詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

ビリー・ワイルダー監督「お熱いのがお好き」(★★★)

2010-09-07 11:17:38 | 午前十時の映画祭

監督 ビリー・ワイルダー 出演 マリリン・モンロー、トニー・カーティス、ジャック・レモン、ジョージ・ラフト

 マリリン・モンローが♪アイ・ウォナ・ビ・ラブ(ド)・バイ・ユーがとても魅力的だ。この声で、学校教科書のアイ・ウォント・トゥが「アイ・ウォナ」ということを知った。「ビー」も「ビ」、「ラブド」の「ド」なんか発音せずに舌を歯茎の裏側に強く押し当て、息をその両側にそっともらすだけ、ということも。
 やっぱり、生(?)の英語(アメリカ語)はいいなあ。
 聞きながら、ケネディー大統領の誕生日に、マリリン・モンローが♪ハッピ・バー(ス)ディ・ミスタ・プレジデン(ト)と歌ったのをテレビで見たのも思い出したなあ。
 うまい歌というわけでもないんだろうけれど、いろいろ想像させるね。
 ジャック・レモンと富豪の老人がタンゴを踊るシーンもおもしろいなあ。
 マリリンが、ジッャクの胸をみて「ぺちゃんこでいいわねえ。どんな服でも似合うから」というシーンも好きだなあ。いまの女優に比べるとマリリンはそんなにグラマーというわけでもないのだけれど、昔は胸が大きい女優は多くはなかったのだ。
 映画は--まあ、映画はどっちにしろ嘘なんだから、トニー・カーティス、ジャック・レモンの女装なんて、モノクロならではのお遊び。(女装する前の、トニー・カーティスの長いまつげの方が、妙にオカマっぽい。)夜行寝台の、ジャック・レモンのベッドにみんながあつまってくるなんていうデタラメなんか楽しくていいなあ。

(「午前十時の映画祭」31本目)

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誰も書かなかった西脇順三郎(139 )

2010-09-07 09:33:50 | 誰も書かなかった西脇順三郎

 「失われたとき」のつづき。
 次の3行も、とても好きである。

旅人よ汝の名はつかれであり方向がない
路ばたから花咲くハシドイの枝を折り
リラの杖を作つて失われた永遠をさがした

 「方向がない」は「漂泊」という意味くらいかもしれない。「漂泊」だと、なんだかセンチメンタルである。センチメンタルによごれている感じがする。それを「方向がない」と「わざと」物理的にいってしまうと、そこに新鮮な風が吹く。空気が新しくなる。
 「路ばた」の行の「花咲く」はとても不思議だ。甘ったるい描写に見えるが、この「花咲く」は絵画的な描写ではない。「花咲く」の「は」は「ハシドイ」の「は」。音を誘い込むための「枕詞」である。そしてそれは「路ばた」の「ば」からはじまっている。「路ばた」の「ろ」は「から」の「ら」、「折り」の「り」とつづくことで「ら行」を動かし、次の「リラ」の「り」へつづく。
 西脇のことばは、いつでも「音」がひびきあう。音がひびきあうことでリズムと和音をつくる。音楽になる。
 「杖を作つて」には「つ」の繰り返しがある。

 つづく2行。

ビッコをひいて再びさまよつた
これらのカラフィルムは存在の不幸だ

 ここにも「音」の呼応がある。「ビ」っこを「ひ」いて再「び」さまよつた。こ「れ」「ら」のカか「ラ」フィ「ル」ム、「フ」ィルムは存在の「不」幸だ。
 「カラフィルム」はもちろん「カラーフィルム」であり、それは西脇が(旅人が)見た風景・存在ということになるのだろうけれど、「空」フィルム、無のフィルムという「誤読」をしてみたい気持ちにさせられる。「存在の不幸だ」は「不在の不幸だ」と、あるとき、突然、文字をかえて目に飛びこんでくる。
 「フ」ィルム、「不」幸の「ふ」が「不在」を呼び込み、「不在」が「空」(あるいは、クウと読むべきか)を誘っている。
 これはもちろん私の「誤読」だが、そういう「誤読」を私は、きょう読んだ数行を借用して「方向がない」誤読--この「誤読」には「方向がない」と書いてみたい。
 もちろん、私の「誤読」にははっきりした「方向」があるのだが、あるからこそ「方向がない」と逆説的にいうのである。
 なぜか。

旅人よ汝の名はつかれであり方向がない

 この「方向がない」も私には逆説に感じられるからだ。「方向がない」のではない。「方向」ははっきりしている。「音楽」である。そして、その「音楽」は「絵画」の基準に照らせば、「方向」を定義できない。だから、とりえあず「方向がない」というだけなのである。




評伝 西脇順三郎
新倉 俊一
慶應義塾大学出版会

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水根たみ『一粒の影』

2010-09-07 00:00:00 | 詩集
水根たみ『一粒の影』(あざみ書房、2010年09月20日発行)

 水根たみ『一粒の影』はとても短い詩で構成された詩集である。
 たとえば、「不可解な時間」。

猫が
ジャンプする

三角屋根の後から
満月が音をたてて昇ってくる

北向きの窓辺に立つ女
動揺する

 この3連目は「北向きの窓辺に立つ女(が)/動揺する」であると「学校教科書」の文法なら主張するだろう。「が」を補わないと「文」として認めてくれないかもしれない。(詩としても認めてくれないかもしれない。)
 なぜ、「が」が省略されてしまったのだろう。
 「満月が音をたてて昇ってくる」という「事実」に驚いてしまって、ことばが乱れたのである。
 ほーっ。
 私は、ちょっと感心した。
 しかし、感心してうなる、というところまでは行かなかった。「満月の音」が聞こえなかったからである。
 「が」が驚きにのみ込まれ、消えていくときの不思議な音は聞こえたが、書かれているはずの「満月の音(昇ってくる音)」が聞こえない。
 何か、ことばが不完全燃焼を起こしている感じが残る。
 「日没」でも同じことを感じた。

リンゴ色をした夕暮が
ビルの窓から落ちた

限りなく
不透明な音である

 「音」ということばは書かれているが、水根は「音楽的詩人」というより「絵画的詩人」なのかもしれない。そこに書かれているのは「絵画」である。
 「休憩の時間」。

寒い朝
鳩が一羽

冷気中に潜む
暖を探し当て

〇・一秒
空中に止まる

 「運動」ではなく「静止」。「空中に止まる」は「静止」をあらわしている。「静止」も「音楽」のなかにあるけれど、「絵画」はもっと「静止」的である。
 水根のことばは対象と出会いながら、一瞬一瞬、静止する。対象と出会って、変化し、その変化に絶えるようにして一瞬静止する。その静止を描く。絵画になる。
 
 たぶん藤富保男だと思うのだが、こういう対象とことばを関係を「帯」で次のように書いている。

 対象に目を注ぐときは、事実、現実を輸入する。さて作品化する段に変形して輸出するのは詩の常識である。その加工の妙を水根たみは持っている。

 たしかにそうなのだが、私には不満が残る。そこでは「ことば」が簡単に信じられすぎている。
 「現代詩」は水根とは逆の操作をする。ことばを輸入し、それを叩き壊す。素材そのものに還元する。そして、そのことばを運動させる。「静止」してはだめなのだ。叩き壊され、エネルギーそのものになった「ことばの原型」が運動していく--そして、そこで鳴り響く「音」が詩なのだ、「現代詩」なのだと、私は感じている。

北向きの窓辺に立つ女
動揺する

 に、ふいにあらわれた「消滅の音楽」、その運動が、ことばの運動をもっと刺激すると何かがかわる。そんな予感はするが……。

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