すとうやすお『みずたまり』(書肆山田、2010年07月31日発行)
すとうやすお『みずたまり』。その2番目の詩、「あまつぶ」は不思議な作品だ。
終わりから3行目の「そのときを」の「を」。「を」はこういうつかい方をしない。そのとき「に」なら、学校教科書に出て来る。でも、すとうは「に」ではなく「を」と書く。とき「を」ゆめからさめた。そして、「ぼくしか/しらない」何かを知った。それは、なんだろう。とき「を」ゆめからさめる--ということかもしれない。
こんなことは、どれだけ書いても堂々巡りだ。
どう書いていいか、わからない。わからないけれど、この1行に私はつまずき、この1行に強くひかれるのだ。
わからないまま、読んでいくと「あるとき」という詩が出て来る。
ここに書いてあることはほんとうのことだろうか。地球が音もなくまわっている--というのは、よくわからない。地球がまわっているというのは「事実」であると言われるが、それが「音もなく」かどうかは、私にはわからない。すとうがわかっているかどうか--それも、よくわからない。
ここからわかることは、すとうは、実感できないもの(私にだけではなく、すとうにも実感できないもの--つまり地球がまわっているということ)を、「笹のひと茎」という小さなものをとおして把握しようとしている、ということである。笹の茎がゆれるのは、すとうには確認できる。私も、それを機会さえあれば見ることができる。その、見ることのできるものをとおして、見えないもの(地球がまわる姿)をすとうは見ている。把握しようとしている。
「ふゆのおわり」を読んでみる。
大根に「へそ」などない。「へそ」はないのだけれど、「比喩」によってことばにする。「ことば」にすることで、ないものが「実感」になり、「事実」になる。
存在しないもの、存在しない「感情」さえも、「ことば」にすれば「事実」になる。地球はまわっているというのは、また別の事実だが、その事実を「ことば」によって、すとうはつくりあげる。笹の茎を手がかりに、「ゆれる」という「ことば」を手がかりに、「実感」をすとうの「肉体」に取り込もうとしている。
同じことが、
にもあるのだ。
「を」という、学校教科書では、そこには「存在しない」助詞を書くことで、そこには何かが生まれている。それは「何か」としか言えないもの、すとうの「実感」そのものであると感じる。
すとうの「実感」である。すとうの「実感」でしかない。--だから、私には、その「を」がわからない。わからないから、わかりたい。
この
を知るためには、それに先行する行、先行することばが重要なのかもしれない。その行の前に書かれていることに、「を」の秘密があるのかもしれない。
雨粒は「あっ」とも「あ」とも叫ばない。もともと声をもたない。だから、これもほんとうのことではなく「比喩」、一種の「嘘」なのだが--その嘘のあとの、「雨粒ではなくなる」。この「なく・なる」が、すとうの「思想」(肉体)かもしれない、と、いま、思うのだ。
ある存在に、ことばをつけくわえる。存在を「ことば」にする。そのとき、ことばが「比喩」ではなくても、存在は存在では「なく・なる」。「ことば」になる。
存在では「なく」、ことばに「なる」。
すとうの書く「なく・なる」には、そういう回路、運動の径路があるかもしれない。そして、
というのは、そういう回路・径路「を」ということかもしれない。
そういう「回路・径路」を通り、夢から覚めた。その「径路・回路」は、「ぼくしか/しらない」。その「径路・回路」をつくっているのは「ぼく」の「ことば」だからである。
このとき、すとうの書く「とき」は「径路・回路」という「場」である。
「とき(時間)」と「場(空間)」は、現代物理学では「一体」のものである。切り離すことはできない。それは「場」を「とき」と呼んでも、ある意味では同じことである、ということかもしれない。
という1行で、すとうが書こうとしているのは、そういう「思想」なのだと、私は思った。
もう一篇、引用する。「じゃがいもをうえる」。
「考える」。あ、そうなのだ。すとうの詩は、「考える」ためのことばなのだ。「考え」が動いた「ことば」なのだ。
「思想」なのだ。
すとうやすお『みずたまり』。その2番目の詩、「あまつぶ」は不思議な作品だ。
ひとつぶ
ひとつぶ
かぜをちさくきって
やねがわらにぶつかると
あっ
あ と
それぞれにさけんで
あまつぶではなくなる
そのときを
ゆめからさめた
ぼくしか
しらない
