詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

三池崇史監督「十三人の刺客」(★★★★)

2010-09-30 11:04:30 | 映画
監督 三池崇史 出演 役所広司、山田孝之、伊勢谷友介、松方弘樹、松本幸四郎、稲垣吾郎、市村正親

 この映画がおもしろいのは、ストーリーがわかっていること。観客に、ではなく、登場人物に、わかっていること。
 役所広司をはじめとする13人は稲垣吾郎を殺すことで彼らのストーリーが完結することを知っている。完結させるために集まった。一方、市村正親の方は13人がもくろんでいるストーリーを知っていて、それをどう突き破るかを考える。稲垣吾郎を殺させない、というのが市村正親のストーリーであり、そのストーリーを役所広司も知っている。矛盾するストーリーがぶつかり、どちらかのストーリーにならないといけない、ということは役所広司も市村正親も知っている。
 能天気なことにというべきなのか、「主役」の稲垣吾郎だけがストーリーを知らない。役所広司が自分を殺そうとしていることも、市村正親がそれを阻止しようとしていることも知らない。ただ、市村正親が自分を守るために存在しているということだけを知っている。
 だからこそ、実際の死闘がはじまったとき、稲垣吾郎は思わず「本音」を言ってしまう。「おもしろいのう。いままで生きてきた中でいちばん楽しい」。稲垣吾郎は「観客」のようにストーリーを見ている。役所広司、市村正親らの死闘を映画を見るように、ストーリーの展開の一部を見るように見てしまう。
 観客とは、まあ、そういうものなのである。
 で、その観客(稲垣吾郎)を、どうやって「現実」へ引きこむか--ということに重なるようにして、観客(私を含む映画館に来ているほんとうの「観客」)をスクリーンに引きこむために、脚本家、監督、出演者はあれこれと工夫を凝らす。
 今回の場合、成功の第一は脚本にある。最初に書いたように、役所広司も市村正親もストーリーを知っている。いわば「ネタバレ」の映画である。登場人物がストーリーを最初から知っているのだから、当然、それを見るほんものの観客もストーリーを知っている。次に何が起きるか、ではなく、「どんなふうに」それが起きるかだけを楽しめる。ストーリーはあるのだけれど、ストーリーは関係ないのだ。映像だけが、役者の顔だけが、この映画の醍醐味なのだ。
 最後の50分(と言われているが、測ったわけではないので、知らない)のアクションについては多くのひとが語るだろうから、役者の「顔」について書いておこう。
 役所広司の顔にはどこかぬけたところがある。騙されていても、それを信じ込むような人間性が残っている。「さゆり」の、おんなに言い寄られたとき、脚本を読んでいるから振られるとわかっているはずなのに、まるで騙されていることに気づかず、その気になる役所広司の顔は傑作である。あの顔が、役所の持ち味である、と私は思うのだが、その、一種、ふわーっとした感じが、あいまいな「ふところ」を、「広い」ふところにかえる。13人という集団を「ふところ」によってまとめるという感じにする。
 なかなかやってこない稲垣吾郎、市村正親の行列に、待ち伏せというストーリーに疑心暗鬼になる仲間に、「あせるな」と「待つ」ことを諭す。そのたとえに「釣り」などを持ち出し、気持ちを「戦」からそらす。集中ではなく、ときに意識をほどく--その、ほどかれた意識のひろがりを、「広いふところ」「度量」というのだが……。
 一方、市村正親は、広がりを拒絶する顔である。集中する。稲垣吾郎に集中する。あらゆることを稲垣吾郎に集中させる。行列が分断され、人数が減ってしまえば、あらたにひとがそろうまで待って動く。常に「集中」の密度を一定に高める。それは一種の「狭量」なのだが、それが市村正親の目と、顔の小ささ(役所広司に比べると顔の大きさが半分に感じられてしまう)に凝縮する。マンガで書くと、きっと市村正親の顔の大きさ(面積)は役所広司の半分以下である。
 もうひとり、稲垣吾郎は、「おれはスマップ、本式の役者じゃないからね」と別次元の顔をしている。この別次元の顔が、なぜかストーリーにぴったりあてはまる。役所広司のやっていることも、市村正親のやっていることも関係ない。おれはおれの好きなことをやる。まさに、暴君だねえ。史上最大の暴君だねえ。市村正親に「迷わずに愚かな道を選べ」なんていうところはぞくぞくするねえ。市村正親の顔と噛み合わない--そこが、この映画を活性化させている。稲垣吾郎だけが白い服というのも、ひとりだけ特別に浮かび上がって効果的だ。単に身分をあらわしている以上の効果がある。白に、血の赤も似合うからねえ。
 役所広司の「度量」の顔が、その「度量」のなかに13人を抱き込むのに対し、市村正親の「狭量」の顔が、「狭量」を焦点として 300人を集結しようとするが、たずなを絞りきれない。そればかりか「背後」に隠れていなければならないはずの稲垣吾郎は勝手に「狭い」背中からはみだしていってしまう。
 結局、役所広司は13人で戦っているのに、市村正親はひとりで戦っている。こりゃあ、負けるね。

