山田玲子『ツグミの家』(七月堂、2010年09月01日発行)
山田玲子『ツグミの家』は、詩集の冒頭にキーワードが書かれていた。「葉山」という作品。全行。
「もっと」。それは、とらえられないものを指している。把握できないものを指している。自分のものにできないものを指している。
そういうものがあるのだ。
いま、そこにある、それがわかるけれど、それは手に入らない。高い空がある。それはどこまで飛んでも(のぼっても)、「中空」である。
そこにあるのに、手に入らない。そういうことを知っていて、その「中空」を歩く。それは、「もっと」というものがあることを知らずにそこにいることとはまったく違う。山田は「もっと」があることを知っている。
それだけではない。
その「もっと」は、いま、ここにはいない(いるけれども、隠れているので、いないとしかいいようのない)ものが教えてくれる。山田は最初から「もっと」を知っているのではなく、誰かが教えてくれたのだ。
「もっと」は、それを教えてくれる人とともにある。その「誰か」は山田の場合(この詩集の場合)、亡くなった夫である。(詩集を読むと、山田が夫を亡くしたことが推測できる--もし、私の推測がちがっているのだったら、ごめんなさい。)
山田のそばからいなくなって、いなくなることによって、よりはっきり「いる」ことがわかる人間--そのひとが「もっと」があることを教えてくれる。山田に届かない世界があることを教えてくれる。
山田は夫を亡くして悲しい。悲しいけれど、その夫は「もっと」を教えてくれた。「もっと」とともにある。「もっと」について思うとき、そこには必ず夫が生きている。その、一種の幸せといってしまうといけないのかもしれないけれど、安心感、安定感--それが山田の詩集のことばを静かに落ち着かせている。美しい光を発する力のもとになっている、と感じた。
は、「学校教科書」の「論理」で言いなおせば、葉山で、晴れた昼に、浜辺を歩くと、空を飛ぶ鳥が、まるで夫が空を散歩しているように見える(感じられる)、ということになると思う。「夫は鳥」ではなく「鳥は夫」が現実と比喩との「論理関係」である。
けれども、山田は、それを逆に書く。
鳥が夫に見える(感じられる)ではなく、夫が鳥に見える。ここには、論理の、どうすることもできない「飛躍」がある。実感だけがとらえることのできる「間違い」がある。その「間違い」こそが詩なのである。
夫は鳥になって、いま、浜辺を散歩する山田の上を、中空を飛んでいる。まるで、山田の浜辺の散歩にあわせるように。そして、夫は、空を散歩しながら、「ほんとうはね、もっと高い空があるんだよ」と山田に気づかせる。その声を山田ははっきりと聞いたのだ。そして、山田は、「もっともっともっと、聞かせて」と語りかけている。
そのとき、山田は、浜辺を歩きながら、同時に中空を飛んでいる。
「もっと」というのは、だれもがつかう簡単なことばだが、その簡単なことばのなかに、山田は、深い哲学を、つまり愛をみつけている。
「もっと」を言いなおしたものが、2篇目の「ツグミの家」である。詩集のタイトルにもなった美しい作品である。
「この声を捕らえて/持ち帰れたら…」。その願いのむこうにあるのが「もっと」なのだ。「もっと」は絶対に持ち帰ることができない。持ち帰ったつもりでも、さらにそのむこうにありつづけるものである。
だから、「もっと」というのだ。
その「持ち帰れない」もの、「もっと」に出会ったら、どうするか。
ここから、山田のほんとうの哲学(思想)、つまり「肉体」が動きだす。「もっと」に対して呼びかけるのである。「もっと」に対して自分自身のことばを向き合わせる。「もっと」に届くように声を整える。
つまり、詩を書く。
いま、山田の夫は、ここにいない。遠くにいる。届かない。それを自分の住んでいる家に連れて帰るわけにはいかない。だから、そういう不可能と向き合いながら、山田はことばを語りかける。夫を呼ぶように。そして、その不可能なことを、不可能とは知りながらもそれでもつづけるとき、遠くと、いま、こことの間(「中空」に)、愛が深まる。それを、もっともっともっもと、
もっと
深く、強いものにするために山田は詩を書いている。
山田玲子『ツグミの家』は、詩集の冒頭にキーワードが書かれていた。「葉山」という作品。全行。
もっと 高い空があるのを
知った
鳥が中空をとんでいて
その時
鳥は散歩しているようだった
もっと上に まるい青空がある
<こんな冬に葉山へゆくなんて>
朝 夫は笑った
その葉山で 晴れた昼 浜辺を歩くと
夫は 中空を散歩する鳥だ
もっともっと高い空があると
かくれているものが 告げる