終わりから3行目の「そのときを」の「を」。「を」はこういうつかい方をしない。そのとき「に」なら、学校教科書に出て来る。でも、すとうは「に」ではなく「を」と書く。とき「を」ゆめからさめた。そして、「ぼくしか/しらない」何かを知った。それは、なんだろう。とき「を」ゆめからさめる--ということかもしれない。
こんなことは、どれだけ書いても堂々巡りだ。
どう書いていいか、わからない。わからないけれど、この1行に私はつまずき、この1行に強くひかれるのだ。
わからないまま、読んでいくと「あるとき」という詩が出て来る。
ぴかり
かぜが
いきをころす
このゆうべ
ささの
ひとくきが
おもわず
ゆれるのは
ちきゅうが
たしかに
おともなく
まわるからだ
ここに書いてあることはほんとうのことだろうか。地球が音もなくまわっている--というのは、よくわからない。地球がまわっているというのは「事実」であると言われるが、それが「音もなく」かどうかは、私にはわからない。すとうがわかっているかどうか--それも、よくわからない。
ここからわかることは、すとうは、実感できないもの(私にだけではなく、すとうにも実感できないもの--つまり地球がまわっているということ)を、「笹のひと茎」という小さなものをとおして把握しようとしている、ということである。笹の茎がゆれるのは、すとうには確認できる。私も、それを機会さえあれば見ることができる。その、見ることのできるものをとおして、見えないもの(地球がまわる姿)をすとうは見ている。把握しようとしている。
「ふゆのおわり」を読んでみる。
くもたちは
ちぎれ ちぎれに
はたけをかすめて
うねまには
ゆきがのこるが
ときおりひざしは
みるくいろに
におって
だいこんは
ぬかれそこねて
へそまでだして
あくびをする
大根に「へそ」などない。「へそ」はないのだけれど、「比喩」によってことばにする。「ことば」にすることで、ないものが「実感」になり、「事実」になる。
存在しないもの、存在しない「感情」さえも、「ことば」にすれば「事実」になる。地球はまわっているというのは、また別の事実だが、その事実を「ことば」によって、すとうはつくりあげる。笹の茎を手がかりに、「ゆれる」という「ことば」を手がかりに、「実感」をすとうの「肉体」に取り込もうとしている。
同じことが、
そのときを
にもあるのだ。
「を」という、学校教科書では、そこには「存在しない」助詞を書くことで、そこには何かが生まれている。それは「何か」としか言えないもの、すとうの「実感」そのものであると感じる。
すとうの「実感」である。すとうの「実感」でしかない。--だから、私には、その「を」がわからない。わからないから、わかりたい。
この
そのとき「を」
を知るためには、それに先行する行、先行することばが重要なのかもしれない。その行の前に書かれていることに、「を」の秘密があるのかもしれない。
あっ
あ と
それぞれにさけんで
あまつぶではなくなる
雨粒は「あっ」とも「あ」とも叫ばない。もともと声をもたない。だから、これもほんとうのことではなく「比喩」、一種の「嘘」なのだが--その嘘のあとの、「雨粒ではなくなる」。この「なく・なる」が、すとうの「思想」(肉体)かもしれない、と、いま、思うのだ。
ある存在に、ことばをつけくわえる。存在を「ことば」にする。そのとき、ことばが「比喩」ではなくても、存在は存在では「なく・なる」。「ことば」になる。
存在では「なく」、ことばに「なる」。
すとうの書く「なく・なる」には、そういう回路、運動の径路があるかもしれない。そして、
そのときを
というのは、そういう回路・径路「を」ということかもしれない。
そういう「回路・径路」を通り、夢から覚めた。その「径路・回路」は、「ぼくしか/しらない」。その「径路・回路」をつくっているのは「ぼく」の「ことば」だからである。
このとき、すとうの書く「とき」は「径路・回路」という「場」である。
「とき(時間)」と「場(空間)」は、現代物理学では「一体」のものである。切り離すことはできない。それは「場」を「とき」と呼んでも、ある意味では同じことである、ということかもしれない。
そのときを
という1行で、すとうが書こうとしているのは、そういう「思想」なのだと、私は思った。
もう一篇、引用する。「じゃがいもをうえる」。
きりくちに
はいをまぶすと
めいわくがお
うねにならべて
ふせると
しんこきゅう
つちをかぶせると
これで
だいじょうぶ
これから
なにをすべきか
かんがえるだけ
「考える」。あ、そうなのだ。すとうの詩は、「考える」ためのことばなのだ。「考え」が動いた「ことば」なのだ。
「思想」なのだ。