「失われたとき」のつづき。
私は、この3行が好き。前後の行とは無関係に好きだ。言い換えると、前後の行が語っている「意味・内容」とは無関係に好きだ、ということである。
「淋しい故に我れ存在する」は西脇が繰り返すテーマである。それにつづく2行は「淋しい」を定義し直したものである。その少年の姿--それが美しいのはもちろんだが、私は「アルミのたらいをもつてシャツ一枚きて」という1行のなかにある「音楽」が好きだ。
「アルミのたらい」とは「アルミの洗面器」のことだろう。まさか、大きなたらいをもって銭湯に行きはしないだろう。けれど、もしそれが「アルミの洗面器」と書かれていたら、そこに「音楽」はあったか。「音楽」はあるか。私は、たぶん、感じない。「アルミのたらい」だから「音楽」を感じる。「アルミ」「たらい」の音そのもののひびきのほかに、「たらい」そのものの意外性も影響しているかもしれない。
「アルミの洗面器」ではなく「アルミのたらい」。何が違うのか、一瞬、わからない。わからないけれど、わかる。「たらい」じゃなくて「洗面器」だろうと、すぐ、わかる。その小さな違和感が、そこにあることばそのものを「孤立」させる。「独立」させる。西脇の流儀で言えば「淋しく」させる。まるで宇宙にほうりだされたたったひとつの「アルミのたらい」のようにくっきりと見える。
それに「シャツ一枚きて」がぶつかる。
これも、実に、「淋しい」。美しい。「音楽」がある。
「銭湯にかけこむ少年は淋しい光りだ」は補足だ。けれど、この補足がないと「淋しい」がわからない。
この完璧な「音楽」に、また「音楽」をつづけるのは難しい。
この、行の「わたり」のぎくしゃくとしたリズム。それがかろうじて「ことば」を独立させる。「ピエトロ」「ベルジーノ」というカタカナに「イタリア」ではなく漢字で「伊太利」ということばをぶつけるとき、ことばは互いの連絡切断され、孤立する。「アルミのたらい」のようになる。「に行つてきた友人からもらつたいばらの根に」は両端を切断され、「淋しい」。
「八時頃」というのも、無意味に孤立している。だが、どんなに「無意味」「孤立」というものが出現しても、それは「アルミのたらいをもつてシャツ一枚きて」という美しさに匹敵できない。
は、「無意味」という「意味」ではなく、ほんとうに「意味」というものがないのだ。何とも関連していない。つながっていない。「友人」とも「外国」(伊太利)とも「パイプタバコ」とも--つまり、何らかの「教養」っぽいもの、「意味」っぽいものから孤立している。
その1行が、もし何かとつながっているとしたら、それは宇宙の核、宇宙全体の虚無とつながっている。向き合っている。向き合うという形で、切断されたまま、つながっている。
意味・内容とは関係なく、私は、ただそういう1行に出会いたくて詩を読んでいるのだと、そういうときに気がつく。
「淋しい故に我れ存在する」
アルミのたらいをもつてシャツ一枚きて
銭湯にかけこむ少年は淋しい光りだ
私は、この3行が好き。前後の行とは無関係に好きだ。言い換えると、前後の行が語っている「意味・内容」とは無関係に好きだ、ということである。
「淋しい故に我れ存在する」は西脇が繰り返すテーマである。それにつづく2行は「淋しい」を定義し直したものである。その少年の姿--それが美しいのはもちろんだが、私は「アルミのたらいをもつてシャツ一枚きて」という1行のなかにある「音楽」が好きだ。
「アルミのたらい」とは「アルミの洗面器」のことだろう。まさか、大きなたらいをもって銭湯に行きはしないだろう。けれど、もしそれが「アルミの洗面器」と書かれていたら、そこに「音楽」はあったか。「音楽」はあるか。私は、たぶん、感じない。「アルミのたらい」だから「音楽」を感じる。「アルミ」「たらい」の音そのもののひびきのほかに、「たらい」そのものの意外性も影響しているかもしれない。
「アルミの洗面器」ではなく「アルミのたらい」。何が違うのか、一瞬、わからない。わからないけれど、わかる。「たらい」じゃなくて「洗面器」だろうと、すぐ、わかる。その小さな違和感が、そこにあることばそのものを「孤立」させる。「独立」させる。西脇の流儀で言えば「淋しく」させる。まるで宇宙にほうりだされたたったひとつの「アルミのたらい」のようにくっきりと見える。
それに「シャツ一枚きて」がぶつかる。
これも、実に、「淋しい」。美しい。「音楽」がある。
「銭湯にかけこむ少年は淋しい光りだ」は補足だ。けれど、この補足がないと「淋しい」がわからない。
アルミのたらいをもつてシャツ一枚きて
この完璧な「音楽」に、また「音楽」をつづけるのは難しい。
ピエトロ ペルジーノを見に伊太利
に行つてきた友人からもらつたいばらの根に
つめるために八時頃街へ
パイプタバコを買いに出たが
この光りにあたつてそれは罪悪に
しかみえない--
この、行の「わたり」のぎくしゃくとしたリズム。それがかろうじて「ことば」を独立させる。「ピエトロ」「ベルジーノ」というカタカナに「イタリア」ではなく漢字で「伊太利」ということばをぶつけるとき、ことばは互いの連絡切断され、孤立する。「アルミのたらい」のようになる。「に行つてきた友人からもらつたいばらの根に」は両端を切断され、「淋しい」。
「八時頃」というのも、無意味に孤立している。だが、どんなに「無意味」「孤立」というものが出現しても、それは「アルミのたらいをもつてシャツ一枚きて」という美しさに匹敵できない。
アルミのたらいをもつてシャツ一枚きて
は、「無意味」という「意味」ではなく、ほんとうに「意味」というものがないのだ。何とも関連していない。つながっていない。「友人」とも「外国」(伊太利)とも「パイプタバコ」とも--つまり、何らかの「教養」っぽいもの、「意味」っぽいものから孤立している。
その1行が、もし何かとつながっているとしたら、それは宇宙の核、宇宙全体の虚無とつながっている。向き合っている。向き合うという形で、切断されたまま、つながっている。
意味・内容とは関係なく、私は、ただそういう1行に出会いたくて詩を読んでいるのだと、そういうときに気がつく。
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