監督 フィル・アルデン・ロビンソン 出演 ケヴィン・コスナー、エイミー・マディガン、ギャビー・ホフマン、レイ・リオッタ
公開当時、私はこの映画の緑に非常に驚いた。アメリカ映画ではじめて美しい緑を見たと思った。私は、イギリス映画の緑と日本の映画の緑は好きだが、アメリカ映画の緑は一度も美しいと思ったことはなかった。この映画で、ほんとうにはじめて美しいと思った。しかし、今回福岡天神東宝で見て、そんなに美しいとは思わなかった。(「ゴッド・ファーザー」のときは「黒」が汚いのに驚いた。)音も非常に悪かったから、これは劇場の問題かもしれない。それとも、その後、アメリカの緑が美しくなり、「フィールド・オブ・ドリームス」の緑の印象が弱まったのか……。
私は、ただただ、あの懐かしい緑の美しさを見に行ったのだが、それが見られなかったので、映画そのものの印象もずいぶん悪くなった。もともと私はこの映画は好きではない。今度見て、好きではない、ということを確認しただけだった。
何が好きではないか。何が嫌いか。
この映画は映画ではなく、「小説」だからである。冒頭の「それをつくれば、彼は帰って来る」という台詞が、もうどうしようもなく「小説」である。つまり、ことばである。この映画はことばを追いつづけて進んでゆく。
ことばを追いかけてシカゴへ行き、会うのは作家である。そして、その作家と野球場で見るもの「文字」である。ことばである。「音」でも「映像」でもなく「ことば」。ことばがケヴィン・コスナーを動かしていく。
最初に見た20年前(?)は、緑の美しさに目を奪われて、ことばが主人公を動かしていくことにそんなに気を取られなかったが、緑がないとなると、もうことばがうるさくてしかたがない。
途中に、文学作品の検閲とそれに対する抗議というシーンもあるが、これも「ことば」の問題であり、「小説」の問題であって、映画らしいところは何もない。
そして、もっとも嫌いなのはラストシーンである。
ケヴィン・コスナーと父親が和解をする。そのとき、ことばは消え、ふたりは無言でキャッチボールをする。この、ことばの否定の仕方、ことばのないところで「感動」を揺さぶる技巧--それが、またまた「小説」そのものである。「余韻」という、いやらしい美しさ。ぎょっとしてしまう。
ことばで語ったあと、それを映像でなぞっている。
この映画には「原作」があるようだが、まあ、小説の方が映画よりは感動的だろう。小説はなんといってもことばでできている。ことばでひとを動かしていくのは当然だから、そこにはことばに対する真剣さがあるだろう。
映画は、映像に対する真剣さを欠いてしまっては、とてもつまらない。
(「午前十時の映画祭」34本目)
フィールド・オブ・ドリームス 【プレミアム・ベスト・コレクション\\1800】 [DVD]UPJ/ジェネオン エンタテインメントこのアイテムの詳細を見る |