 顔についてばかり書いたので、ちょっと脚本にも。
 伏線でいちばん気に入っているのは、役所広司たちが道場で訓練をするところ。武士道精神できれいに戦うのではない。「そこで足を払え」などと、勝つために何をすればいいかを身につける。役所広司はそのときはそれを見ているだけだが、これがクライマックスでちゃんと生かされている。役所広司は市村正親に「道場でなら、おれとおまえは五分だが、ここでは違う」と言うやいなや、足で泥をはね上げ、目つぶしをくらわせて切りかかる。こういうのは、好きだなあ。いきなり泥をはねあげ、目つぶしをくらわせると「やぼ」だけれど、伏線があると、それが「肉体」になる。「思想」になる。「生きる」ために何をすべきか、いちばん大切な「いのち」を守るために有効なものこそ「思想」なのだという哲学に変わる。そして、これがまたこの映画のというか役所広司が具現化する全体のストーリーを貫く「思想」でもある。いちばん大切なふつうの人々のいのちを守るためにすること、それは武士道(市村正親が具現化するもの)よりも「有効」である。
 なんて、書いてしまうと、映画がつまらなくなるから、ここの部分は忘れて映画を見てください。役所広司、市村正親、稲垣吾郎の顔の違いを楽しんでください。



 下にリンクしている「十三人の刺客」は「原作」。


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朝吹亮二『まばゆいばかりの』(2)

2010-09-30 00:00:00 | 詩集
朝吹亮二『まばゆいばかりの』(2)(思潮社、2010年08月20日発行)

ねえ、さん
あなたの空隙はそのまま私
の触れることのできるすべてなのです               (「日録」)

 と、書くとき朝吹は「空隙」を認識できている。しかし、

さん、私はいったい
どこのあわいにあなたを追いかけているのか 

 と書き直すとき、「空隙」(あわい)は、どこにあるかわからない。不明・不在である。もともと「さん」と固有名詞を省略した敬称だけの存在である「あなた」は不明・不在である。「どこ」というものは存在しない。ただ「さん」という敬称の、その私ではないものへの「思い」の、そのベクトルのなかに存在する。
 方向と、運動、その総和としてのエネルギーのなかに存在するだけである。エネルギーには、もちろん「空隙」はない。だから、朝吹は、最初から「不可能」を書いているのである。「不可能」なことばの運動と、運動の方へ(?)駆り立てているのである。

 ここから、ことばはどこへいくことができるか。どんな地平を切り開くことができる。

 たぶん、松浦寿輝ならその地平と、さらにその向こうについて(つまり朝吹のことばが切り開く先について)、的確に表現できるだろうと思う。
 私は、この詩集はとてもすばらしいものだと思うけれども、ていねいに朝吹のことばを追いかけてはいけない。つまずく。そのつまずきのことを書いておく。
 「植物譜」という作品。その冒頭。

