詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

陶原葵『明石、時、』

2010-09-20 00:00:00 | 詩集
陶原葵『明石、時、』(思潮社、2010年09月01日発行)

 陶原葵『明石、時、』は、私には理解できない詩集だった。断章で構成された詩集なのだが、まったく理解できないことばがあった。「」の書き出し。

もってきたはずだったのだ、私は。
後ろ手にしていたものをさぐってみるが
糸だけが指に食いこんで

 この「私」とは何だろう。なぜ、「私」ということばがここにあるのか。なぜ、陶原は「私」と書いたのか。それが私にはわからない。
 「私」ということばが書かれていなければ、私にも陶原の詩は理解できたかもしれない。理解できた、と錯覚できたかもしれない。誤読できたかもしれない。
 たとえば「」。その書き出し。

いつものめまいではなかった壁の時計の急速な回転がとまらない
受信しているのだろう
でもこれでは何時なんだか(唯一の、粘り糸なのに
体感ではわずか数分
あっというまに半日が過ぎたことになっていて
(非現実のかたちがまるい、って

 ここには「私」ということばはつかわれていない。「私」とは呼べないものが、ここに生きている。たとえば「めまい」あるいは「体感」というものが、「私」と呼ばれること(「私」と名乗ること)を拒否して、生きている。
 この生のあり方は、とてもおもしろい。ぞくぞくする。

さかさまにまわしてはいけない 壊れてしまう
と おしえられてきたのに
針は今度は逆回転をはじめ
「……まきもどす……」
もう何回 きかされたことば
まったく共感しなくなった自分がここで
こんな形でむきあわされる

 「自分」は「私」ということばを回避しながら自己存在を肯定し、ここに存在させるための、仕方なしのことばである。
 陶原は「私」ということばを回避しながら、いま、ここに生きているいのちを、ことばでとらえようとしている。そうしたいのだけれど、どうしても「自己」をあらわすことばがないと書けないことがでてきて、それで仕方なく「自分」ということばをつかった。
 そんなことばをつかうことは、陶原の書きたいことばの運動とは矛盾する(そのことばの運動を阻害する)のはわかっているが、そういう矛盾をおかさないと、ことばが動かない。そういう局面である。
 陶原は、書くことの矛盾と「むきあわされ(てい)る」。
 これは、おもしろい。ここに、思想が、つまり「肉体」が動かざるを得ない「現場」がある。
 そして、ここから、ことばが崩れる。崩れて、その崩れそのものが陶原の「肉体」になる。最終連のことである。

壁からはずすと丸い頭に埃
あれ以来、 の堆積にしては
案外、    たいしたこともない
と       弧を拭きとると今度は
横たえた秒針が   五分幅の痙攣をはじめる

 これは壁掛け時計の描写に見えるが、そうではない。いや、壁掛け時計の描写であり、壁掛け時計の丸い頭(弧)につもった埃を拭きとった陶原がここにいるのではあるけれど、そのとき陶原は陶原自身であることを逸脱して、壁掛け時計そのものになって、秒針となって痙攣している。
 「自分」と呼ばれたもの、私たちが普通「私」と呼んでいるものは、ふいにあらわれた空白となって、そこに存在している。存在をあらわさないことによって、そこに存在している。「矛盾」そのもとして、そこに存在している。
 この「矛盾」そのものが、陶原であり、陶原の詩、ことばであると私は思ってこの詩集を読みはじめる。(読み終わったあとも、それが陶原だと思っている。)
 「私」は書かれないこと、空白と、その周囲にあつまってくる「破壊されたもの」、「糸」によって結びつけられている「ことば」、その破壊された関係によって、錯覚のようにして(あるいはインスピレーションのようにして)存在するものである。「糸」と呼ばれているのは、「ことばの運動」の「エネルギー」であるかもしれない。

 「私」は破壊されたことば--破壊という関係そのものとなって存在する。そのとき、悲鳴のようにして「肉体」がことばになってしまうときもある。「」。字下げを正確に再現できないので、引用は行頭を突き上げた形で表記する。

あそこにいこう あそこにいこう と いつも  背中が
あそこにいったら つぎはここにいくことになるよ と    耳が
それはそれで そのときのことだ と 左脳が

 「私」は「背中」に「耳」に「左脳」に切断、分離、破壊され、破壊されることでなまなましく、血を噴き出すようにして存在を主張する。それぞれが「私」である。そして、それゆえに「私」ではない、という美しい「矛盾」が出現する。
 「私」は「矛盾」になり、同時に「空白」=無になり、そこからたえず生成する「部分」として生きる。部分を「粘る糸」、つまり「ことば」で結びつけるとき、それは互いにそれぞれを拒絶しながら受け入れる。

 もし、そのように読んでもいいのだとしたら、この詩集はたいへんおもしろい。私は、そんなふうにしてこの詩集を読みたい。「誤読」したい。
 けれども、「」に書き記された「私」--そのひとことがそれを許してくれない。なんなのだろう、この「私」は。
 さっぱりわからない。




リターン
陶原 葵
ふらんす堂

このアイテムの詳細を見る

人気ブログランキングへ
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする