詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

八潮れん『ウーサ』

2010-09-22 00:00:00 | 詩集
八潮れん『ウーサ』(思潮社、2010年08月31日発行)

 ことばを破壊するのは難しい。八潮れん『ウーサ』を読みながら、そう思った。「ウーサ」の書き出し。

見失うというべきか 立ち戻るというべきか
もっと強烈に秘められた深い傾きから
めぐり流れる逸する常軌

 八潮はそう書いているのだが、ことば自身の粘着力が八潮の想像力をしばりつけている。破壊されることを拒んで、逆に八潮を閉じ込めている。八潮はどこへも行けない。ことばに閉じ込められて、ことばの力に屈している。屈している--ことに必死であらがい、ことばを駆り立てる。
 それが、八潮のことばであるように思える。

人は体を売る生き物で
わたしは不可解でみだらです

 あ、どこが「不可解」で「みだら」なんだろう。「不可解」「みだら」ということばに閉じ込められて、「不可解」が消えてしまっている。「みだら」が「みだら」ということばしかない。

たまらなく好きなのは 禁じ手をつくって辱めること
ホルモン 恋情と恥の化け物

 どうにも窮屈である。「頭」が八潮の「肉体」をしばりつけている。「たまらなく好き」なことは「たまらなく」ということばをはみだしていくはずなのに、行儀よくおさまっている。「禁じ手」も「辱め」も「恋情」も「恥」も、ことばでしかない。

 ちょっと厳しいことを書きすぎたかもしれないが、書かずにはいられない。
 八潮は「あとがき」で書いている。

 どう表象されようとも、詩と呼ばれるものはなくならない、と思う。そこに身体がある限り。だが他人の肉の話など不気味だろう。だからときどきは詩を読むことに疲れる。私は自分の内臓を使うことでしか詩を甘受できない。面白がれない。身が疼くことを言葉にしようと、次から次へと欲動が湧いてくるという感覚、エロスの現場に迷い込み、自我の外に出てみたら何がなせるだろうか、何が爆発するだろうかという思い、それを大切にしていきたい。

 この「あとがき」で書いていることが、先に引用した「ウーサ」にはまったくつながらない。
 いや、「頭」だけがつながっている--かもしれない。
 詩は--私も、そこに身体がある限りなくならないと思う。この部分は八潮と「意識」を共有できる。「他人の肉の話など不気味」もわかるし、そのために詩を読むのに疲れるというのもわかる。
 でも、私は、だからこそ、好き。気持ち悪い。疲れる。だから、好き。
 「肉体」--生理そのものの肉体で言えば……。
 肉体が気持ち悪くなったら、むかむかしたら、まあ、吐く。吐いてしまうと、気持ち悪さが消えることがある。吐いた瞬間に、自分の本来の肉体にもどったような感じを覚えることがある。
 私には、その気持ちが悪いものを耐える力がないけれど、これに耐えられるひとがいる。その肉体の力はすごいものだなあ、とひそかに思ったりする。
 私が変なのかもしれないが、そういう力には、ちょっとあこがれる。私は虚弱体質で、そういう根源的な力が決定的に欠けているからである。
 気持ち悪いものが好き、他人の肉体が気持ちが悪いから好き--というのは、そういう「あこがれ」である。私にとっては。

 で。

 困ったことに、八潮のことばを読んでも、そういう「気持ち悪さ」がない。「肉体」を感じない。
 エロスの果てのエクスタシー。自分の外に出てしまうこと。そのとき、何かが爆発する--というのは、「頭」ではわかる。私にも。「頭のことば」でなら、充分にわかる。そこには「エクスタシー」の「ことば」の「意味」が書かれているだけだから。
 気持ち悪くはならないなあ。
 そこには、八潮自身がつかみとった「肉体」のことばがない。八潮の「肉体」を突き破ってでてきたことばがない。「肉体」の内部がない。

