詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

井宮陽子『豆腐とロバと』(2)

2010-09-24 00:00:00 | 詩集
井宮陽子『豆腐とロバと』(2)(詩遊社、2010年09月20日発行)

 井宮陽子『豆腐とロバと』のなかでは、ほんとうに正直な肉体が動いている。「元気な顔」という作品も、とても気持ちがいい。病気をして入院をしている詩なのに、あ、病気をして入院してみたい、という不謹慎(?)な気持ちになってしまう。

入院している私に
何か欲しいものある?
と聞いてくれるので
元気な顔と答えたら
みんな元気な顔を見せにきてくれた
だから私もお返しに
元気そうな顔をした
何人もお見舞いに来てくれたときは
本当に元気になったような気がした
けれど静かになると
もうヘトヘトで
ただ横になって
目を閉じるだけだった
眠ればいいのに
それもできなくて
元気な顔ばかり思い出していた

 誰が見舞いに来たか私は知らない。知らないけれど、その知らないひとの顔が見えるような気持ちになる。ヘトヘトに疲れているのに、眠るのではなく、知り合いの顔を思い出してしまう。その、不思議な興奮。よろこび。「元気な顔」と抽象的に書いてあるのに、それが見えてしまう。
 なぜだろう。

もうヘトヘトで
ただ横になって
目を閉じるだけだった

 ここに正直な肉体、肉体自身の声があるからだ。肉体は疲れたよ、もうだめだよ、と苦しんでいる。それなのに、こころは肉体を裏切って、友達の顔を思い出している。この矛盾、人間が肉体とこころをもったために起きてしまう矛盾が、どちらも正直に書かれているからである。
 遠慮していない。
 遠慮が必要のない正直さだ。遠慮がいらない、というのはとてもいいことだ。井宮の肉体とこころは互いに遠慮せずに自己主張する。そういう井宮だからこそ、他人(たとえば、夫、たとえば両親)とも遠慮のない正直な関係を築くことができる。それを正直なことばにして動かすことができる。
 夫との美しい関係は、「ポケット」で証明済みだが、「疲れていないときに、ね」が
大笑いしてしまうほど、遠慮がない。特別おかしなことを書いたつもりはないと井宮はいうかもしれないけれど、なんだか、私は蒲鉾が食べたくなってしまった。(詩集で読んでください。)

 両親との遠慮のない関係を書いたものに「残された手紙(二)」がある。父が結核で入院し、母は漢語に疲れている。「健康だけが取り柄と聞いて結婚したのに」と愚痴をこぼしていた母を覚えている。その母が手紙を残していてくれた。その母は、結婚に失敗したと後悔しているように見えたけれど……。

 残された手紙を読んでいると、そうでもなかった。「いえも仕事も子供たちのことも思わずに、そばにいれたらと思う」「病院に行っても人の目があり、手一つ握ることもできない」と母が言えば「早く帰って一緒に寝たい」と父が言っている。私が知っている両親に、こんな感情があったとは意外だった。けれど、これらの手紙を母が残した理由は自分たちのことを知ってほしい、そんな気持ちだったような気がする。

 「知ってほしい」。人は誰でも自分のことを知ってほしい。そのとき「遠慮」が消える。そこに美しさがある。「遠慮」をすてて「正直」になる。この正直は、真っ裸の肉体である。こころが「遠慮」という重い服を脱ぎ捨てると、生まれたての肉体が輝くのである。
 「ポケット」の温かさも、「ポケット」のなかで遠慮なく触れ合う手の温かさ、遠慮を捨てて、新しく生まれる手の血潮に満ちた温かさだ。

 父と墓前で「再会」する詩も、とてもあたたかい。

お父さんと同い年になったわ
五十八歳やで
若いんやから
まだまだ楽しまんとあかん
体に気ぃつけや
父は言った
私は下を向いて
うなずくのが精一杯だった

 井宮は何度下を向いて父のことばを聞いたのだろう。人は、父のことばを何度下を向いて聞くことがあるだろう。「遠慮」を静かに脱ぎながら、そのとき父は語りかけている。真っ裸で。そして、そのとき井宮がどんなに服で肌を隠していても、父には、生まれたときのままの正直な井宮の「はだか」の「肉体」が見えている。つまり、「こころ」が見えている。父は何でも知っている。そして、知っていることを娘に知ってもらいたい。だから、こ「こころ」には触れない。「体に気ぃつけや」と何も見えないふりをする。
 何もいわない--そのとき、いわないからこそ、そのいわなかったことばのなかに「私の過去」が噴出してくる。

 個性というのは、正直な、その人自身の「過去」「私生活」なのだ、とふと思った。いや、確信した。



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