詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

誰も書かなかった西脇順三郎(144 )

2010-09-15 12:13:46 | 誰も書かなかった西脇順三郎

 「失われたとき」のつづき。
 ことば--その何を「音」と感じ、何を「色」や「形」と感じるかは、難しい問題である。私は西脇のことばから「音」を感じる。色や形ももちろん感じるのだけれど、音をとても気持ちよく感じる。

あのイソギクの岩のすきまに
ものがたる女のむつごとに
も秋の日が傾いた
あの紺色の波が岩にくずれる
とき海の夫人がイソギクの根に
雲のようにたなびいてくる
海のどよめきに
言葉のつまづきに
この秋の日がくれて

 「あのイソギクの岩のすきまに」この1行の「イソギク」という音。私は、まず、その音に不思議な響きを感じる。「ソ」の音が美しいと思う。
 「ものがたる女のむつごとに」のなかには「ものがたる」と「むつごと」という音を感じさせることばが2回も出てくる。そのあとにも「どよめき」「言葉」という音そのものを感じさせる表現がある。
 どの音も、けれど「意味」を持っていない。--これは、とてもおもしろいことだと思う。「ものがたる」という表現はあっても、何を物語ったのか書かれていない。「むつごと」も具体的には書かれていない。「言葉のつまづき」も、どんなことばがつまずいたのか、具体的には書いていない。
 ここには音の「概念」だけがある。

 だから、「音楽的」ではない。

 と、いう人がいるかもしれない。
 けれど、私は、「音楽」を感じてしまう。
 「イソギク」という独立した音そのものにも音楽を感じるが、特に、「ものがたる女のむつごとに」に不思議なものを感じる。正確には(?)、つぎの行との関係性の中に音楽を感じる。

ものがたる女のむつごとに
も秋の日が傾いた

 この2行は、「ものがたる女のむつごとにも/秋の日が傾いた」か「ものがたる女のむつごと/にも秋の日が傾いた」が普通の書き方だと思う。行の「わたり」をおこなうにしても「に/も」という「わたり」はないだろう、と思う。
 しかし、そういう考え方は、きっと「学校教科書」の文法なのだ。「にも」を「に」と「も」に分割してはいけないという考え方は「学校教科書」の文法なのだと思う。
 西脇は、「にも」を分割して「に/も」と行の「わたり」を書いているのではない、と私は思う。

あのイソギクの岩のすきまに
ものがたる女のむつごとに

 と、自然に書いてきた。そして、そこでいったん、とまった。ことばが動かなくなった。次に書くことばが同じスピードではやってこなかった。「休止」があるのだ。「休止」のあとに、ふいに「も秋の日が傾いた」という音が押し寄せてくる。「音」を切断して、風景が動く。それこそ「絵画的」になる。「紺色の波」というような「色」を含んだことばもやってくる。
 それを、もう一度「あの紺色の波が岩にくずれる/とき海の夫人がイソギクの根に」という行の「わたり」を挟んで、「どよめき」「言葉(のつまづき)」という音そのものへかえしていく。音を強調するために、行の「わたり」というリズムの変化を持ち込む。
 「音楽」というのは「音」だけではない。「和音」だけではない。リズムがあってはじめて「音楽」になる、という部分がある。
 西脇は、ここでは「音」の「意味・内容」を拒絶しながら、「行のわたり」によって、その拒絶を「リズム」にかえている。「意味・内容」が空白なままの「音」が「リズム」そのものを「意味・内容」のかわりに、ことばの内部に取り込もうとしているように思える。

 「音」そのものを主役とした行は、数行先にもう一度登場する。

リンドウの花と苔と一緒にとつて
二人は路ばたで休んだ
あの音はもうたわごとにすぎない
女はしばらく藪の下にかくれた
谷川のせせらぎにきく
秋の日のあまりある言葉に
果てしない存在の
のびて行くすがたが
岩にぶつかつてまたくずれてゆく

 「ものがたる」「むつごと」は「たわごと」になり、「ことばのつまづき」は「ありあまる言葉」となって、秋の日のなかに吸収されていく。
 「意味・内容」のかわりに「リズム」をとりこんだことばは「無音の音楽」となって、秋の日に消えていく。
 そんなことを思うのである。



