詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

トーマス・アルフレッドソン監督「ぼくのエリ  200歳の少女」(★★★★★)

2010-09-16 21:56:50 | 映画

監督 トーマス・アルフレッドソン 脚本 ヨン・アイヴィデ・リンドクヴィスト 出演 カーレ・ヘーデブラント、リーナ・レアンデション

 スウェーデンの雪。透明で、混じりっけがなくて、空から降ってくるというよりも、空気中の水分がそのまま凍るような感じ。いま、わたしたちが暮らしている空間のなかの空気が、寒さというよりも、まるで透明になりすぎたために、透明になりきれなかった水分が申し訳なさそうに白く結晶して大地に降り積もる。大地を隠していく。その上を歩くと、きゅっきゅっと音がする。ひとの重さが立てる音ではなく、押された雪がぶつかり合い、悲鳴をあげるような、とてもかわいそうな響きがある。
 この限りない透明感--それが、この映画のひとつの重要な要素である。
 その雪に負けないくらいに、主人公の少年が透明である。肌が透き通るように白く、金髪。不透明なものを何も持たない。そういう印象がある。聡明であるがゆえに、学校でいじめられている。いじめられていることに対して反撃したいが、気持ちはあっても、それを実行に移せない。じっと我慢している。これも、この映画の重要な要素である。
 映画は、気弱な少年が恋をした相手が吸血鬼だった--という、まあ、ありえない話なのだが、そのありえないことが、透明なスウェーデンの冬を舞台に、透明な少年とのあいだに繰り広げられるとき、美しい「寓話」になって、いままで見えなかったものが見えてくる。
 スウェーデン。高福祉国家。普通のひとびとの暮らしは豪華ではないが(どちらかといえば質素でつましい)、互助の精神で助け合って生きている。誰かに打ち勝って、というよりも、助け合って、生きている。誤解かもしれないが、まるで長い長い冬をつましい蓄えで乗り越える北国(雪国)の精神が、そのまま具体化したような世界である。ささやかなよろこび(仲間同士あつまり、飲んで、会話して)を大切な「火種」のように囲んでひっそりと生きている。
 そこでは何よりも戦わないことが重要なのだ。戦うというような、むだなエネルギーはつかわない。エネルギーは「和解」のためにだけつかう。他人への干渉も極力避ける。殺人事件を目撃しても(その被害者が知人であっても)、そのために警察に協力するというようなことはしない。取り調べられるのがいやだし、容疑者扱いされるのもいや。いまの、このままの、仲間同士でひっそりと交流する生活を守りたい。--そこには、「保守」の精神がしっかりと根を張っている。まるで、空中で結晶化した雪が、そのまま根雪になって残っているように……。
 そこに突然割り込んできた吸血鬼。その存在が人間と一番ちがっているのは、生きるために人を殺す。他人の血を吸うということである。少女はあるとき少年に問いかける。「生き残るために他人を殺したいと思わないか」と。この、ふいにもらされる切実なことばが、この映画のテーマである。誰でもが生きたいと思う。そのとき、殺すまではいかなくても、他人を押し退けて生きたいと欲望する。それは、悪なのか。そういう欲望があるから、人間は生きてこれたのではないのか。
 他人を押し退けても生きる--というのは、高福祉国家の理念とは相反する。互いに助け合って生きる、押し退けることを否定して生きるのが福祉社会・互助社会である。それは「透明」といってしまえるほどの、つまり不純物のない、完璧な精神がつくりあげるユートピア。そこでは、たしかに他人を押し退けて生きるというのは、許されることのない生き方である。
 しかし、人間は、だれかを押し退けて生きるものである。そうしてしまう存在である。恋もまた、こいのライバルを押し退けて、誰かを手に入れることである。人は、他人を押し退けないことには、自分の「いのち」をまっとうできない。生きていると実感できない存在かもしれない。そういうことを、少女は、「理論」ではなく(ことばではなく)、他人の血を吸って生きるという「肉体」で具体化している。--吸血鬼が、いま、スウェーデンで描かれる理由が、そこにある。
 そして、「受け入れて」と少年に頼むのだ。つまり、一緒に生きて、と。
 この「自分を受け入れて」「一緒に生きて」というのは、愛の告白の究極のものである。そして、愛の究極の形というのは、自分がどうなってもいいと覚悟して、相手を受け入れ、一緒に生きることだ。なにがあっても、他人を押し退け、相手の「いのち」を最大限に優先することだ。
 相手を押し退けて生きるという人間の欲望。それと高福祉国家は、折り合いをつけることができるのか。--映画は、そういうことを声高に問いかけているわけではないが、吸血鬼の少女と一緒に生きること、一緒に高福祉社会を抜けだして生きることを決意する少年の姿には、その欲望を肯定する思想がはっきりとあらわれている。
 映画(寓話)だからだといえばそれまでだが、この映画では、吸血鬼の少女のためにおこなわれた殺人は殺人として取り上げられてはいるが、犯人が追及されるわけではない。最後に繰り広げられる吸血鬼の少女の大量殺人もファンタジーのように「美しく」表現される。
 問いだけが、他人を押し退けて生きること、他人を殺したいと思うこと、自分のいのちのために他人を殺すことは絶対に許されないのか。もちろんそれが許されるわけではないが、その根源的な問いが、この映画では最後に残される。
 透明な理念が具体化された社会--たとえば、スウェーデンの高福祉社会、それは冬のスウェーデンの風景そのものである。まわりは真っ白。真っ白な雪が、不純物でいっぱいの大地を覆い隠している。ひとは家のなかで小さな明かりを大切に守って生きているが、その家庭と家庭のあいだにも、冷たい結晶が降り積もり、どうしようもないものを隠している。たとえば、少年は離婚した母は二人で暮らしているが、なぜ、父と母は離婚したのか。それは問い詰められてはいない。父を訪ねてくる男の友達--その友達の訪問によって、父と子の楽しい団欒が一瞬のうちに消える、少年が犠牲になるという形で「透明」に表現されるだけである。争わない。二言三言少年は苦情はいうが、争わないし、母が父と争うこともない。押し隠した不満のようなものが、冷たい雪のように、少年から「体温」を奪っている。
 吸血鬼の少女は、その「肉体」は、他人を殺して生きるこころそのままに冷たいのだけれど、その冷たいものがなぜか少年の「肉体」に「熱」があることを思い起こさせるのである。少年は、冷たく透明なものとはまったく逆なもの、温かくて、不透明な「肉体」そのものになるのである。
 



