詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

フランク・ダラボン監督「ショーシャンクの空に」(★★★★)

2010-09-21 12:13:27 | 午前十時の映画祭

監督 フランク・ダラボン 出演 ティム・ロビンス、モーガン・フリーマン、ウィリアム・サドラー

 このシーンはいいなあ、大好きだなあと言わずにはいられないシーンがある。ティム・ロビンスが「フィガロの結婚」のレコードを見つける。そばにプレーヤーがある。我慢しきれずに、レコードをかける。それからマイクをとおして刑務所中に放送する。
 オペラを見たことのない人ばかり(たぶん)の刑務所。突然流れてくる歌声。みんな耳を澄ましている。それが何かわからない。わからないけれど、モーガン・フリーマンは、それがみんなのこころに届いているのを実感する--というようなナレーションが重なる。このシーンが、ほんとうに美しい。
 「フィガロの結婚」をなぜかけたのか--そのために独房に入れられ、やっと独房からティム・ロビンスがでてきたとき、モーガン・フリーマンがたずねる。ティム・ロビンスは、「誰の心にも、他人が触れることのできないもの(不可侵のもの)がある。希望がある。それに触れるのが音楽である」というようなことを言う。
 これは、この映画のテーマでもあるのだけれど、私はティム・ロビンスが語ったこととは別に、希望について考えた。
 世界にはわからないものがある。知らないことがある。そういうものに人間は触れることができる。そして、そのわからないもの、知らないもの--それを何だろうと思うこころこそ「希望」だと思う。
 わからない何か、知らない何か--それに触れ、それについていくこと(それに導かれるままに行動すること)。その結果、何が起きるかわからない。自分がどうなってしまうかわからない。それでも、どうなってもかまわないと決意して、知らないものについていくこと。それが、「希望」だ。
 ティム・ロビンスは脱獄を計画する。その計画が実現するかどうかは、わからない。そんなことをしたことがない。そういうことがあることは知っているが、ほんとうは知らない。体験したことがない。わからないけれど、知らないけれど、やってみる。
 そのことをすれば、自分が自分でいられなくなる。
 この映画では、具体的には、ティム・ロビンスは脱獄したあとは、それまでの「名前」「身分」をすっかり捨ててしまって「別人」という形で、「自分が自分でいられなくなる」という状態を表現している。
 「無実」が証明され、判決が取り消されない限りほんとうの解決ではない、という覚めた見方もあるかもしれないけれど、まあ、そんなことはどうでもいい。
 わからないもの、知らないものに身をまかせ、自分が自分でなくなる--そのときの「自由」を「希望」というのだ、とつげるメルヘンなのである。この映画は。
 ストーリーそのものが、そういうふうに展開していくけれど、私は、そのストーリー全体よりも、「フィガロの結婚」のシーンが好きなのだ。あのシーンがすべてを象徴している。刑務所の塀を越え、空の高みへ登り、どこまでも広がっていく音楽--その音に耳をすますとき、「いま」「ここ」にないもの、そしてそれまでどこにもなかったものが、たしかにこころに触れてくるのである。
                        (「午前十時の映画祭」33本目)

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志賀直哉(14)

2010-09-21 12:05:09 | 志賀直哉

「奇人脱哉」(「志賀直哉小説選 三、昭和六十二年五月八日発行)

 彫刻師・渡邉脱哉のことを書いた作品である。「人間がぬけてゐるから」というところからつけられた号だという。いろいろな話が出てくるが、最初の方に書かれている「盆栽」に対する志賀直哉の批評がおもしろい。

