詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

誰も書かなかった西脇順三郎(138 )

2010-09-05 23:39:46 | 誰も書かなかった西脇順三郎
誰も書かなかった西脇順三郎(138 )

 「失われたとき」のつづき。
 西脇の長い詩には類似したことばが何度もでてくる。

距離と時間の差は形態と色彩の
差であるデカルトはこの差をおそれた
方向の差はエネルギーとなる

 という3行は、次のように変化する。

永遠は内面でも外面の世界でもない
空でも有でもない
これらは方向の差にすぎない
方向の消滅したところに永遠がある
方向のなくなるところに
神のめぐみがある永遠がある

 これは正確な繰り返しではなく、いわば「変奏」である。そしてそこでは、「真実」とか「永遠」が語られているのではなく、「差」という「もの」が語られている。あるいは、こういうべきなのか。「差」というものを叩くと、あるときは「距離と時間」「形態」と「色彩」があらわれ、別のあるときは「内面」と「外面」、「永遠」があらわれると。それらは「差」が叩かれることによって響きはじめる「音楽」なのである。
 あ、これはどこかで聞いたことがある--そういう印象が、西脇のことばを読む度に浮かんでくる。
 それは、一種の「転調」のように感じられる。「転調」することで、つかわれる「楽器」もかわってくるときがあるけれど、それを突き動かしている「旋律」は同じである。
 ここでは「差」が動かしている。

「まむしがいそうだな」

 という突然の行(108 ページ)は、つぎのページで、変奏されて、こうなる。

「狼が時々出ますか」
「シュルレアリストが出てペルノを飲まして
こまるだべ」

 「狼」でも「シュルレエリスト」でもなく、「こまるだべ」というやわらかな口語。方言。なまり。そういう「肉体」の音。
 他方に「差」という「哲学」があり、もう一方に「肉体」の音がある。
 それはたとえて言えば、合唱付きの交響曲のようなものかもしれない。
 「哲学」に「肉体」がどこで交錯し、「和音」となって、また新しい音楽になるのか--それは、私には、まだ言うことができない。永遠に言うことはできないかもしれない。しかし、そういうものを感じる。


評伝 西脇順三郎
新倉 俊一
慶應義塾大学出版会

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長嶋南子「だれですか」

2010-09-05 00:00:00 | 詩(雑誌・同人誌)
長嶋南子「だれですか」(「きょうは詩人」16、2010年07月31日)

 長嶋南子「だれですか」は96歳の母親との暮らし、そこで思ったことを書いている。

九十六歳のおかあさんは
わたしのことをおばあさんと呼びます
おかあさんはきょう
ニンシンしたみたいなの といいました
きのうは「君 恋し」を口ずさみながら
お嫁にいきたいといっていました
あたしはおかっぱ頭の少女でしょう
これがあのしっかり者のおかあさんだと思うと
つい涙ぐみ
わたしは涙もろいおばあさんですか

おかあさんは昭子と勝と和子と洋子と憲子を産み
昭子は甲と優と良を産み
勝は万紀と千秋と百花を産ませ
和子は十郎と八郎を産み
洋子は俊樹と春樹を産み
憲子はさくらとももを産み
ぶち猫は白猫と茶トラを産み
優は 万紀は さくらは…
ナンマンダブ ナンマンダブ まだまだ続く

