詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

誰も書かなかった西脇順三郎(140 )

2010-09-08 23:19:28 | 誰も書かなかった西脇順三郎

 「失われたとき」のつづき。
 行の「渡り」は西脇の詩では頻繁に起きる。

ああ無限の淋しさはつまらないもの
からほとばしり出るのだ

 この2行は、そういう「渡り」のなかでも、とてもおもしろい。「ああ無限の淋しさはつまらないもの」は1行として完全に独立している。「無限の淋しさ」を定義して「つまらないもの」と言っているように見える。そう読んでしまう。
 読者に、そう読ませておいて、それを次の行でひっくりかえす。
 「無限の淋しさはつまらないもの(ではなく/無限の淋しさはつまらないもの)からほとばしり出るのだ」、あるいは「無限の淋しさはつまらないもの(ではなく/つまらないもの)から(無限の淋しさは)ほとばしり出るのだ」。「つまらないもの」からほとばしり出たものが「無限の淋しさ」である。
 「無限の淋しさ」は「つまらないもの」という定義は否定され、「つまらないもの」から「ほとばしり出たもの」が「無限の淋しさ」である。
 このとき「つまらないもの」は、否定されているのだが、同時に肯定されてもいる。「つまらないもの」がないと「無限の淋しさ」は存在しえない。それは「無限の淋しさ」を生み出す「母胎」であるのだから。
 「つまらないもの」は否定されながら、肯定されている。
 否定と肯定が、「渡り」の一瞬の間に交錯する。「渡り」のなかに、「矛盾」があり、その「矛盾」は、東洋思想でいう「無」であるように見える。(「無」は「ではなく」の「なく」のなかにある。)「混沌」であるように見える。そこには何もないのではなく、まだ「形式」がないだけであり、エネルギーは満ちあふれている。「矛盾」したものが満ちあふれ、形になりきれていないが、ある何かの「作用」があれば、それは新しい形に結晶化する--そういう「場」としての「無」。
 「渡り」は「無」という「場」なのだ。「場」としての「無」なのだ。
 「無限の淋しさ」は「つまらないもの」ではなく、「つまらないもの」から「ほとばしり出たもの」。つまり、それは「ほとばしり出る」という運動であり、その運動の「場」が「渡り」なのだ。

 「つまらないもの」は否定されながら、肯定されている。--と書いたが、そうなのか。そうではなく、「つまらないもの」とそこから「ほとばしり出たもの」は「無限の淋しさ」のなかで、結合している。「ほとばしり出る」というのは、存在の内部と外部を直結する運動であり、その運動のなかで「つまらないもの」と「つまらなくないもの(無限の淋しさ)」は区別がない。同等である。
 この「矛盾」が「無」という「場」。
 詩をつづけて読んでいけばわかる。どれが「つまらないもの」なのか、そして、どれが「つまらないものからほとばしり出た」もの、つまり「無限の淋しさ」として肯定されたものなのか、区別がつかない。

詩人は葡萄畑へ出かけて
こい葡萄酒をただでのむだろう
クレーの夜の庭で満月をみながら
美容師と女あんまは愛らしいひょうたんを
たかむけてシェリー酒をのんでいる
ああ無限の淋しさはつまらないもの
からほとばしり出るのだ
お寺の庭の池のそばにはもう
クコの実が真赤になつてぶらさがる
ダンテの翻訳者はクコ酒をつくる季節だ
ドイツ語の先生はクレーの金魚のために
アカボウをさがしに夜明け前に出かける
小川の下流を占領するため早く行くのだ
そして財布をおとす季節でもある

 この激しい運動、軽快な運動--それは「絵画」ではなく、「音楽」の運動である。


西脇順三郎コレクション〈第3巻〉翻訳詩集―ヂオイス詩集 荒地/四つの四重奏曲(エリオット)・詩集(マラルメ)

慶應義塾大学出版会

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岩坪英子「誰かへ」、池井昌樹「夜蕾」

2010-09-08 00:00:00 | 詩(雑誌・同人誌)
岩坪英子「誰かへ」、池井昌樹「夜蕾」(「抒情文芸」136 、2010年10月10日発行)

 岩坪英子「誰かへ」は、ことばを探している。そのことを丁寧に書いている。

今日
私はさびしいのです
さびしいを言葉にしたい
言葉にしたらだれかに伝わるだろうか
誰もみんなさびしいんだってかえされそうで
手っとりばやく
手あかのついた言葉なんかさがしている

