池井昌樹『母家』(3)(思潮社、2010年09月30日発行)
池井はいつでも同じことを書いている。それは、しかし、どんな詩人だってそうなのだ。同じことしか書けない。
池井の場合の同じこと--というのは、向き合って、見つめ合って、そのふたつのものがわからなくなる、区別がなくなるということかもしれない。
「螢」という詩が私は好きだ。
「だれかのむねのふかみへと」と「だれかのむねのふかみから」は反対のことばである。論理的には反対だけれど、池井にとっては同じことだ。「だれかのむねのふかみへと」つづく道は、「だれかのむねのふかみ」からつづいているのだ。
それはつながっている。
いつでも、すべてがつながっている。つながっていないものはない。つながっているということは、そして池井にとって向き合っているということと同じである。向き合うことがつながるということである。
そして、向き合うということは、みつめるということでもある。
池井は何かを見つめる。それは、何かと向き合うということである。そして向き合ったとき、池井とその対象は「同じもの」ではないのだけれど、向き合うという行為のなかで、「違い」が消えて「同じ」だけがつながる。
そして、その「同じ」とは「また」であり「まだ」である。「あくるひへまたあくるひへ」の「また」。「いつまでもまだみつめている」のまだ」。「また」は繰り返し。「まだ」は「いまで」ではなく「はてない」につながる「まだ」である。それは繰り返し繰り返し繰り返すものだから(また、また、また、とつづくものだから)、永遠に「まだ」なのだ。永遠におわらないのだ。
「星菓」にも似た展開がある。
「また」は「なんどもなんども」である。
そして、その繰り返しのなかでは、正反対のものが「同じ」になる。「おきられない」と「ねむられない」は「同じ」である。正反対--矛盾が、繰り返しのなかで溶け合い、区別がつかなくなる。それが「永遠」の意味でもある。
池井はいつでも同じことを書いている。それは、しかし、どんな詩人だってそうなのだ。同じことしか書けない。
池井の場合の同じこと--というのは、向き合って、見つめ合って、そのふたつのものがわからなくなる、区別がなくなるということかもしれない。
「螢」という詩が私は好きだ。
だれかのむねのふかみへと
ひとすじつづくみちがあり
みちのかなたにもりがあり
こんもりとしたもりかげに
ちいさなちいさなひをともす
ほたるみたいないえがあり
それをとおくでみつめている
こんなにとおくでみつめている
だれかのむねのふかみから
しずかなみちがながれだし
あくるひへまたあくるひへ
はてないときがながれだし
あかねにそまるそらのした
だれもがひとりたどるころ
だまってそれをみつめている
いつまでもまだみつめている
あんなちいさな
ほたるのあかり
「だれかのむねのふかみへと」と「だれかのむねのふかみから」は反対のことばである。論理的には反対だけれど、池井にとっては同じことだ。「だれかのむねのふかみへと」つづく道は、「だれかのむねのふかみ」からつづいているのだ。
それはつながっている。
いつでも、すべてがつながっている。つながっていないものはない。つながっているということは、そして池井にとって向き合っているということと同じである。向き合うことがつながるということである。
そして、向き合うということは、みつめるということでもある。
池井は何かを見つめる。それは、何かと向き合うということである。そして向き合ったとき、池井とその対象は「同じもの」ではないのだけれど、向き合うという行為のなかで、「違い」が消えて「同じ」だけがつながる。
そして、その「同じ」とは「また」であり「まだ」である。「あくるひへまたあくるひへ」の「また」。「いつまでもまだみつめている」のまだ」。「また」は繰り返し。「まだ」は「いまで」ではなく「はてない」につながる「まだ」である。それは繰り返し繰り返し繰り返すものだから(また、また、また、とつづくものだから)、永遠に「まだ」なのだ。永遠におわらないのだ。
「星菓」にも似た展開がある。
それからなんどもめをさまし
なんどもなんどもねむったけれど
ねてもさめてもおきられない
ねてもさめてもねむられない
「また」は「なんどもなんども」である。
そして、その繰り返しのなかでは、正反対のものが「同じ」になる。「おきられない」と「ねむられない」は「同じ」である。正反対--矛盾が、繰り返しのなかで溶け合い、区別がつかなくなる。それが「永遠」の意味でもある。
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