金井雄二『ゆっくりとわたし』(思潮社、2010年07月25日発行)
金井雄二『ゆっくりとわたし』の巻頭の詩は「走るのだ、ぼくの三船敏郎が」である。この詩については、雑誌で読んだときに感想を書いたことがある。そのときにもおもしろいと思ったが、何度読んでもおもしろい。
映画で見た三船敏郎を描写している。黒沢明の、どの作品だろう。どの映画でも三船は三船なので、その断片だけ描写されても、私にはどの映画かよく思い出せないのだが、そのどの映画であるか思い出せないことを含めて、この金井の詩はおもしろい。いや、思い出せないがゆえに、この金井の詩はおもしろいと言うべきか。
ねぇ、ちょっと聞いてよ。走るのだ、ぼくの三船敏郎が。
なぜ黒沢の映画が思い出せないか--理由は、この書き出しにある。金井は、三船の映画に出た三船を描いているのではない。あくまでも金井が見た三船、「ぼくの」三船を描いている。それは黒沢の三船ではない。三船自身でもない。
「ぼくの」つまり、金井の三船とは何であるか。
走るのだ、ぼくの三船敏郎が。どこまでも肩を上と下に揺すりながら、そのたびに息が、土砂降りの雨の中に消えていくんだ。肩から胸にかけて肌もあらわになって、いたるところに泥までついて。
三船とは、まず激しい動きである。「走る」である。そして、そのあとに「肉体」がやってくる。「肩を上と下とに揺すり」という、これも動きをもった「肉体」がやってくる。それから「肉体」から吐き出される「息」がやってくる。「肉体」からあふれてくる。「肉体」を動かしながら、その「肉体」の前にあらわれる。まるで、「息」を「肉体」が追いかけるような、一種の、逆転、逸脱、過剰がおきる。
それから「肌」がやってくる。肩から胸にかけて、はだけた着物--着物を突き破って動く「肌」がやってくる。それは「肉体」を破ってあらわれる「息」とおなじである。「人間」を突き破って、「生」な「肌」が三船になるのだ。
走るのだ、三船敏郎が。剣を振り回しながら、雄叫びをあげながら。眉毛の一本一本に神経が入っていてビンとしている。額にも神経はそろりそろり生えそろっていて、そこには電流が走っている。
「肌」の次は「眉毛」である。金井は三船の顔をみているはずだが、顔は顔としては存在していない。「肉体」を突き破って「息」があらわれ、着物を突き破って「肌」があらわれたように、「顔」をつきやぶって「眉毛」があらわれ、「眉毛」を突き破って「神経」があらわれる。さらには、神経を突き破って「電流」があらわれる。
「ぼくの」三船は、いまは、「電流」なのである。その「電流」に金井は感電している。感電すると、ほかのことは考えられない。「ビリビリ」が金井の「肉体」を貫く。
光がどこからか流れてくるが、それは剣から飛び出しているのではなく、眼の底から発射されているのだ。
「電流」は「光」になる。稲妻だね。そして、それは「眼の底から発射されている」という。私が「突き破る」ととりあえず書いたことを、金井は「発射」と呼んでいる。「突き破る」は自発的だが「発射」は自動詞ではない。
金井は、三船の「肉体」のなかに、特別な「人間」がいて、それが「光」を「発射」させている、とみているのだ。
「息」も「肌」も「神経」も「光」も、「発射」されたものなのだ。
金井は、目の前を動く三船と、その三船の「肉体」のなかにあって強烈な印象を「発射」させている存在を識別しながら、「ぼくの三船敏郎」ということばのなかで「ひとつ」にしている。「同一視」している。それは、三船の「肉体」のなかにあるものが、三船の「表面」にまで接近し、それを突き破り、まるで「肉体」のなかから「発射」されたものが、こんどは逆に「肉体」を引っ張っている--「肉体」を「肉体」の大きさを超えて巨大にしているという感じだ。
「肉体」のなかから「発射」され、その「発射」されたものが「肉体」の限界を超越して、「肉体」が巨大になるのをうながす--このときの「発射された輝き」を、まあ、「オーラ」というのだろうけれど、この「オーラ」こそが金井のいう「ぼくの三船敏郎」なのだ。
