監督 トーマス・アルフレッドソン 脚本 ヨン・アイヴィデ・リンドクヴィスト 出演 カーレ・ヘーデブラント、リーナ・レアンデション
スウェーデンの雪。透明で、混じりっけがなくて、空から降ってくるというよりも、空気中の水分がそのまま凍るような感じ。いま、わたしたちが暮らしている空間のなかの空気が、寒さというよりも、まるで透明になりすぎたために、透明になりきれなかった水分が申し訳なさそうに白く結晶して大地に降り積もる。大地を隠していく。その上を歩くと、きゅっきゅっと音がする。ひとの重さが立てる音ではなく、押された雪がぶつかり合い、悲鳴をあげるような、とてもかわいそうな響きがある。
この限りない透明感--それが、この映画のひとつの重要な要素である。
その雪に負けないくらいに、主人公の少年が透明である。肌が透き通るように白く、金髪。不透明なものを何も持たない。そういう印象がある。聡明であるがゆえに、学校でいじめられている。いじめられていることに対して反撃したいが、気持ちはあっても、それを実行に移せない。じっと我慢している。これも、この映画の重要な要素である。
映画は、気弱な少年が恋をした相手が吸血鬼だった--という、まあ、ありえない話なのだが、そのありえないことが、透明なスウェーデンの冬を舞台に、透明な少年とのあいだに繰り広げられるとき、美しい「寓話」になって、いままで見えなかったものが見えてくる。
スウェーデン。高福祉国家。普通のひとびとの暮らしは豪華ではないが(どちらかといえば質素でつましい)、互助の精神で助け合って生きている。誰かに打ち勝って、というよりも、助け合って、生きている。誤解かもしれないが、まるで長い長い冬をつましい蓄えで乗り越える北国(雪国)の精神が、そのまま具体化したような世界である。ささやかなよろこび(仲間同士あつまり、飲んで、会話して)を大切な「火種」のように囲んでひっそりと生きている。
そこでは何よりも戦わないことが重要なのだ。戦うというような、むだなエネルギーはつかわない。エネルギーは「和解」のためにだけつかう。他人への干渉も極力避ける。殺人事件を目撃しても(その被害者が知人であっても)、そのために警察に協力するというようなことはしない。取り調べられるのがいやだし、容疑者扱いされるのもいや。いまの、このままの、仲間同士でひっそりと交流する生活を守りたい。--そこには、「保守」の精神がしっかりと根を張っている。まるで、空中で結晶化した雪が、そのまま根雪になって残っているように……。
そこに突然割り込んできた吸血鬼。その存在が人間と一番ちがっているのは、生きるために人を殺す。他人の血を吸うということである。少女はあるとき少年に問いかける。「生き残るために他人を殺したいと思わないか」と。この、ふいにもらされる切実なことばが、この映画のテーマである。誰でもが生きたいと思う。そのとき、殺すまではいかなくても、他人を押し退けて生きたいと欲望する。それは、悪なのか。そういう欲望があるから、人間は生きてこれたのではないのか。
他人を押し退けても生きる--というのは、高福祉国家の理念とは相反する。互いに助け合って生きる、押し退けることを否定して生きるのが福祉社会・互助社会である。それは「透明」といってしまえるほどの、つまり不純物のない、完璧な精神がつくりあげるユートピア。そこでは、たしかに他人を押し退けて生きるというのは、許されることのない生き方である。
しかし、人間は、だれかを押し退けて生きるものである。そうしてしまう存在である。恋もまた、こいのライバルを押し退けて、誰かを手に入れることである。人は、他人を押し退けないことには、自分の「いのち」をまっとうできない。生きていると実感できない存在かもしれない。そういうことを、少女は、「理論」ではなく(ことばではなく)、他人の血を吸って生きるという「肉体」で具体化している。--吸血鬼が、いま、スウェーデンで描かれる理由が、そこにある。
そして、「受け入れて」と少年に頼むのだ。つまり、一緒に生きて、と。
この「自分を受け入れて」「一緒に生きて」というのは、愛の告白の究極のものである。そして、愛の究極の形というのは、自分がどうなってもいいと覚悟して、相手を受け入れ、一緒に生きることだ。なにがあっても、他人を押し退け、相手の「いのち」を最大限に優先することだ。
相手を押し退けて生きるという人間の欲望。それと高福祉国家は、折り合いをつけることができるのか。--映画は、そういうことを声高に問いかけているわけではないが、吸血鬼の少女と一緒に生きること、一緒に高福祉社会を抜けだして生きることを決意する少年の姿には、その欲望を肯定する思想がはっきりとあらわれている。
映画(寓話)だからだといえばそれまでだが、この映画では、吸血鬼の少女のためにおこなわれた殺人は殺人として取り上げられてはいるが、犯人が追及されるわけではない。最後に繰り広げられる吸血鬼の少女の大量殺人もファンタジーのように「美しく」表現される。
問いだけが、他人を押し退けて生きること、他人を殺したいと思うこと、自分のいのちのために他人を殺すことは絶対に許されないのか。もちろんそれが許されるわけではないが、その根源的な問いが、この映画では最後に残される。
透明な理念が具体化された社会--たとえば、スウェーデンの高福祉社会、それは冬のスウェーデンの風景そのものである。まわりは真っ白。真っ白な雪が、不純物でいっぱいの大地を覆い隠している。ひとは家のなかで小さな明かりを大切に守って生きているが、その家庭と家庭のあいだにも、冷たい結晶が降り積もり、どうしようもないものを隠している。たとえば、少年は離婚した母は二人で暮らしているが、なぜ、父と母は離婚したのか。それは問い詰められてはいない。父を訪ねてくる男の友達--その友達の訪問によって、父と子の楽しい団欒が一瞬のうちに消える、少年が犠牲になるという形で「透明」に表現されるだけである。争わない。二言三言少年は苦情はいうが、争わないし、母が父と争うこともない。押し隠した不満のようなものが、冷たい雪のように、少年から「体温」を奪っている。
吸血鬼の少女は、その「肉体」は、他人を殺して生きるこころそのままに冷たいのだけれど、その冷たいものがなぜか少年の「肉体」に「熱」があることを思い起こさせるのである。少年は、冷たく透明なものとはまったく逆なもの、温かくて、不透明な「肉体」そのものになるのである。
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この映画はハリウッドでリメイクされるというが、きっと無残に変質するだろう。少年の血まみれの目覚め、人間の「肉体」としての目覚めが、アメリカを舞台にして「実感」として具体化できるのか。欲望が生きつづけているアメリカで、欲望によって「肉体」としての人間に目覚めるというメルヘンが成り立つのか。
いじめられっ子の少年が吸血鬼に出会い、いじめから脱出する--というのでは、バンパイア版「ベスト・キッド」になってしまうだろう。