詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

池井昌樹『母家』

2010-09-25 00:00:00 | 詩集
池井昌樹『母家』(思潮社、2010年09月30日発行)

 池井昌樹の新しい詩集。もう、池井については何も書くことがないかもしれない。そう思うけれど、そして何度も書いてきたことをただ繰り返すだけなのかもしれないけれど、やはり書きたくなる。
 「魔法の小函」。祖父からもらった空き箱に夢中になり、落とし物をした。そのときの記憶を書いたものだ。大切なものなので、道順を思い出し、探し回った遠い町。

遺失物を見付けてくれたのは町内の深切であり魔法の小函ではなかった。(略)しかし、そのお陰で私はあの町の匂いを今でもありありと思い出すことができる。暖房などなかった朝のあの胸の空(す)く冷たさを、父の背の温もりを。思い出は書き留めたいと願った瞬間から跡形もない過去を脱して現在を生き始める。

 この部分はとても不思議である。「私はあの町の匂いを今でもありありと思い出すことができる」ということばにつづいて出てくるのは、本来、「におい」であるべきだ。どんなにおいがした? けれど、池井は「におい」を書かない。
 「胸の空く冷たさ」と「父の背の温もり」。「におい」のかわりに書かれているのは「冷たさ」と「温もり」である。どちらも嗅覚ではなく、触覚である。そうなのだ。池井は「におい(嗅覚)」と触覚を勘違いしている。混同している。区別がつかなくなっている。池井は、空気を「冷たい」と感じるときの「におい」がある、「背中の温もり」を感じるときも「におい」がする、と言い張るだろう。たしかに、「におい」はするだろうけれど、その「におい」はことばになっていない。「におい」はことばにならずに、かわりに触覚(肌の感じ)がことばになり、それを「におい」と勘違いしている。いや、この勘違いは、第三者(私、読者)からみたら勘違いになるだけで、池井の「肉体」のなかでは勘違いではない。
 書いているとおりなのだ。
 それはほんとうに「におい」なのだ。どれくらいはっきりしたにおいかというと、「あまい」とか「こげくさい」とか「みそのような」とか「りんごのような」とか言えないくらい池井自身の「におい」にからみついた「におい」、池井の「肉体」そのものの「におい」なのである。だれでも自分自身の「におい」はわからない--というのではない。そうではなくて、池井にはそれがわかりすぎるくらいわかっている。だから、説明しない。ことばにする必要を感じていないのだ。
 朝の冷たい空気のにおい。反対に、温かい父親の背中のにおい。冷たいと温かいのふたつのあいだに、すべてのものがそれぞれの「におい」になっている。どうして、それがわからない? 池井は、私の書いていることばを読みながら、そんなふうに怒りだすかもしれない。
 人間は不思議だ。人間はだれでも、ほんとうに知っていることはことばにできない。ことばにならない。知りすぎていて、それを説明する必要があるとは感じないからだ。その説明の必要がないことが「思想」なのである。わかりきったことが「思想」なのである。こんなことは、いま私が書いていることの説明にならないかもしれないが、たとえば「人を殺してはいけない」というのは、それが「わかりきった思想」であるのと同じである。ときどきどうして殺してはいけないのかと質問するひともあるようだが、そんな問題は説明する必要がない。どんなに説明したって、その説明は違っている。つまり、他人を納得させることはできない。「わかりきったこと」は「わからなくていい」ことでもあるのだ。
 「におい」というのは、池井にとって、そういうものである。
 朝の空気の冷たさ、父親の背中の温もり--それを「におい」と呼び、「あの町」のすべてと「ありありと」感じることが、池井の「思想」である。
 池井がそれを「ありあり」と感じるのは、「冷たさ」と「温かさ」という「幅」が「におい」のなかにあるからだ。「幅」(間)のなかで、あらゆることが起きるからである。単に存在しているのではなく、生まれてきて、動いていくものが、そこにひしめいている。そして、それは、

過去を脱して現在を生き始める。

 いつも、「現在」を生きている。「におい」(思想)に「過去」などない。ただ、「いま」があるだけである。「殺してはいけない」に過去がなく「いま」しかないのと同じである。そういうことは、ふつう、人はいちいちことばにしない。あるいはけっしてことばにしないというべきか。ことばにする必要がない、と言い換えるべきか。わかりきったことだからである。
 詩は--たぶん、そういう「わかりきったこと」を「わざと」ことばにすることなんだろうなあ。この「わざと」は「作為」をもって、という意味とは違う。むしろ、逆。何かにふいに突き動かされる。その瞬間、「肉体」のなかにすっかりとけこんでいたことばがふと動く。それは肉体を動かす。「におい」なんてないのに、「におい」を感じたように肉体に作用する。そういう何かが起きたとき、それを「わざと」ことばにする。ほんとうはことばにしなくていい。たいてい、ひとは、そういうことをことばにしないまま生きている。けれど、そのことばにしないもの、なかなかことばにならないものを、「わざと」(言い換えると、あえて、むりをして)ことばにする--そうすると、そこに詩があらわれる。
 「におい」ではないものを「におい」と書く。「わざと」書く。この「わざと」は「無意識」であり、「肉体」を脱いでしまうということでもある。裸になる。「なま」になる。いや、「生まれる前」になる--とも言い換えうるかもしれない。「生まれる前」のことなので、もちろん、その「わざと」には「技巧」などは入らない。「技巧」を無視した、絶対的な「わざと」である。そこでは「技巧」は拒絶、排除されている。
 この「わざと」の定義は矛盾している。しかし、矛盾の形でしか言えないことがあるのだ。池井が「冷たさ」「温かさ」を「におい」と書いたのと同じである。



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