 1連目から想像するに、長嶋のおかあさんは痴呆症らしい。のだけれど、2連目を読むとき、私は、それを忘れてしまう。おかあさんが産んだこどものなかに「南子」が入っていないのは、どうしてだろう、とちょっと思うのだけれど、それは置いておいて。
 2連目が、おもしろい。傑作である。
 おかあさんから生まれた子どもたちは、また子どもを産む。産ませる。
 それだけではなく、「名前」をつける。これがおもしろいなあ。昭子の子どもは「甲(乙・丙)「優・良(可)」となんだか通知表の成績みたい。勝の子どもは「万・千・百」。うーん、このあと子どもが生まれたらどうするんだろう。「十」まではいいとして、次は「一」、「零」? 「一」はいいとして「零」なんてねえ。その次はマイナス? まあ、それなりに何か考えるんだろうけれど。で、和子は「十」と「八」、洋子は「樹」で脚韻を踏み、憲子は「さくら」「もも」「りんご」「なし」、あ、そんなことは書いてないか。まあ、その書いてないことまで、私なんかはどうしても考えてしまうのだけれど、不思議だねえ、名前は。みんな、何かしらの「関連」がある。そこには「意味」がある。
 と、言ったあとでこんなことを書くのは不謹慎(?)かもしれないけれど。
 子どもを産むといえば猫も。「ぶち猫は白猫と茶トラを産み」。あ、いいなあ。とってもいいなあ。ぶち猫は子どもに「白猫」「茶トラ」と名前をつけるわけではなく、それは、強いて言えば長嶋がつけたんだろうけれど、こうやってみると、人間も猫も差がないね。
 「ナンマンダブ ナンマンダブ」の世界だ。子どもを産んで、名前をつけて、そこに「つながり」をつくる。そこにあるのは、ただ「つながる」ということだけ。
 「ナンマンダブ」というのは、そう声にすることで、あらゆる「つながり」に「つながる」ことだ。「つながる」ことで安心感が生まれる。
 長嶋が「ナンマンダブ ナンマンダブ」の世界をいいことだと思っているかどうかはわからないけれど、そういう世界があることを、拒絶しないで生きている。
 それは「いのち」を拒絶しないということなのだ。あるいは、「いのち」は拒絶できないということを、覚悟、ではなく、自然に受け入れることなのだ。
 「ナンマンダブ ナンマンダブ」
 それは、長嶋のおかあさんが、いつもつぶやくことばかもしれない。それは、たとえば南子という名前を言うために、たとえば南子が末っ子と仮定しての話だけれど、上から(産んだ順に)昭子・勝・和子・洋子・憲子……と思い出し、南子にたどりつくような何かであり、そんなふうにすべてをつなげて世界をとらえる「生き方」なのだ。
 痴呆症ではなく、「生き方」。そこには生きているいのちがある。それは「まだまだ続く」。永遠に続く。
 「永遠」はわからない。だから、「甲乙丙・優良可」「万・千・百」という具合に整理して(?)世界をとらえる。「ぶち・白・茶」も同じ。「永遠」をわかるための、「まだまだ続く」を理解するための(わかったつもりになるための)、「生き方」である。
 ことばは、そのことばのなかに何らかの夢を見て、その夢を「ひとつづき」のものとしてとらえてしまう。「ひとつづき」をつくることは、自分自身を「ひとつづき」のなかに置くという「生き方」なのだ。
 「ひとつづき」になってしまえば、「おかあさん」も「おかっぱ頭の少女」も関係ない。「甲乙丙」は「丙乙甲」とひとつづきにできるし、「万・千・百」は「百・千・万」とつなげることもできる。「おかっぱ頭の少女」が「おかあさん」の「おかあさん」(おばあさん)になったって、かまわない。昭子は「甲・優・良」を産むのだけれど、生まれることによって「甲・優・良」は昭子を「母」とし「産む」、生まれることで昭子を母に「する」のである。

 大切なのは「ひとつづき」、「つながる」ということ。「つなぐ」ということ。「だれ」であるかは、関係ないのだ。
 「おかあさん」は「わたし(長嶋)」の孫であってもかまわない。「おかあさん」が長嶋を「おばあさん」と呼んでもかまわないのだ。
 長嶋は、そういう「つながり」を受け入れている。肯定している。「つながる」という「生き方」を肯定している。「まだまだ続く」と。
 「生き方」というのは「思想」だな。


猫笑う
長嶋 南子
思潮社

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