詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

藤維夫「道しるべ」、財部鳥子「老水夫」

2010-09-19 00:00:00 | 詩(雑誌・同人誌)
藤維夫「道しるべ」(「SEED」23、2010年08月29日発行)

 藤維夫「道しるべ」を読むと、藤は現実と向き合いことばを動かす詩人というよりは、ことばと向き合い現実をととのえる詩人であることがわかる。

道しるべの期待の遠さ
途方もない方角でシンフォニエッタの悲しいしらべの近くにあり
名だけの空虚をかかげ
壁におしこまれた恋人のようにとりのこされる
もう文脈を曲がるだけ
川の瀬音と東屋にとり残された野犬の鳴く声がする

 「も文脈を曲がるだけ」という1行が藤のことばと現実の関係を象徴している。道をまっすぐに歩いても「文脈を曲がる」ことはできるのである。どこを歩かなくても「文脈を曲がる」ことはできる。ことばが現実を選択しながら、現実をととのえるのである。
 「期待の遠さ」「しらべの近く」。そこにあるのは「遠い」「近い」ということばがつくりだす距離である。「遠い」「近い」ということばに頼らなければ存在しえない距離というものがある。その距離を、そのひろがりを「空虚」と名づけるとき、藤のことばの運動が克明に見えてくる。
 「空虚」ではなく、「壁」におしこまれたならどんなにいいだろう。おしこまれて「恋人」のようにとりのこされたらどんなにいいだろう。
 ことばは、しかし、とりのこされることがない。「文脈」を曲がれば、もう「壁」をぬけだししてまっている。「壁」は「東屋」にかわり、「恋人」は「野犬」になっている。そして、ことばは「鳴いている」(泣いている)。
 あ、でも、これは簡単過ぎる運動だ--といってしまうと、いいすぎだろうか。
 「シンフォニエッタの悲しいしらべ」という、顔が赤らむようなことばの動きが「簡単過ぎる」という印象を与えるのかもしれない。

 ことばから出発して現実をととのえる--という印象は「美しく悲しみだけの通り道」の次の部分にも感じる。

気のおけない振舞いのなか
会話がとだえる
今と言う地図を戻ったばかりだから
平穏はそのまま平穏として生きている

 「今」と「今」と呼ぶことで(定義することで)、時間から空間(地図)にかわる。ことばは、ある存在を別の存在に変形され、定着させる方法なのである。藤にとっては。



 財部鳥子「老水夫」(「鶺鴒通信」ι夏号、2010年08月25日発行)は現実を描写しながら、現実から離れ、離れることで現実の内部に戻ってくる深く戻ってくる。

舷側の霧のなかから強いペンキの臭いがする。たるんだ赤い頬の老水夫が円柱の一本を塗りおえた。のろのろと脚立をうごかして、ペンキの剥げたところから錆びるランプシェードの裏を仔細に調べている。

彼には赤道もオホーツクもない。船具の腐蝕があるだけだろう。

 現実をことばで定着させる。「舷側の霧のなかから強いペンキの臭いがする。」と書くことで、ペンキのにおいを「強く」する。そういう現実のととのえ方をすると、現実の方が、現実のむこうにある「事実」を見せてくれる。

彼には赤道もオホーツクもない。

 この、不思議な飛躍が美しい。そして、そういうことばでしかたどりつけない「どこか」を通過すると、そこには現実がよりなまなましい形であらわれてくる。それはまるで、ことばが通過することではじめて生まれてくるもののようである。

彼には(略)船具の腐蝕があるだけだろう。


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