何(いづ)れも取るに足らぬ駄物ばかりであつた。唯、本統に愛翫してゐた為め、世話が行き届き、苔など、青々と、しつかりついてゐるのには好感が持てた。

 「本統に愛翫してゐた為め」ということばがあたたかい。この一文はなくても意味は通じる。さらにいえば、この「本統に愛翫してゐた為め」の「本統に」も、「意味」上はいらないことばである。けれども、志賀直哉は書く。ここに志賀直哉の「思想」(肉体)があらわれている。特に、「本統」ということばに。
 志賀直哉は「本統」しか書かない。
 「本統」ということば(表記)を私は知らなかった。志賀直哉以外にだれかつかっているかどうかも知らない。しらないからいいかげんなことを書いてしまうのだが、この「本統」という表記の仕方は、志賀の「思想」そのものをあらわしているかもしれない。
 「本統」の「統」は「統一」の「統」である。すべてをまとめる。その「本」というのだから、ものごとの「中心」、あるいは「はじまり」かもしれない。すべてを最初から最後まで統一していく力を指して、志賀直哉は「本統」をつかっている。
 「本統」というのはかるい表現ではなく、志賀直哉が心底共感したもの、志賀直哉が共有しても自分が困らないものに対して向けられたことばなのだ。
 ここでは、何かを愛玩するという気持ち、大切にするという気持ちを評価して「本統」と読んでいる。それはまっすぐに動いていく。だから、世話が行き届く。「本統」でなかったら、その「世話」は行き届かない。どこかでねじれて、水が涸れるように涸れてしまう。
 それはときに「我流」という流れになることもあるが、「我流」というのも「本統」である。独自のこころの「源」であり、そういう「源」から流れてくるものを志賀直哉は高く評価する「おもしろい」と感じている。
 風呂で石鹸をつかわないという脱哉の主張を紹介した部分がある。

人体から脂が出るといふのは健康に必要ガアルから出るので、それをシャボンで落して了しまふのは無謀な事で、例へば鰻でも、ヌラを去(と)ると、弱つて了ふ。人間の脂は鰻でいえばヌラと同じものなのだという理屈である。

 その意見に賛成というののではない。ただ、そんなふうに「本統」に考えるのは、おもしろい。そこにはまちがった論理の流れがない。一直線に流れていく「勢い」がある。
 こういう「本統」の「勢い」を「肉体」のなかにもっている人、そしてそれを生活のなかにまっすぐに実現するひと--そういうひとは「忘れる事の出来ない人」になる。そして、その「本統」の流れは、ときどき、志賀直哉たちの話題のなかに、ふっと噴き出してくる。脱哉とともに。


小僧の神様・一房の葡萄 (21世紀版少年少女日本文学館)
有島 武郎,志賀 直哉,武者小路 実篤
講談社

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丁海玉『こくごのきまり』

2010-09-21 00:00:00 | 詩集
丁海玉(チョン・ヘオク)『こくごのきまり』(土曜美術出版販売、2010年09月20日発行)

 丁海玉は「法廷通訳(人)」という仕事をしているらしい。その仕事を様子を書いた作品がいちばんおもしろい。いちばん刺激的だ。
 「ここではみんなことばは」の2連目。

裁判官の前にすわったおんなが
日本語とぼくの国のことばを訳している
ぼくは舌がこわばって
言いたいことの半分も言えないのに
なんとかつっかえ話したら
あんなにもためらいなくぼくを日本語で演じて見せた
石ころをおなかから
吐き出すように出したことばも
おんなには辞書にならぶ
ちいさな活字のひとつにすぎないらしい

 「裁判官の前にすわったおんな」は丁海玉だろう。丁海玉は、法廷で通訳をしたときのことを、彼女自身のことばではなく被告人の側から描いている。
 ここでは、ことばが不思議な動きをしている。独特の動きをするしかない。
 通訳をするということは、「意味」を正確に別の言語にかえることである。そのとき「意味」以外のものは切り捨てられる。通訳しながら丁海玉は「意味」以外のものを切り捨てていることに気がついている。「意味」にはなりきれない感情がそこにあるのに、それは訳出せずに「意味」だけを訳出している。
 そして、それだけでは不十分なのだと気づいている。だれのことばであっても、ことばは「意味」をこえるものを含んでいる。「意味」になりきれないものを含んでいる。それに気づきながら、「意味」しか通訳できない。伝えられない。
 それをどうにかしたい--そう思って書かれたのが、この詩のことばである。

 訳出されなかった苦しみ、ことばの「意味」をこえて暴走するものがある。それを知ってしまった丁海玉は、いま、その「意味」をこえるものを書くために、被告人のふりをしてことばを動かしている。そのなかに、丁海玉に関する思い、丁海玉への批判が含まれる。これがおもしろい。