さびしいのは私なんです

 「さびしい言葉にしたい」は「さびしい」をもっと自分らしく、自分の実感そのものがわかるようなことばにしたいということだろうが、それがみつからない。
 「さびしい」という気持ちはあるが、このとき「さびしい」は「さびしい」という感情をあらわすことばではない。
 この矛盾の中に、あらゆる詩の出発点がある。
 それを岩坪は書くことでつきとめようとしている。

あなたがいた
ような気がする
ような気がする時がある
だから? だからって
それで何なの? 何なのって

 「ような気がする/ような気がする時がある」。「ような」と「気」。それは、どちらも「私」にだけわかるものである。他人にはわからない。この他人にはわからない「ような」と「気」は、しかし、私にはわかりすぎる。
 そして、これが問題なのだ。
 誰にでも「わかりすぎる」ことと、「わからない」ことがある。「わからない」ことについては書くことができるが、「わかりすぎる」ことについては書くことができない。「わかりすぎていて」、ついつい省略してしまうのだ。とうよりも、「省略」することしかできない。
 「さびしい」。それは「わかりすぎている」ことである。「さびしい」ということばでは不完全であるということは「わかりすぎている」と言い換えればわかりやすいだろうか。「わかりすぎていて」、それを他人に伝えるにはどういう「径路」をたどらなければいけないのか、「わからない」。

だから? だからって
それで何なの? 何なのって

 困惑しか、ことばにできない。そして、それが他人に伝わったかどうか、それさえ確認はできない。

伝えようと思うことは
はかない のです
ほんとうに伝えたかったかどうかさえ
さだかではないほどに

 それでも、それを書かずにはいられない。



 池井昌樹「夜蕾」。岩坪英子がさがしていた「さびしい」ことばが、ここには書かれている。「さびしい」を伝えることができることばが、ここには書かれていると思う。

こんなおじいさんになっても
きれいなひとをみかけると
ついほころんでしまいます
はなであることさえわすれ
ついついうっとりしてしまいます
つめたいしせんをあびたりします
こんなおじいさんになったら
しかられることばかりだけれど
かぜふけば ほい
あっちむいてほい
ひがないちにちあそびあそばれ
おもいだしたり
なつかしんだり
はかなんだりするいとまもない
ひとであることさえわすれ
ちいさなはながさいています
おじいさんのこころのやみの
どこかしら
いつからか

 私は、なかほどにある「かぜふけば ほい/あっちむいてほい」を繰り返し繰り返し読んでしまった。ここに「さびしさ」がある。特に「あっちむいてほい」という行に。
 「あっちむいてほい」は、池井のことばではない。というと、大雑把過ぎる言い方になるが、つまり、それは池井が自分で「発明」したことばではない。「発見」したことばではない。
 他人から聞いて、知ったことばである。
 そこには、池井は、いない。いないことによって、池井の、池井自身ではたどりつけないものがある。つまり、「知りすぎている」何か、「知りすぎていて」、それをことばにしようとは思いもしない何かがある。「あそび」のなかで、他人と出会い、無心になって、他人になってしまった記憶。放心し、私がなくなってしまった瞬間。
 それが、「さびしい」なのだ。
 そこには「私」はいない。「他人」がいる。そして、「私」がいないことによって、「私」は存在する。「私」ではなく、「他人」になって。その「私」がいないこと--を、池井は「ひとであることさえわすれ」と書いている。

 --私の書いていることは「矛盾」している。「矛盾」のかたちでしか言えないが、この「他人」を「もの」と考えると、西脇順三郎の、

淋しいゆえに我あり

 につながる。「私」はいない。そこには「もの」がある。(西脇は「他人」ではなく、「もの」として「私」以外のものをとらえているように、私には思える。)「私」が「ひとであることさえわすれ」、「もの」と一体化する。その瞬間に、「さびしい」が存在する。
 「私」ではなく「他人」(他者、もの)の発見が「さびしい」だと私は思う。

 いけいは、この詩では「はな」になるまえの「つぼみ」を発見している。それは「つぼみ」なのだけれど、「つぼみ」を超越して、咲いてしまっている。「つぼみ」を「私」と仮定するなら、そこではその「私(つぼみ)」すら「他人(はな)」になる。この不一致。不一致の中にある輝かしい何か--それが池井の「さびしい」だと私は確信している。



池井昌樹詩集 (現代詩文庫)
池井 昌樹
思潮社

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