誰も書かなかった西脇順三郎(138 )
「失われたとき」のつづき。
西脇の長い詩には類似したことばが何度もでてくる。
という3行は、次のように変化する。
これは正確な繰り返しではなく、いわば「変奏」である。そしてそこでは、「真実」とか「永遠」が語られているのではなく、「差」という「もの」が語られている。あるいは、こういうべきなのか。「差」というものを叩くと、あるときは「距離と時間」「形態」と「色彩」があらわれ、別のあるときは「内面」と「外面」、「永遠」があらわれると。それらは「差」が叩かれることによって響きはじめる「音楽」なのである。
あ、これはどこかで聞いたことがある--そういう印象が、西脇のことばを読む度に浮かんでくる。
それは、一種の「転調」のように感じられる。「転調」することで、つかわれる「楽器」もかわってくるときがあるけれど、それを突き動かしている「旋律」は同じである。
ここでは「差」が動かしている。
という突然の行(108 ページ)は、つぎのページで、変奏されて、こうなる。
「狼」でも「シュルレエリスト」でもなく、「こまるだべ」というやわらかな口語。方言。なまり。そういう「肉体」の音。
他方に「差」という「哲学」があり、もう一方に「肉体」の音がある。
それはたとえて言えば、合唱付きの交響曲のようなものかもしれない。
「哲学」に「肉体」がどこで交錯し、「和音」となって、また新しい音楽になるのか--それは、私には、まだ言うことができない。永遠に言うことはできないかもしれない。しかし、そういうものを感じる。
「失われたとき」のつづき。
西脇の長い詩には類似したことばが何度もでてくる。
距離と時間の差は形態と色彩の
差であるデカルトはこの差をおそれた
方向の差はエネルギーとなる
という3行は、次のように変化する。
永遠は内面でも外面の世界でもない
空でも有でもない
これらは方向の差にすぎない
方向の消滅したところに永遠がある
方向のなくなるところに
神のめぐみがある永遠がある
これは正確な繰り返しではなく、いわば「変奏」である。そしてそこでは、「真実」とか「永遠」が語られているのではなく、「差」という「もの」が語られている。あるいは、こういうべきなのか。「差」というものを叩くと、あるときは「距離と時間」「形態」と「色彩」があらわれ、別のあるときは「内面」と「外面」、「永遠」があらわれると。それらは「差」が叩かれることによって響きはじめる「音楽」なのである。
あ、これはどこかで聞いたことがある--そういう印象が、西脇のことばを読む度に浮かんでくる。
それは、一種の「転調」のように感じられる。「転調」することで、つかわれる「楽器」もかわってくるときがあるけれど、それを突き動かしている「旋律」は同じである。
ここでは「差」が動かしている。
「まむしがいそうだな」
という突然の行(108 ページ)は、つぎのページで、変奏されて、こうなる。
「狼が時々出ますか」
「シュルレアリストが出てペルノを飲まして
こまるだべ」
「狼」でも「シュルレエリスト」でもなく、「こまるだべ」というやわらかな口語。方言。なまり。そういう「肉体」の音。
他方に「差」という「哲学」があり、もう一方に「肉体」の音がある。
それはたとえて言えば、合唱付きの交響曲のようなものかもしれない。
「哲学」に「肉体」がどこで交錯し、「和音」となって、また新しい音楽になるのか--それは、私には、まだ言うことができない。永遠に言うことはできないかもしれない。しかし、そういうものを感じる。
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