ない、あたらしい朝
なんて
光、あふれて青ざめる
何も
ない季節にも冬の朝という時間もあった冬の早朝の植物譜にはシモバシラが記憶されていてしかもこれは薄雪草ではないのだ

 この尋常ではない美しさは「シモバシラ」、とくに「薄雪草」という非日常の、記憶のことばに起因している。朝吹は、そういうことばをつかうかもしれない。そういう光景を見るのかもしれない。朝吹には日常かもしれないが、私には日常ではない。
 そこに、それこそ「朝吹」と「あなた」、空隙としての「さん」のようなものがあるのだけれど……。
 そして、その「空隙」(日常と、非日常の切断面のようなもの)のなかにあるのは、その美しさは、「もの」ではなく、「ことば」である。それも「もの」が失った「ことば」である。「シモバシラ」はまだ「もの」でありうるが、「薄雪草」は「もの」でもなけれ「ことば」でもない。「もの」が失った「ことば」である。
 私には、朝吹の詩は、「もの」が失った「ことば」を、「さん」のなに見つけ出し(そして、触れ)、その消えてしまった痕跡を追いかけているように見える。その失われた「ことば」を見る視力、そしてその消えてく「ことば」に触れる触覚の繊細さに、私はどきどきしてしまうが、一方でつまずいてしまう。

さんが笑いながら話すイタリアの思い出それは地誌だったり中世の図譜だったりリディア旋法の記譜だったりするのだが

 あ、それは最初から「ことば」であり、「もの」であったことはないのではないのか、と--こういう部分で感じてしまうのである。「地誌」「図譜」「記譜」。「もの」を記憶に定着させるための「誌」「譜」としての「ことば」。
 そのとき、私は感じてしまうのだ。
 たとえば「シモバシラ」。それは「シモバシラ」として存在したのか。「薄雪草」として、朝吹の「肉体」とかかわったのか。朝吹の肉体が最初に出会ったのは「シモバシラ」だったのか、「薄雪草」だったのか。そのことが、とても気になるのである。
 朝吹の「肉体」が知っているのは「シモバシラ」であり、「薄雪草」は「肉体」ではなく、たとば「地誌」「図譜」「記譜」につらなる「他人の記憶(記憶のためのことば)」としてやってきたものではないのか。
 そうであるなら、そこには最初から「空隙」(あわい)は存在する。

 切断と接続と、その接点としての生成--そんなふうにして朝吹のことばをとらえるとき、切断に対する朝吹のかかわりかたが、「切断する」という朝吹からの働きかけを欠いたものではないのか、最初から「切断されている」のではないのか、ということが、ふと気にかかり、そこにつまずくのである。
 切断する--そのとき、「もの」か「ことば」かどちらかわからないが、切断されるものは悲鳴を上げるだろう。肉体はその悲鳴を聞くだろう。その悲鳴は肉体を傷つけるだろう。--その悲しい体験が、私には朝吹のことばから感じられない。
 切断はすでに存在する。過去、というか、記憶として存在していて、そこではもう「悲鳴」は乾いていて、肉体に触れてこない。肉体に反逆してこない。たとえば血のように絡みついてきて、朝吹に「殺人者(切断者?)」の刻印(証拠?)を残さない。朝吹は、ようするに、手を洗わなくていい。体を洗い清めなくてもいい。
 「無罪」である。
 「無罪」が完璧に保証されている「場」に立って、ことばを動かしている。

 私の読み方は「誤読」を超えて、「いじわる」かもしれない。反省しなければ……と思うが、まあ、そんな反省とは無関係に、朝吹のことばは美しい。美しすぎるから、そしてその美しさは私の「いじわる」くらいでは傷つかないとわかっているから、私は、ついつい書いてしまう。

 何はともあれ、2010年を代表する詩集であることは間違いない。(と、私は確信している。)私の感想など無視して、ぜひ、詩集を手にして、実際に読んでください。



記号論 (1985年)
朝吹 亮二,松浦 寿輝
思潮社

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