「オーラ」と「ぼくの三船敏郎」との関係をさらにみていけば、「オーラ」と「ぼく」が同じものになる。「オーラを発する三船敏郎」が「ぼくの三船敏郎」なのだから。また「ぼくの」とは、「ぼくのことば」と同じである。「ぼくのことば」が描写する三船敏郎が「ぼくの三船敏郎」である。だから、「ぼくのことば」は三船の「オーラ」と同等(対価)であるとも言える。等しくなかったら、「オーラ」をあらわすことはできない。
三船敏郎の「オーラ」と「ぼくのことば(金井のことば)」が共同して(一体になって)、いま、ここに、独特の、つまり黒沢の描いた映画を超える存在としての三船を出現させているのだ。
この特別な三船を、金井はあくまでも動かしつづける。「肉体」を「肉体」のなかに閉じ込めたりはしないで、「肉体」を突き破って動いていってしまう、その運動そのものにしてしまう。「オーラ」は「運動」になる。金井のことばも「運動」になる。
胸は硬くなり首の筋が浮き上がり歯と歯はしっかり合わされつつ、それでも、息は弾丸のように空気の中に、激しい雨の中に、打ち込まれていく。太腿は、肉を大きく盛り上がらせ、足首にかけての筋はおそろしいほどに伸びきっている。走るのだ、ぼくの三船敏郎が。走って、走って、走り抜けて、息を四回吐き続け、一度だけおもいきり吸い込んだ。
「光」は「弾丸」にかわっている。それは人の目をひきつけることを通り越して、ひとを(見たひとを)殺してしまう。
息を四回吐き続け、一度だけおもいきり吸い込んだ。
この動きはすごい。殺して殺して殺して殺しまくって、新しい「標的」を見つけたのだ。ぞくぞくしてしまう。
一軒の飯屋がある。ひなびた飯屋である。三船敏郎が再び走る。飯屋に向かって。戸を開ける。土間に躍り込む。炊事場に回る。大きな飯炊き釜を見つける。大きな飯炊きカョル思い蓋をあける。そこにはまっしろな飯がある。雨と汗と筋肉が盛り上がる腕は、大きめの丼をがしりと左手でつかむと、へらで飯を盛り付けた。
短い文章が三船を動かしていく。同じことばが何度も繰り返されるが、それは整理されない。むだな(?)ことばかもしれないが、それをむだと感じる「頭」は存在しない。「肉体」は、新しい標的を姿勢を変えながら、いちばんいい位置をめざして、つまり確実に「射殺」できる位置をめざして動いているのだ。そのとき、それが何度繰り返されようと、それはむだではない。むだをしないで、一度でねらって、一度で「発射」する方がむだなのである。「肉体」は、本能は、常に正しいことしかしない。
もう、これ以上は入らないだろうと思うまで押し込んだ。そして、割り箸を口にくわえると右手で箸をふたつに剥ぎ取った。眼がしろいものを見つめる。まず咽喉が上と下に動く。と思うが同時に、口は開かれ、飯が投げ入れられる。次から次に、白米は口の中に放り込まれる。丼の飯があからさまに少なくなっていく。額には滲み出るものがあって、だがそれを拭おうともしない。咀嚼する口元が、動く唇が、ぎらぎらとする眼が、動き続けている。咽喉がクッと一回鳴って、また動きはじめた。
「同時に」ということばがある。「動き続けている」ということばがある。「一軒の茶屋がある」からつづく文章に、「繰り返し」(むだ)があると書いたが、それは実は「むだ」や「くりかえし」ではないのだ。それは別々に書かれているように見えるが、いくつかの「動き」を「同時に」書いたものなのである。そこに起きているのは「同時」ということであり、それが「動き続ける」ということなのだ。
「同時に」複数のことをできない。「同時に」複数の場所、「複数の時間」に存在することはできない--というのが「科学」の哲理だが、そんなことはない。「ぼくの(金井の)三船敏郎」は、それをやってのけるのだ。三船の「肉体」は三船を超越している。それは三船ではなく、なんといっても「ぼくの(金井の)」三船である。そこには三船のエネルギーだけではなく、金井の分のエネルギーも注ぎ込まれている。
その発する「オーラ」は三船のものであると「同時に」、金井のものでもあるのだ。