詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

井宮陽子『豆腐とロバと』

2010-09-23 00:00:00 | 詩集
井宮陽子『豆腐とロバと』(詩遊社、2010年09月20日発行)

 井宮陽子『豆腐とロバと』の詩は「現代詩」の範疇には属さないかもしれない。たとえば、きのう読んだ八潮れん『ウーサ』のような詩集を「現代詩」という定義する場合には。--簡単に言うと、ことばを、いまあることばの規則から解放し、ことばの自由を取り戻すという運動からは遠い詩集ということになるかもしれない。
 けれど。
 井宮の詩が、そのことばが、ことばを「破壊」していないかといえば、そんなことはない。「破壊」の仕方が「現代詩」の流儀と違うというだけのことで、そこにはやはり「破壊」がある。つまり、それまでのことばの運動を破っていく強い力がある。
 「ポケット」という作品。

懐かしいね
古着の生理をしていた私は
夫と顔を見合わせて笑った
昔、夫が来ていたコートだ
結婚する前
私たちは仕事の帰りによく会った
寒いとき私は必ず
このトレンチコートのポケットに
手を入れた
二本も入れたら
大きくなってしまうと言ったが
ポケットの中の暖かさがうれしくて
あうとすぐに手を入れていた
私たちは今日一日のことを
話しながら歩いていたと思う
そのあいだ左側のポケットは
ずっと膨らんだままだった
あれから三十五年がたった
ポケットの中はまだ温もりが
残っているような気がした

 夫のトレンチコートが出てきた。いっしょに思い出も出てきた。どの行にも無理なことばづかいはない。「わざと」がない。素直に井宮の思い出と感情がつづられているだけのように見える。実際、正直に井宮は書いているのだが、その正直が肉体となって、ことばを「壊している」。つまり、井宮にしか書けないことを書いている。別の言い方でいうと「個性」がしっかりと打ち出されている。
 「二本も入れたら/大きくなってしまう」と「夫(恋人)」は言った。言ったけれど、「手を出せ」とは言わなかった。夫はそういう性格の人なのだ。そして、そういう性格であると知っているから(わかったから)、井宮は「会うとすぐに」ポケットに「手を入れていた」。「入れた」ではなく「入れていた」。つまり、ずーっと、何回も何回も「入れていた」。そして、歩きながら一日の出来事を語り合った。話したことは忘れているが、手を入れていたことを覚えている。そして、

そのあいだ左側のポケットは
ずっと膨らんだままだった

 あ、ここが、とても。てとても美しい。息が詰まるくらい美しい。
 ポケットに手を入れて、一日の出来事を語り合うとき、ポケットがどんな状態(膨らんでいるかどうか)なんて、見ていない。見ていないけれど、その見ていなかったものが、いま、見える。歩いているとき、誰が右側、誰が左側というようなことは意識しない。無意識に肉体が選んでしまう。井宮と恋人の場合、井宮が左側、恋人が右側。井宮が右手を恋人のポケットにつっこむ。そのために左側のポケットが膨らむ。
 ここには「私生活」が書かれている。無意識の「私生活」が書かれている。「私」というものが具体的に書かれている。井宮にしか書けない、井宮の具体的な記憶が書かれている。
 「左側」に。
 恋人のポケットに手を入れて歩いた--だけなら、「左側」にこだわらなければ、それは誰の記憶でもある。「左側」と書いた瞬間に、井宮の「過去」(私の個人的なことがら)が、ことばをつきやぶってあらわれてくる。
 どういうことか、というと。
 ねえ、(と、私は、この文章--つまり、私の文章を読んでいる、あなたに呼びかけてみる、質問してみる)。
 ねえ、あなたの場合はどうだった? 恋人と歩くとき、好きな人と歩くとき、あなたはどっち側? 右側? 左側?
 井宮の「個人的なことがら」にひっぱりだされるようにして、あなたの個人的な体験がひっぱりだされませんか?
 いまは、どう? 夫(妻)と歩くとき。不倫相手と歩くとき。同じ? つかいわけている?
 「左側」。この単純なことばが、過去の肉体をひっぱりだし、いまの肉体をもう一度目覚めさせる。左側って、どっち?
 どっちであっても、「文章」自体は成り立つ。けれど、そのとき「肉体」はどっちでもいいとはいわない。肉体が「文章」を破って、ことばをこうでないといけない、と主張している。
 ここには、そういう力がある。

 八潮のことばには「みだら」だの「からだ」だの「エクスタシー」だののことばがあったが、それは「文章」にすぎなくて、「みだら」は「みだら」の「意味」にとじこめられていた。
 井宮の「左側」はそうではない。「左側」なんて、みだらだもなんでもない。抽象的なというか、何にでも当てはめることのできる「意味」になってしまう小学生でも知っていることばである。そうであるけれども、その「左側」には、冷たくなった指先、その冷たさがしだいに温かくなっていくときの気持ちよさ、指が触れるときのうれしさ、絡まる指の力を感じるよろこび--そういうものが含まれている。「左側」を突き破って、井宮の記憶が動いている。
 その記憶が、その肉体が、井宮の肉体の記憶であるにもかかわらず、
 私の、
 記憶となって、私の肉体のなかによみがえる。

 私は井宮ではない。会ったこともない。井宮の夫ももちろん知らない。知らないのに、二人の「肉体」に起きたことがらを、自分の「肉体」に起きたことがらと勘違いしてしまう。「誤読」してしまう。
 こういう「誤読」。自他の区別を越えてしまって「誤読」を誘うことばこそ、詩である。こういう「誤読」が起きるときのことを、私は「ことばが壊れる」という。
 私は私の「肉体」と井宮の「肉体」が別のものであることをしっかり意識できるにもかかわらず、ことばがその意識を壊し、区別をないものにしてしまう。そのとき、これは私の「肉体」、詩に書かれているのは井宮の「肉体」であるということばの区別は「壊れている」。

あれから三十五年がたった
ポケットの中はまだ温もりが
残っているような気がした

 あ、何年前だろう。私の場合、そういうことがあったのは。私は古いコートをもっていないが、押し入れをひっくりかえして(押し入れもわが家にはないのだけれど)、古いコートを探したい気持ちになる。そしす、そのポケットに手を突っ込んでみたくなる。
 井宮のことばは、そんなことまで私に要求してくる。

 こんなむちゃくちゃなことを要求してくるなんて、井宮さん、あなたはことばのつかいたかをまちがっています。あなたのことばは壊れています。書いてはいけないこと(他人に要求してはいけないこと)を書いています。
 と、理不尽な反発をしてしまいたい。
 それくらいに、この詩が好き。大嫌いといわないと落ち着かないくらいに、ここに書かれていることばにひっぱりまわされてしまう。

 この矛盾、好きと大嫌いを繰り返して、大嫌いこそが大好きという意味なんだ、というような、論理の見境がつかなくなるような瞬間こそ、詩なんだなあ、と思う。




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