 この映画はハリウッドでリメイクされるというが、きっと無残に変質するだろう。少年の血まみれの目覚め、人間の「肉体」としての目覚めが、アメリカを舞台にして「実感」として具体化できるのか。欲望が生きつづけているアメリカで、欲望によって「肉体」としての人間に目覚めるというメルヘンが成り立つのか。
 いじめられっ子の少年が吸血鬼に出会い、いじめから脱出する--というのでは、バンパイア版「ベスト・キッド」になってしまうだろう。

人気ブログランキングへ

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

誰も書かなかった西脇順三郎(145 )

2010-09-16 10:31:43 | 誰も書かなかった西脇順三郎

 「失われたとき」のつづき。
 西脇の音--その美しさは、奇妙に聞こえるかもしれないが「雑音」にある。純粋に研ぎ澄まされた音ではなく、「ノイズ」にある。「ノイズ」の音楽。現代音楽を先取りしている感じである。

十一月は半ばすぎた
オーメ街道の友達を訪ねて
雨のなかに立つているケヤキの木の
しめつぽい存在のなかをうろついた
またかぜをひいているだろうか
果てしない鼻声は
ジュピーテルの神の
耳をそばだたせる

 「オーメ街道」とは「青梅街道」だろう。「青梅街道」と書いてしまえば、そこに「ノイズ」はないが、「オーメ」と書いた瞬間に「ノイズ」がうまれる。それは、脳ひっかく音である。「オーメ」というのびやかな「肉体の音」の一方で、その表記は脳に別の刺激を与える。「ノイズ」は脳にも関係している。
 「果てしない鼻声」は、「音」そのものをあらわしたものである。それは「美しい」とは一般に言われていない。それも、こんなふうに書かれてしまうと、不思議に脳を刺激する。
 意識の乱調がうまれる。
 「ノイズ」とは意識を乱すものなのである。

 引用部分は、そのあと、

西海岸の紫の波の音に
よく似ている音と怒りだ

 とつづいている。「鼻声は」は「よく似ている音と怒りだ」はつづくのかもしれない。つづき具合が、散文論理ではつかみきれない。この、乱調。これもまた、「ノイズ」であり、新しい音楽だと思う。

 このあとにも、好きな部分がある。

この倫理学の先生はソクラテスのような
男を使つて桑畑を耕された
「これはわたしのところで作つた茶です」
バケツと鍬がすてられている神々の
たそがれの国について話をうつした

