨大な硝子ケースは
マンモスの檻と呼ばれ 人々の好奇の瞳に晒されては 化石に近づくやわらかさで

 1行が長く、しかも独立していない。「たとえば巨大な硝子ケースは/マンモスの檻と呼ばれ」のような行の「渡り」が頻繁におこなわれるが、その理由が私にはピンとこない。詩なのだから、そこに「論理」や「意味」はなくても私は気にしないが、詩なのだからそこにことばの音楽がないと読み進むことができない。
 こういう作品に比較すると「ヒメジョオン」のような作品は読みやすく、しかも刺激に満ちている。

その遠い響き
ジョオオンと鳴く捨て犬
あるいは犬の名前がジョオンだったかもしれない

 「ヒメジョオン」というのはどこの野原にでも咲く小さな菊のような花だと思うが(野草のことはあまり知らない)、その野生が「遠い」ということばを呼び出しもすれば、野良犬も、その鳴き声も呼び出す。「響き」ということばを中堂はつかっているが、「音」が最初からとても自然である。「音」のなかにある「記憶」(過去)を掘りあてている。

彼らは次々と仔を孕み
産まれるはしから
菊科の顔と尻を見せる

 何か特別なことが書いてあるわけではない。中堂が見た過去がことばのなかに自然にはいってきているのだと思うが、その自然な動きがいい。
 ことばには「過去」がある。それは、筆者の「過去」と重なる。「過去」というものはだれもが持っているように思われるが、そうではないかもしれない。「ことば」にならないかぎり、「過去」は「過去」として噴出してきはしない。「いま」を解体し--それはつまり、「過去」という固まったものを揺さぶり壊し、ということなのだが、そしてその結果として、「過去」が「過去」であることをやめ、「いま」に突き刺さってくる。そのための「ことば」--そういうものを動かすためには、ある「工夫」が必要である。
 中堂は、この詩では「耳」を解放している。そして、耳が解放されるのにしたがって、他の肉体も解放され、自在に「いま」の風景を描きながら、そこに「過去」を噴出させる。「耳=響き」から「目=見せる」へ、そしてそこには具体的には書かれていないが「鼻(嗅覚)」も誘い込まれる。「尻=匂い」が嗅覚を刺激している。犬は互いの尻の匂いをかぎながら、相手を知る。「ほら、お尻をかぎあって、あいさつしてるよ」という具合である。
 詩のつづき。

まぎらわしい棒状の視線をかいくぐり
橋のようなところで
あちらからこちらへとあやうい歩行を繰り返す
その肩口に雑な草の歌をのせて
ほろほろと付箋をこぼしている
そこいらで菊科の歌が繁り
この虚位の惑星が
ムカシヨモギ属に浸食され
紫海に沈む日も近い

 何を書いているんだろうなあ。論理的(?)に追いかけるのは面倒である。けれど、そこに音楽があるので、好きなところだけ(好きな響き、好きなことばだけ)たぐりよせて、私は反応する。
 ヒメジョオンの種が犬の体についてあちこちにばらまかれ、それがやがて花を開かせるかどうか私は知らないが、そんなことを思う。犬の肩に載って、草木の種は遠い夢を歌う。犬の歩いた先に付箋をおいておけば、そこから花が開くのを確かめられるかもしれない。その遠い未来は遠い過去のように紫色の海があり、そこに日は沈む。未来なのに、なつかしい風景……。
 その風景をかきみだすムカシヨモギ。そういうものもあるのだ。何もかもが「純粋」に結晶するのではない。そんな自然の姿も、なつかしいものとして「未来」に広がる。

それでも根は
芯置くから折れ曲がり
遠吠えを響かせながら
昔ヨモギのさみしい種まで遡る

 あ、西脇のように「さみしい」が出てきた。
 「さみしい」とはいくつもの肉体(感覚)が融合して、そこにない「時間」を浮かび上がらせる瞬間にあらわれる音楽だね。





ホバリング
中堂 けいこ
書肆山田

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