「失われたとき」のつづき。
七月の末になつてしまつた
カメキューラの山々には
ネムの木に花が咲きかける
2行目の「カメキューラ」は何だろう。たぶん「カマクラ、鎌倉」なのだろうが、なぜ、そんな不思議な音にして書く必要があったのか。
こんなことは、よくわからない。いや、まったくわからない。「鎌倉」だと「ノイズ」にならない。「カマクラ」でも、つまらないのだ。
「オーメ街道」ということばが以前でてきたが、「青梅街道」でも「オウメ街道」でもきっとだめなのだと思う。声に出してしまえば同じだが、いや、同じだからこそ、違った表記にすることで「音」を印象づけようとしたのではないだろうか。
西脇が朗読をする詩人だったかどうか知らないが、書くということは西脇にとっては朗読と同じだったのだと思う。声には出さないが、ことばを書くとき、発声器官が動く。その発声器官に対して「文字」を変化させることで「ノイズ」を送る。「ノイズ」を受け取ると、そこで「和音」が違ってくる。聞き慣れない「音」が紛れ込む。西脇はその刺激が好きだったのではないのか。
「ノイズ」によって「鎌倉」が「鎌倉」から離れる。鎌倉でありながら、鎌倉でなくなる。「カメキューラ」という、その「音」を出すときにのみ存在する「場」になる。そこにさく「ネムの木」も独自のものになる。孤立したものになる。
詩は、現実から離脱した存在なのである。
鎌倉ではなく、カメキューラであるとき、その後に出てくる「ゼウス」も「ペネロペ」もギリシャとは無関係である。たとえ、その音があらわすものがギリシャ神話の神と同じ名前であっても、それをギリシャ神話のゼウスと考えてはいけない。そこから分離したもの、無関係なものと考えないといけないのではないか、と思う。
ことばには必ず「出典」がある。その「出典」を特定し、詩のことばを説明する--そういうやり方に私はかなり疑問を持っている。それは、きょう読んでいる「カメキューラ」のような部分を読むと強く感じる。
西脇は、それがまぎれもない「鎌倉」であっても、鎌倉ではなく「カメキューラ」という土地へ離脱して書こうとしている。そうであるとき、そこに登場するたとえばゼウスがギリシャ神話のゼウスそのままでいいはずがない。違った存在として登場してこないと、「カメキューラ」を異化することができない。
「カメキューラ」はギリシャ神話によって異化されただけのものになってしまう。そんなことなら「カメキューラ」にする必要はない。鎌倉とギリシャ神話の出会い自体に「異化」が含まれているからである。
こうした、「わざと」仕組んだことばによって西脇は何に出会おうとしているのか。
ふたつの部分が、私には気にかかる。
二人は何も語らないが
果てしないものを語っている
二人は何にもふれないが
はてしないものにふれている
何も見ないが
永遠にさけたいものを見ている
「すべて大切なものは大切ではない
大切でないものが大切である
すべてが同じものであーる
山のはじまるところと
山のおわるところは同じところだ」
矛盾したもの。対立したもの。それが「出会う」瞬間、「同じ」になる。「二人」ということばがあるが、「二人」は二人であるが、出会い、「一人」になる。「同じ」ものについて考える。「同じ」ものを見る。
引用した部分は「禅問答」みたいだが、禅の「問答」も、現実を「異化」するための仕組みかもしれない。現実を異化することで、ほんとうに出会おうとする。「来歴」をすてさり、「個」になる。
「個」になることによって、自由になる。自由な出会い、自由な衝突、自由なビッグバン。
「カメキューラ」には、そんな夢想が含まれているかもしれない。
西脇順三郎コレクション〈第4巻〉評論集1―超現実主義詩論 シュルレアリスム文学論 輪のある世界 純粋な鴬西脇 順三郎慶應義塾大学出版会このアイテムの詳細を見る |