詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

誰も書かなかった西脇順三郎(146 )

2010-09-17 10:08:49 | 誰も書かなかった西脇順三郎

 「失われたとき」のつづき。

七月の末になつてしまつた
カメキューラの山々には
ネムの木に花が咲きかける

 2行目の「カメキューラ」は何だろう。たぶん「カマクラ、鎌倉」なのだろうが、なぜ、そんな不思議な音にして書く必要があったのか。
 こんなことは、よくわからない。いや、まったくわからない。「鎌倉」だと「ノイズ」にならない。「カマクラ」でも、つまらないのだ。
 「オーメ街道」ということばが以前でてきたが、「青梅街道」でも「オウメ街道」でもきっとだめなのだと思う。声に出してしまえば同じだが、いや、同じだからこそ、違った表記にすることで「音」を印象づけようとしたのではないだろうか。
 西脇が朗読をする詩人だったかどうか知らないが、書くということは西脇にとっては朗読と同じだったのだと思う。声には出さないが、ことばを書くとき、発声器官が動く。その発声器官に対して「文字」を変化させることで「ノイズ」を送る。「ノイズ」を受け取ると、そこで「和音」が違ってくる。聞き慣れない「音」が紛れ込む。西脇はその刺激が好きだったのではないのか。
 「ノイズ」によって「鎌倉」が「鎌倉」から離れる。鎌倉でありながら、鎌倉でなくなる。「カメキューラ」という、その「音」を出すときにのみ存在する「場」になる。そこにさく「ネムの木」も独自のものになる。孤立したものになる。
 詩は、現実から離脱した存在なのである。
 鎌倉ではなく、カメキューラであるとき、その後に出てくる「ゼウス」も「ペネロペ」もギリシャとは無関係である。たとえ、その音があらわすものがギリシャ神話の神と同じ名前であっても、それをギリシャ神話のゼウスと考えてはいけない。そこから分離したもの、無関係なものと考えないといけないのではないか、と思う。

 ことばには必ず「出典」がある。その「出典」を特定し、詩のことばを説明する--そういうやり方に私はかなり疑問を持っている。それは、きょう読んでいる「カメキューラ」のような部分を読むと強く感じる。
 西脇は、それがまぎれもない「鎌倉」であっても、鎌倉ではなく「カメキューラ」という土地へ離脱して書こうとしている。そうであるとき、そこに登場するたとえばゼウスがギリシャ神話のゼウスそのままでいいはずがない。違った存在として登場してこないと、「カメキューラ」を異化することができない。
 「カメキューラ」はギリシャ神話によって異化されただけのものになってしまう。そんなことなら「カメキューラ」にする必要はない。鎌倉とギリシャ神話の出会い自体に「異化」が含まれているからである。

 こうした、「わざと」仕組んだことばによって西脇は何に出会おうとしているのか。
 ふたつの部分が、私には気にかかる。

二人は何も語らないが
果てしないものを語っている
二人は何にもふれないが
はてしないものにふれている
何も見ないが
永遠にさけたいものを見ている

「すべて大切なものは大切ではない
大切でないものが大切である
すべてが同じものであーる
山のはじまるところと
山のおわるところは同じところだ」

 矛盾したもの。対立したもの。それが「出会う」瞬間、「同じ」になる。「二人」ということばがあるが、「二人」は二人であるが、出会い、「一人」になる。「同じ」ものについて考える。「同じ」ものを見る。
 引用した部分は「禅問答」みたいだが、禅の「問答」も、現実を「異化」するための仕組みかもしれない。現実を異化することで、ほんとうに出会おうとする。「来歴」をすてさり、「個」になる。
 「個」になることによって、自由になる。自由な出会い、自由な衝突、自由なビッグバン。
 「カメキューラ」には、そんな夢想が含まれているかもしれない。



西脇順三郎コレクション〈第4巻〉評論集1―超現実主義詩論 シュルレアリスム文学論 輪のある世界 純粋な鴬
西脇 順三郎
慶應義塾大学出版会

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万亀佳子『夜の中の家族』

2010-09-17 00:00:00 | 詩集
万亀佳子『夜の中の家族』(花神社、2010年08月31日発行)