「もっと」。それは、とらえられないものを指している。把握できないものを指している。自分のものにできないものを指している。
そういうものがあるのだ。
いま、そこにある、それがわかるけれど、それは手に入らない。高い空がある。それはどこまで飛んでも(のぼっても)、「中空」である。
そこにあるのに、手に入らない。そういうことを知っていて、その「中空」を歩く。それは、「もっと」というものがあることを知らずにそこにいることとはまったく違う。山田は「もっと」があることを知っている。
それだけではない。
その「もっと」は、いま、ここにはいない(いるけれども、隠れているので、いないとしかいいようのない)ものが教えてくれる。山田は最初から「もっと」を知っているのではなく、誰かが教えてくれたのだ。
「もっと」は、それを教えてくれる人とともにある。その「誰か」は山田の場合(この詩集の場合)、亡くなった夫である。(詩集を読むと、山田が夫を亡くしたことが推測できる--もし、私の推測がちがっているのだったら、ごめんなさい。)
山田のそばからいなくなって、いなくなることによって、よりはっきり「いる」ことがわかる人間--そのひとが「もっと」があることを教えてくれる。山田に届かない世界があることを教えてくれる。
山田は夫を亡くして悲しい。悲しいけれど、その夫は「もっと」を教えてくれた。「もっと」とともにある。「もっと」について思うとき、そこには必ず夫が生きている。その、一種の幸せといってしまうといけないのかもしれないけれど、安心感、安定感--それが山田の詩集のことばを静かに落ち着かせている。美しい光を発する力のもとになっている、と感じた。
その葉山で 晴れた昼 浜辺を歩くと
夫は 中空を散歩する鳥だ
は、「学校教科書」の「論理」で言いなおせば、葉山で、晴れた昼に、浜辺を歩くと、空を飛ぶ鳥が、まるで夫が空を散歩しているように見える(感じられる)、ということになると思う。「夫は鳥」ではなく「鳥は夫」が現実と比喩との「論理関係」である。
けれども、山田は、それを逆に書く。
鳥が夫に見える(感じられる)ではなく、夫が鳥に見える。ここには、論理の、どうすることもできない「飛躍」がある。実感だけがとらえることのできる「間違い」がある。その「間違い」こそが詩なのである。
夫は鳥になって、いま、浜辺を散歩する山田の上を、中空を飛んでいる。まるで、山田の浜辺の散歩にあわせるように。そして、夫は、空を散歩しながら、「ほんとうはね、もっと高い空があるんだよ」と山田に気づかせる。その声を山田ははっきりと聞いたのだ。そして、山田は、「もっともっともっと、聞かせて」と語りかけている。
そのとき、山田は、浜辺を歩きながら、同時に中空を飛んでいる。
「もっと」というのは、だれもがつかう簡単なことばだが、その簡単なことばのなかに、山田は、深い哲学を、つまり愛をみつけている。
「もっと」を言いなおしたものが、2篇目の「ツグミの家」である。詩集のタイトルにもなった美しい作品である。
ほぼ一万キロメートルの空を飛んだ
南佛 プロヴァンス
その小さな村 ヴァンス
中世から続く村ときい
古くからの城壁に囲まれていて--
ルレ・カントメルル
<ツグミが歌う>
そういう意味というホテル
緑に囲まれた早朝
鳥がさえずっていた
どうしてツグミと 知れるだろう
わたしはその声を知らないのだから
トリノさえずり
この声を捕らえて
持ち帰れたら…
わたしの家の表札にルレ・カントメルルと書き記すのに
「この声を捕らえて/持ち帰れたら…」。その願いのむこうにあるのが「もっと」なのだ。「もっと」は絶対に持ち帰ることができない。持ち帰ったつもりでも、さらにそのむこうにありつづけるものである。
だから、「もっと」というのだ。
その「持ち帰れない」もの、「もっと」に出会ったら、どうするか。
ここから、山田のほんとうの哲学(思想)、つまり「肉体」が動きだす。「もっと」に対して呼びかけるのである。「もっと」に対して自分自身のことばを向き合わせる。「もっと」に届くように声を整える。
つまり、詩を書く。
いま、山田の夫は、ここにいない。遠くにいる。届かない。それを自分の住んでいる家に連れて帰るわけにはいかない。だから、そういう不可能と向き合いながら、山田はことばを語りかける。夫を呼ぶように。そして、その不可能なことを、不可能とは知りながらもそれでもつづけるとき、遠くと、いま、こことの間(「中空」に)、愛が深まる。それを、もっともっともっもと、
もっと
深く、強いものにするために山田は詩を書いている。
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