「失われたとき」のつづき。
ことば--その何を「音」と感じ、何を「色」や「形」と感じるかは、難しい問題である。私は西脇のことばから「音」を感じる。色や形ももちろん感じるのだけれど、音をとても気持ちよく感じる。
あのイソギクの岩のすきまに
ものがたる女のむつごとに
も秋の日が傾いた
あの紺色の波が岩にくずれる
とき海の夫人がイソギクの根に
雲のようにたなびいてくる
海のどよめきに
言葉のつまづきに
この秋の日がくれて
「あのイソギクの岩のすきまに」この1行の「イソギク」という音。私は、まず、その音に不思議な響きを感じる。「ソ」の音が美しいと思う。
「ものがたる女のむつごとに」のなかには「ものがたる」と「むつごと」という音を感じさせることばが2回も出てくる。そのあとにも「どよめき」「言葉」という音そのものを感じさせる表現がある。
どの音も、けれど「意味」を持っていない。--これは、とてもおもしろいことだと思う。「ものがたる」という表現はあっても、何を物語ったのか書かれていない。「むつごと」も具体的には書かれていない。「言葉のつまづき」も、どんなことばがつまずいたのか、具体的には書いていない。
ここには音の「概念」だけがある。
だから、「音楽的」ではない。
と、いう人がいるかもしれない。
けれど、私は、「音楽」を感じてしまう。
「イソギク」という独立した音そのものにも音楽を感じるが、特に、「ものがたる女のむつごとに」に不思議なものを感じる。正確には(?)、つぎの行との関係性の中に音楽を感じる。
ものがたる女のむつごとに
も秋の日が傾いた
この2行は、「ものがたる女のむつごとにも/秋の日が傾いた」か「ものがたる女のむつごと/にも秋の日が傾いた」が普通の書き方だと思う。行の「わたり」をおこなうにしても「に/も」という「わたり」はないだろう、と思う。
しかし、そういう考え方は、きっと「学校教科書」の文法なのだ。「にも」を「に」と「も」に分割してはいけないという考え方は「学校教科書」の文法なのだと思う。
西脇は、「にも」を分割して「に/も」と行の「わたり」を書いているのではない、と私は思う。
あのイソギクの岩のすきまに
ものがたる女のむつごとに
と、自然に書いてきた。そして、そこでいったん、とまった。ことばが動かなくなった。次に書くことばが同じスピードではやってこなかった。「休止」があるのだ。「休止」のあとに、ふいに「も秋の日が傾いた」という音が押し寄せてくる。「音」を切断して、風景が動く。それこそ「絵画的」になる。「紺色の波」というような「色」を含んだことばもやってくる。
それを、もう一度「あの紺色の波が岩にくずれる/とき海の夫人がイソギクの根に」という行の「わたり」を挟んで、「どよめき」「言葉(のつまづき)」という音そのものへかえしていく。音を強調するために、行の「わたり」というリズムの変化を持ち込む。
「音楽」というのは「音」だけではない。「和音」だけではない。リズムがあってはじめて「音楽」になる、という部分がある。
西脇は、ここでは「音」の「意味・内容」を拒絶しながら、「行のわたり」によって、その拒絶を「リズム」にかえている。「意味・内容」が空白なままの「音」が「リズム」そのものを「意味・内容」のかわりに、ことばの内部に取り込もうとしているように思える。
「音」そのものを主役とした行は、数行先にもう一度登場する。
リンドウの花と苔と一緒にとつて
二人は路ばたで休んだ
あの音はもうたわごとにすぎない
女はしばらく藪の下にかくれた
谷川のせせらぎにきく
秋の日のあまりある言葉に
果てしない存在の
のびて行くすがたが
岩にぶつかつてまたくずれてゆく
「ものがたる」「むつごと」は「たわごと」になり、「ことばのつまづき」は「ありあまる言葉」となって、秋の日のなかに吸収されていく。
「意味・内容」のかわりに「リズム」をとりこんだことばは「無音の音楽」となって、秋の日に消えていく。
そんなことを思うのである。
西脇順三郎絵画的旅新倉 俊一慶應義塾大学出版会このアイテムの詳細を見る |