 それは、ほんとうに被告人の「ことば」なのか。それとも被告人がそう考えた(感じた)と思ったときの、丁海玉のことばなのか。区別がつかなくなる。被告人の苦しみを伝えるはずのことばが、丁海玉の苦悩を伝えることばに変わってしまう。被告人を代弁しようとすればするほど、丁海玉は被告人を裏切るのである。裏切ってしまうことになるのである。

 ここから、書くということの「暴走」がはじまる。詩がはじまる。
 「石ころをおなかから/吐き出すように出したことば」の、そのことばを発するときの苦悩が丁海玉によって「翻訳」されなかったと被告人が怒るとき、それは丁海玉の、そういうことばを「翻訳」できなかったことへの苦しみを語ることと同義になる。被告人の「思い」を伝えることができない、被告人の語っている「意味」しか伝えることができない、被告人の苦悩を直に感じ取ることができるのは丁海玉しかいないのに、その直に感じた感情を伝えることができないという苦しみ。それは、丁海玉が単に法廷通訳人であるだけではなく、詩人であるとき、より強い苦しみになる。
 丁海玉が伝えうるのは被告人の語っている「意味」にすぎない。被告人の語っていることば、その「ことばの肉体」を伝えられない。そのことを、また、こんなふうにして書いてみても、それは被告人の「ことばの肉体」を語ることにはならない。それを語ることができなかったという丁海玉の「ことばの肉体」を語るにすぎないのだ。
 被告人のことを語ろうとすればするほど、そしてそのとき被告人になりすまして語ってみても、それは丁海玉のことしか語れない。「自己弁護」になってしまう。自己弁護してしまう丁海玉の「ことばの肉体」の弱点を語ることしかできない。
 丁海玉の意図に反して、ことばはそんなふうに暴走していく。そして、そのことばの弱点が丁海玉を疲れさせる。

 その疲労困憊した丁海玉の肉体から立ち上がってくることばが、とても美しい。
 「ゆうごはん」。

きょう
あなたはけいむしょいきです、と
男につうやくした裁判所からの
かえりみち
デパ地下に寄って
かつおのタタキを買ってから
ホームの電車に飛び乗った

(略)

家についてすぐに米をあらう
はんせいしています
にどとしません
の、男のことばは
ざくざく
米のとぎ汁に流れていく
炊飯ジャーのスイッチを入れた
赤いボタンがひかりはじめる

炊きたてのごはんの甘い湯気を嗅ぎながら
ポン酢におろしにんにくを混ぜながら
いつものように
ゆうごはんを食べる
きょう
あなたはけいむしょいきです、と
男につうやくしたことなんか
冷えたビールを喉に流し込みながら
すっかり
忘れてしまった
ように飲み干した

 ことばは「肉体」になる。「いつものように」という、どうすることもできない部分にかえっていって、そこから丁海玉を乗っ取ってしまう。
 「意味」も「感情」も、もう、もちこたえられない。
 最後の2行の「忘れてしまった/ように飲み干した」の「ように」のことばの強さ。あらゆることが「ように」を吐き出しながら「肉体」の奥にたまりつづけるのだ。そして、それが積み重なって、丁海玉そのものになる。
 丁海玉が出会った被告人のことば、その語りきれなかったもの、通訳しきれなかったものが、丁海玉そのものになる。
 それにあらがいながら、丁海玉は丁海玉であろうとする。そのとき、丁海玉に語れるのは、「いつものように」かつおのタタキを食べた、ビールを飲んだというようなことだけなのである。
 「はんせいしています/にどとしません」も「あなたはけいむしょいきです」も「意味」ではなくなる。「意味」はどこかへいってしまって、たどりつけない「肉体」の絶望になる。

 絶望は人間にとって必要なものであるかどうか、よくわからない。けれど、そういうどうすることもできないものを丁海玉は覗いてしまったのだ。ことばで。その絶望を、私は、なぜか、美しいと感じてしまう。
 そこには「正直」がある。





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