 八潮はきっと頭がいいのだ。頭がよすぎて、肉体がことばを破壊しようとするとき、それを頭でととのえ直してしまうのだ。その結果、肉体を突き破ってあらわれるはずの肉体が、外にあらわれることができずに、消えてしまう。
 八潮自身には、八潮の肉体のなかで起きたことがらが「実感」としてあるから、(変なものを食べてむかむかしたとき記憶は吐いてからも思い出せにように、「実感」としてあるから)、肉体が消えた--内臓が消えたという気持ちはないかもしれない。
 けれど、読者(私だけ?)には、それがわからない。
 吐いた物、吐瀉物の、こまごまとした花々--未消化の具体的な残り物、酸っぱい胃液のにおい--そういうものがあれば、うっ、気持ち悪い、目の前で吐くなよと怒りたくなるけれど、そういう気持ちにならない。
 「私、気持ちが悪いんです。内臓が飛び出しそうなんです。飛び出したんです」
 「えっ、気持ち悪かった? 気がつかなくて、ごめんね」
 そういう感じかなあ……。

 あ、具体的に書いておこう。

セミとカラスがないているので
ほしほ ほしい ほしい ほしいとおうじ
その発話レベルで いいのか にしても
ふかくふかく友だちに なりたい なりたい
セミとカラスのまっさかさま
原本では なんとなくのか

 なんだろう、この「原本」は。その前の「発話レベル」の「レベル」もそうだが、その「ものさし」は肉体とは無縁だろう。「頭脳」のものだろう。



 こんな悪口ばかり書いてどうなるんだろう。なぜ書く必要があったのだろう……。
 途中で詩集を読むのをやめて、この感想を書いているのだが、実は1篇、気に入った詩があったのだ。そのことについて書いておこう。(この部分だけ書けばよかったのかもしれないなあ……と思わないでもないのだが。)
 「妄想分別」。その冒頭。

さっけが好きならぐっといっけ その先の先のぐっと先にいっけ
呪物の はだ いろ きょうあく もっと ひっと ひっと
ひっとは群れ どうせ群れるなら ものいわぬ ひっと ひっと
そこにありそこねたもの よびもどし つきはなし

 ここではことばが壊れている。「さっけ」は酒かもしれない。「いっけ」は「行け」かもしれない。「ひっと」は「人」かもしれない。たぶん、そうなのだ。「酒」「行け」「人」であるけれど、「声」がそれを壊そうとしている。「酒」「行け」「人」を感じさせるということは、ことばが壊れきっていないからなのだが、それでも「酒」「行け」「人」では言い表せない何かを書きたくて八潮が「っ」をまぎれこませることで、その何かをかこうとしていることがわかる。「っ」は、いわば八潮の「肉体」なのである。「頭」では整理できなかった何かなのである。
 「呪物の はだ いろ きょうあく」も同じように「肉体」である。「助詞」「動詞(用言)」がないので、「呪物の はだ いろ きょうあく」は「文」になることができずにいる。「もの」が消化されず、血肉になりきれず、そうなるまえに「原型」をとどめたまま吐瀉物として吐き出されてしまっている。それを繋ぎ合わせること、つまり吐瀉物をなめすすり、消化し、血肉にすることは読者にまかせられている。
 う、気持ち悪い--と、ここで、私の「肉体」は反応する。そこに、八潮の「肉体」を感じる。
 こういう部分が、私は好きだ。気持ち悪いし、嫌いだから、好きとしかいいようがない。

せいだもの ずたずたの肉片だもの
うれしい変態においかけられて にげこんだやわらかな家で
わるぶりっ子 さてどのくらい酔いをこぼそう
いいなあ そばによってみたいなあ からだだもの
いっしゅん 地の底におちて もどってくるじしんあり
いっしょにいっておくれよ

 はい、私はいっしょにどこまでもどこまでも行ってみたい気持ちでおりました。この1篇を読んだときは。
 でも、次の「ウーサ」、冒頭に引用した3行を読んで「からだ」が消えて、「頭」が前面に出てきたので、いやになり、それでも途中まで読んだし、「あとがき」も読んだのだけれど……。


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