 万亀佳子『夜の中の家族』は、最初は何が書いてあるのかわからなかった。「だんご虫」の書き出し。

この上にひとつの家族がいる
丸く丸くなって転がっている小さな虫ほどの

小春日和の公園
ダンボールハウスの男が
拾い集めた古紙の中から抜き出した雑誌を
読んでいる
ハイチで地球のかさぶたが少し剥げた

 「家族」と、その「家族」がこわれた状態の「ダンボールハウスの男」。そういうものに万亀の視線が動いていることはわかる。
 「石かぼちゃ」。

踏み切りのそばに住んでいた
かんかん かんかん かんかん

いつも不機嫌な父とおどおどした母
言葉を覚えない妹がいて
家の中はいつも遮断機がおりていた

線路脇の空き地にかぼちゃを育てていた
かぼちゃのつるは夜の間に
枕木のあたりまで伸びていて
死にに行く父の足に巻きついて

 ここにも家族が出てくる。その家族は、けれど孤立している。「遮断機」が家の中にあって家族を孤立させている。
 なんだか、つらい「家族」の物語がはじまりそうな予感のする詩集である。そのつらい「家族」の「自分史」のようなものが、この詩集のテーマだろうか。そう思いながら読み進めた。
 そして、「海田駅」という詩に出会う。

構内一番ホーム
一本の桜の木がある
煤けた駅舎をからかうように
五月の葉群を噴き上げている

ご存知ですか?
毎年テレビや新聞が取材に来て、この写真を撮っていくのを
春まだ浅いころに咲く寒桜です

ここで上り線は山陽本線と呉線に分かれる
山陽線が延びてきたのは一八……年、日清戦争の時
呉線が出来たのは一九……年、日露戦争の時

(略)

桜、きれいですよ
来年見に来てください
花はいっぱい戦争を見てきていますから

 この最後の連で、あ、こういうことが万亀は書きたいのだと思った。桜は「戦争」をたくさん見てきている。だから、美しい。個人の力ではどうしようもない何か、それに動かされている人々--その暮らし。その悲しみ。それをたくさん見てきている。だから、美しい。「戦争」は事実であり、また事実を超えた永遠でもある。象徴である。
 万亀も、そういうものをたくさん見てきた。そういう時間を生きてきた。そして、そうした「時間」をくぐりぬけてきた「ことば」を書く。「ことば」のなかに「花」を開かせようとしている。
 そして、それは「家族」ではなく、「他人」を描くとき、美しく開くように、私には思える。
 「セールスマン」。

たかはしのたかは梯子だかですと
●橋君が言った
刷りたての名刺を示して
頬が赤らんでいる

新人の●橋君は商品説明の代わりに
自分を営業して歩かなければいけない
売るもののいかがわしさより
説明しようのない自分に足がすくんでいる
               (谷内注・●はいわゆる「高」の俗字の「梯子高」)

 たかしに、たくさん見てきたから見えるものがある。商品よりも自分をまず「売る」ことをしなければならない人がいる。そういう暮らしが(仕事が)ある。人は「もの」を買うと、「もの」を売った人を忘れることがある。忘れられても、その人は生きている。
 あらゆる人は、あるとき、忘れられる。無理して忘れるときもある。けれども、その人は生きている。そして、その生きているなかには、桜と同じように美しいものがあるはずなのだ。たとえば、はじめての名刺を示しながら赤らめる頬のようなものが。
 私には、万亀のそれをうまくすくい上げることはできないが、万亀はたしかにそういうものを書こうとしている。ことばにしようとしている。そのことを「海田駅」と「セールスマン」から感じた。

 「ここ」という詩にも、強くこころを動かされた。

まだ遠い先のこと
私は生まれ変わって
あなたと入れ代わって
ここに坐っている
(略)

まだ遠い先のこと
私は死に変わって
あなたと入れ代わって
ここを歩いている

 「生まれ変わって」とはときどきつかうことばである。「死に変わって」ということばは私ははじめて知った。生まれること、死ぬこと、坐ること、歩くことが万亀のなかでは同じなのである。それは人間は生まれて、死ぬのが当然のことであり、それは時間のなか引き継がれ永遠になるということでもある。その永遠が見えるのは、「いっぱい見てきた」人間だけということになる。
 万亀は、いっぱい見る。そして、そのことばは「きれい」になる。いや、そういうことばをとおして、万亀は見てきたものを、たとえば家族を「きれい」にするのである。苦しみも、悲しみも超越して、そこに「きれい」を発見し、育てるのである。そのために詩を書くのである。
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