西脇順三郎絵画的旅
新倉 俊一
慶應義塾大学出版会

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谷合吉重『難波田』

2010-09-15 00:00:00 | 詩集
谷合吉重『難波田』(思潮社、2010年07月25日発行)

 谷合吉重『難波田』は、「難波田」と呼ばれる土地に限定して、そこで谷合が知ったことを書いている。起きたこと、見聞きしたこと、ではなく、「知った」ことを書いている。「知る」とは、それを自分の中に受け入れることである。受け入れなかったことは、「知らない」ことである。何があっても、「知らない」。そういう生き方がある。これは、そういう生き方をことばにした詩集である。
 何回か繰り返されることばがある。

書かれないことをやめない母に(31ページ)

書かれないことをやめない母から汗が滴る(35ページ)

未だ書かれることをやめない
母とパスポートを取りにゆく(39ページ)

 「書かれない」ということばとともにある「母」。そして、これは「母」が重要なのではない。重要ではない、というと少し違うのだけれど、重要なのは「書かれない」ということばである。
 世界にはいろいろなことがある。いろいろなことが起きる。そこには「書かれる」ものと「書かれない」ものがある。「書かれる」ものは知られ、「書かれないもの」は知られない。そして、「書かれる」ものより「書かれない」ものの方が圧倒的に多い。

 一方に「書かない」という選択肢があり、また一方に「書かれない」という選択肢もある。「書く」「書かない」ではなく、「書かれない」。
 それは「書かれる」「書かれない」という選択肢とは、ことばが同じであってもちがうあり方である。
 「書かない」ひとがいて、「書かれない」ひとがいる。それは、「母」ということばが象徴的だが血のようにつながっている。母を「書かない」谷合がいて、もう一方に「書かれない」母がいるのだ。谷合と母は切り離すことができない。たとえ母が死んでも、その「縁」は切れない。そういうものがある。
 谷合がこの詩集で書いているのは、そういう「縁」である。土地にまつわる「縁」--しかし「地縁」ではなく、ひととひととの「縁」。それがしみついたのが「土地」である。「土地」の内部が「縁」なのだ。
 その「縁」のなかへ、谷合は入っていく。
 そこで「母」が「書かれない」のは、谷合こそが「母」だからである。母を書かず、その周辺を書くことで、谷合は「母」になり、「母」になることで、「難波田」そのものになるとも言える。
 「書かれない」母が一方にいて、他方に「書かない」谷合がいて、「書かないこと」我母になること、難波田になること--というのは矛盾した言い方になるが、「書かない」ことによって、それは谷合の内部にとどまりつづけ、膨張し、やがて爆発する--その瞬間まで「存在」を抱え込むということ、抱え込みながら、その抱え込んだものによって肉体を乗っ取られること--そういう運動が、ここにある。

ゆきずりの子は
生母への怖れからか、
ほどかれた包帯のような
声を張り上げる。
(かあちゃん、ごめんなさい
 かあちゃん、ごめんなさい。) (07ページ)

 ここには「母」が出てきて「母ちゃん」も出てくるが、それでもここには「母」は「書かれていない」。どれだけ「母」が書かれても、「書かれていない」母というものが存在するということである。
 その「書かれない」母--書かれることのない母がすべてを引き寄せる。それが「難波田」である。書かれないものだけが、書かれるものに拮抗し、「土地」の内部を耕し、そたにたとえば花を咲かせるということだろう。そのとき花は、たしかに「象徴」になる。詩になる。
 「養父母を愛す」と書いた少女がからかわれ、入水自殺したと告げる断章のあとにおかれる次の断章。

時をおかずして
難波田城址の曲輪(くるわ)に
 白いユッカ蘭が咲いた
青白い光の下に
 きりきりきりと
   白いユッカ蘭が咲いた
葉は鋭く天を突き
 円錐花序を直立し、
  白いユッカ蘭が咲いた
(     /直立せよ
      /直立せよ
  円錐花序を直立せよ!)

 ここにある「書かれない」ことば、「書かれなかった」ことばとしての「空白」。その純粋さにつながるものとして、「書かれない・母」があるのだと思う。
 それが谷合の「難波田」なのだと思った。
            


難波田
谷合 吉重
思潮社

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