 「バケツと鍬がすてられている神々の」の「バケツ」という音、そして存在が、突然の「ノイズ」で、はっとさせられる。意識が強い刺激で叩かれる。
 これは、「現実」の音楽である。
 西脇は、こういう音楽とは別の音楽も聴いている、ようである。

友達をたずねるだけが天体の音楽だ
友達は柿をむいてくれた
竹藪に四十雀のいることを知らせてくれた
秋の日は終りをつげてくれた

 「天体の音楽」。これは、「淋しい」に通じる音楽だろうか。「竹藪に四十雀のいることを知らせてくれた」は「淋しい」。そして、その行のなかの「濁音」の動きは、はてしなく静かな「ノイズ」に、私には感じられる。





西脇順三郎コレクション〈第4巻〉評論集1―超現実主義詩論 シュルレアリスム文学論 輪のある世界 純粋な鴬
西脇 順三郎
慶應義塾大学出版会

このアイテムの詳細を見る

人気ブログランキングへ
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

八柳李花「Swallowtail Butterfly 」ほか

2010-09-16 00:00:00 | 詩(雑誌・同人誌)
八柳李花「Swallowtail Butterfly 」ほか(「Aa」1 、2010年09月発行)

 詩とは何なのか、ある詩と、また別の詩のどこが違うのか。どこに違いを感じて好きになったり嫌いになったり、時には好きになれない、嫌いになれないという変な思いがまとわりついてくるのだろうか。
 私の場合、基本的に「音」である。音読するわけではないのだが、読みやすい「音」と読みにくい「音」があり、私は読みやすい「音」にひかれる。リズム、といった方がいいかもしれない。
 たとえば、八柳李花「Swallowtail Butterfly 」。書き出しが非常に読みやすい。

よくある話をしよう、と
白いモダニズムをゼロ次元に変換すると
砂のなかで私を呼ぶ声がある、

 何が書いてあるのか--その「意味」はわからない。私はわかりたいとも特に考えないのだけれど、まあ、わからない。わからないけれど、この「音」の動きは刺激的である。なんだかわからないものを「ゼロ」の状態に変換すると、砂が残り、その砂のなかに「私を呼ぶ声がある」。この「ある」の「音」が私にはとても気持ちがいい。
 「私を呼ぶ声がする」だとしたら、私は、たぶんぎょっとする。気持ちが悪くなる。--というのは、もちろん、読んですぐに感じたことではなく、どこが気持ちがいいのか読み直したときに「ある」が美しく響いてきたということなのだが……。
 そして、さっき「意味」は関係ない、「音」だけが問題であるというようなことを書いたあとで、それをひっくりかえすようなことを書いてしまうのだが、このとき私は「ある」と「する」の違いについても考えはじめるのだ。
 「話をする」(しようと)、「変換する」という運動の延長線上に「砂」が導き出される。そして、残る。その一連の「変換」(変化)するの「する」を受けて、つまり、その運動に乗っかって、その砂から声が「する」という運動が起きるのはそれほど不自然ではない。むしろ、声が「する」の方が自然かもしれない。
 けれど、「ある」。
 「する」と「ある」は、どこが違うか。「する」は「変化」(運動)であり、「ある」は変化しない、「存在」である。運動のなかから「存在」があらわれてきたのである。そこになっかた、存在が。まず「砂」があらわれ、そしてそこから「声」があらわれ、そこに「ある」。
 運動が断ち切られ、「存在」が「ある」。「ある」が輝いている。「運動」から「存在」への変化と、そのとき生まれる「リズム」(リズムの変化)が、私には「音」が「音楽」に変わる瞬間のように感じられる。
 こういう瞬間を、私は気持ちよく感じる。

よくある話をしよう、と
白いモダニズムをゼロ次元に変換すると
砂のなかで私を呼ぶ声がある、
巻貝のぐるりとした螺旋を痙攣させながら
内耳の方に潤っている、
枯れた水
いくつかの不眠の夜の暗がりで
頭を垂れて思い知った。
何気ない物差しの話とか、
くちびるの端に、いつも
フレーズを求めていたことの。
<わたし>は<わたしたち>から切り出されて
その下にコトリと置かれている。

 ただ、八柳のことばの「リズム」は必ずしも持続しているとは私には感じられない。美しいリズムとそうではないリズムが交錯する。
 
 「白いモダニズム」「砂」「声」と変換し、存在にかわったものが、「巻貝(砂のなかに存在する、あるいは砂ととともに存在する)」「螺旋」「(内)耳」と逆流し、その果てに「枯れた水」になる。それは「私を呼ぶ声」と対になって「不眠の夜」を構成しているのだろう。
 そういう情景は見えてくるが、「枯れた水」以外の行は、私にとっては、何かつっかえつっかえの「リズム」に感じられる。「何気ない物差しの話とか」というすばやい「リズム」があったかと思うと、次に「くちびるの端に、いつも」という重ったるい「リズム」がくる。
 ことばが八柳の「肉体」(喉や耳)を通ってきていないような感じ、その結果として、ことばが「肉体」になっていない感じが残る。--これは、もちろん私の「主観」であって、客観的にどのうこうのとは言えないことなのだけれど。
 そして、書き出しの3行、それからしばらく乱れて「枯れた水」「何気ない物差しの話」というのは美しいのになあ、何か乱れるもの(乱すもの)があるなあ、読みつづけるつらいなあ、と感じてしまうのである。
 私が「乱れ」と感じている部分を魅力と感じるひともいるとは思うけれど……。

 でも、八柳には「フレーズ」をつくりだす力がある。ことばを「学校教科書」から切断し、無のなか(ゼロ次元に変換した場)で、「音」として生成する力がある。
 (あ、「音楽」と私が呼んだものは、これかもしれないなあ。「ゼロ次元」で「音」を生成する、その「音」の生成そのものが「音楽」かもしれないなあ。)
 こういう力は、たぶん学習して身につけるものではなく、学習を放棄することでよみがえらせるもの、生まれもった才能というものかもしれない。そういう力があるということは、おもしろいことだ。
 「(スクリーンのなか、ひとり破裂してやまない輪郭は)」という詩は、タイトルになっている1行が特に魅力的だが、こういうことばをどれだけ持続できるか、そういうことがたぶんこれから八柳にとって重要なことになるのかもしれない。

あおいオウム貝の鉱石をいまの本棚に見つけたひとり遊びは
甚だ優しい物陰のなかに消えて
ステンドグラスを吸い寄せる光が仄明るく
諦めた端から化石化していくので
道端にきたなく散らかった赤い闇をひそめた現像室で拾う、
酢酸くさいほそい指で孤独を数えるのだが
スクリーンのなか、ひとり破裂してやまない輪郭は
さしこまれた熱をもつ無意味に掻き消されておぼろで
白髪の少女が隠す夢を淡く撫でつけている。

 フィルムが現像され、映画として動きだす--その撮影、現像、再現にかかわってくるさまざまなことがら(現像液、現像室など)を貫く何かを、ことばの力でしぼりだそうとしている。そのことは、わかるが、どうにも行が重たい。リズムが重たい。八柳の感覚がふれたものすべてをつかみとろうとする「意図」が忙しすぎて、リズムになりきれないのかもしれない。
 ことばはつかみ取ると同時に、寄ってくるものを時には払いのけなければならないのかもしれない。詩人とは、ことばをつかむひとではなく、もしかすると払いのけるひとかもしれない、とも思った。



 強引な結びつけになるかもしれないが、同じ号に書かれている望月遊馬、高塚謙太郎の詩にも似たものを感じた。ことばをつかみとる力が強すぎて、ことばを払いのける力が弱まっているという感じを持った。
 もちろん払いのけるなんて面倒くさいことはほうっておいて、つかみとれるだけつかみとればいいのかもしれない。手からこぼれて、ことばは勝手に、ことば自身の「量」で、詩人が払いのけられなかったことばを拒絶する時がやってくるだろう。
 望月の「焼け跡」の書き出しだけ引用しておく。

「まずは、ヒトの動作と発現のところにテロップがないように。指をひとつひとつ切り落としていく指揮のなかに、白い肌である金属質の繊維がいくつかたばねてある。そこに灯る火のむこうは、わたしたちの昼夜がじょじょに流砂の骨のかたちで流れていく。

 一方、タケイリエは、ことばをつかむとき、慎重である。慎重な肉体が乱れのない「リズム」をつくりだしている。「midnight press」の1連目。

入ってゆく稜線の奥で
すすんでゆくあしゆびの
爪と肉のさかいめを
さわりながらつかまえるため
草に近づくと赤くなるのに
(どうして入ってゆくのだろう?)



Beady‐fingers.―八柳李花詩集
八柳 李花
ふらんす堂

このアイテムの詳細を見る

人気ブログランキングへ
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする