詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

フィル・アルデン・ロビンソン監督「フィールド・オブ・ドリームス」(★★★)

2010-09-28 12:34:12 | 午前十時の映画祭

監督 フィル・アルデン・ロビンソン 出演 ケヴィン・コスナー、エイミー・マディガン、ギャビー・ホフマン、レイ・リオッタ

 公開当時、私はこの映画の緑に非常に驚いた。アメリカ映画ではじめて美しい緑を見たと思った。私は、イギリス映画の緑と日本の映画の緑は好きだが、アメリカ映画の緑は一度も美しいと思ったことはなかった。この映画で、ほんとうにはじめて美しいと思った。しかし、今回福岡天神東宝で見て、そんなに美しいとは思わなかった。(「ゴッド・ファーザー」のときは「黒」が汚いのに驚いた。)音も非常に悪かったから、これは劇場の問題かもしれない。それとも、その後、アメリカの緑が美しくなり、「フィールド・オブ・ドリームス」の緑の印象が弱まったのか……。
 私は、ただただ、あの懐かしい緑の美しさを見に行ったのだが、それが見られなかったので、映画そのものの印象もずいぶん悪くなった。もともと私はこの映画は好きではない。今度見て、好きではない、ということを確認しただけだった。

 何が好きではないか。何が嫌いか。
 この映画は映画ではなく、「小説」だからである。冒頭の「それをつくれば、彼は帰って来る」という台詞が、もうどうしようもなく「小説」である。つまり、ことばである。この映画はことばを追いつづけて進んでゆく。
 ことばを追いかけてシカゴへ行き、会うのは作家である。そして、その作家と野球場で見るもの「文字」である。ことばである。「音」でも「映像」でもなく「ことば」。ことばがケヴィン・コスナーを動かしていく。
 最初に見た20年前(?)は、緑の美しさに目を奪われて、ことばが主人公を動かしていくことにそんなに気を取られなかったが、緑がないとなると、もうことばがうるさくてしかたがない。
 途中に、文学作品の検閲とそれに対する抗議というシーンもあるが、これも「ことば」の問題であり、「小説」の問題であって、映画らしいところは何もない。
 そして、もっとも嫌いなのはラストシーンである。
 ケヴィン・コスナーと父親が和解をする。そのとき、ことばは消え、ふたりは無言でキャッチボールをする。この、ことばの否定の仕方、ことばのないところで「感動」を揺さぶる技巧--それが、またまた「小説」そのものである。「余韻」という、いやらしい美しさ。ぎょっとしてしまう。
 ことばで語ったあと、それを映像でなぞっている。
 この映画には「原作」があるようだが、まあ、小説の方が映画よりは感動的だろう。小説はなんといってもことばでできている。ことばでひとを動かしていくのは当然だから、そこにはことばに対する真剣さがあるだろう。
 映画は、映像に対する真剣さを欠いてしまっては、とてもつまらない。
                         (「午前十時の映画祭」34本目)




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池井昌樹『母家』(4)

2010-09-28 00:00:00 | 詩集
池井昌樹『母家』(4)(思潮社、2010年09月30日発行)

 詩は矛盾から成り立っている。それは池井昌樹の詩の場合も同じ。その矛盾のきわみは「本人」という作品かもしれない。

まわりにめいわくかけがちの
こまったおとこだったなああれは
きれいさっぱりはいにされ
こんなにちいさくなってしまった
ほんにんはでもいよいよげんき
くらいよみちをよみじへと
ひとりいそいそわがやへと
どんなにたのしかったか だとか
どんなにさびしかったか だとか
あとかたもないあたまのうえに
まんてんのほしちりばめながら

 「はいにされ」(灰にされ)、つまり死んでしまって骨を通り越し灰になっている。その男が「いよいよげんき」に歩いている。
 死んでいるの? 生きているの?
 死にながら、黄泉路(よみじ)を歩いている。まるで家へ帰るように。
 で、死んでいるの? 生きているの?

 こんなことは問うてみてもはじまらない。この男は死ぬことを生きているのである。

 と、書いてみても、なんの解決(?)というか、答え(?)にもならない。もし、詩に答えが必要なのなら、次のように考えればいい。
 「虹の彼方」という作品。(感じが難しいので、私のワープロでは変換できない。その部分は●(ルビ)という形で引用すると……。

あそこをわたしがあるいている
(略)
あのやまこえてたにこえて
にじのかなたへきえてしまった
にじのかなたへきえてしまった
わたしをおもいだしながら
こんなならくのそこなしの
まっくらやみのどのあたり
わたしはひとりあきらめている
わたしはあきらめきれないでいる
つきが●(み)ち
またつきが●(か)け
ひとが往(ゆ)き
またひとが生(あ)れ

 ここにあるわかりやすい(?)矛盾は「わたしはひとりあきらめている」と「わたしはあきらめきれないでいる」である。どっちなの? 両方を同時に生きることはできない。
 これを「矛盾」ではない形にするためには、どうすればいいか。「学校教科書」文法でも、矛盾しない文章にするにはどうすればいいか。
 「また」を挿入すればいい。「また」をつかって、ふたつの文章をつなげればいい。それにつづく4行の部分に出てくる「また」をここにもつかえばいいのである。実際、ここには「また」があるのだけれど、それは池井にとってはあたりまえすぎるので(肉体になってしまっている、思想になってしまっているので)、省略されているのだ。

わたしはひとりあきらめている
またわたしはあきらめきれないでいる

 こうしてみても矛盾に見えるかもしれない。そういう人は、私の昨日の「日記」を呼んでもらいたい。「また」は池井にとっては「まだ」であり、「なんどでも」であり、繰り返しなのだ。あきらめているつもりなのに、ほんとうは「まだ」あきらめきれない。(きれない、に「まだ」のニュアンスが濃く含まれている。)そしてそれはいまはじめての体験ではなく「また」同じ体験をしている。「また」同じことを、繰り返しているのだ。
 この「また」「まだ」「なんどでも」の繰り返しは、その行為をひとりの人間にあてはめると「しつこい」粘着質のものになってしまうが、世界は「また」「まだ」「なんどでも」の繰り返しで成り立っている。
 月は満ちては欠ける。その繰り返しは「まだ」おわらない。「また」同じことが繰り返されている。でも、そういうことに対して、人は「しつこい」とはいわない。そこには、そういう「法則」(真理)がある、とだけ思う。月は満ちて欠けて、また満ちる。そういう繰り返しが天体の真理である。
 そして、そういう「宇宙」の真理を基準にして言えば、人は死んで、また生まれる。何度死んでも「まだ」生まれてくる。
 繰り返しがあるだけだ。
 そして、その繰り返しのなかで「矛盾」は「真理」にかわる。「永遠」にかわる。「矛盾」を繰り返すことで、「真理」はやっと見えてくる。月が満ちたまま(満月のまま)だったら、見えない「真理」がある。満ちて欠けるという繰り返しのなかで見えてくるものがある。ひとが死んでいくだけでもみえてこないものがある。死んで、そして生まれてくるという繰り返し、その歴史のなかで見えてくるものがある。「矛盾」を突き破って見えてくるものがある。
 池井が見ているのは、そういう世界なのだ。

 「矛盾」を見つけるたびに、その「矛盾」のなかで、はてしない循環運動、円運動が繰り返される。
 そして、その「円」そのものとして池井は肥え太っていく。

 いまの池井のことはよく知らない。しかし、昔、池井はまるまると肥え太っていた。それは池井の無意識が選んだ「真理」だったのだと思う。「肉体」でまだ自覚していない「真理」を先取りしていたのだ。特にラーメンなどを食べたあとは丼をそのまま飲み込んだかと思うほど腹が膨れ上がり、でぶでぶの体が強調されたあのころの池井は醜くて、その醜さが不思議と純粋に輝いていたが、そういう矛盾は、まだことばを動かしはじめたばかりの池井の「肉体」がかってに先取りしていた「真理」というものだったのだろうと思う。
 いま、もし、池井がやせているとしたら、それは池井のこころが、まるまると肥え太っていることの反動かもしれない。



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