詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

伊藤比呂美「日系人の現在(母が死んだ)」

2011-01-17 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
伊藤比呂美「日系人の現在(母が死んだ)」(「現代詩手帖」2011年01月号)

 季村敏夫『ノミトビヨシマルの独言』のことばの気迫と向き合いつづけるのと、少し休憩したくなる。休憩に利用されては困る--と叱られるかもしれないが、伊藤比呂美「日系人の現在(母が死んだ)」を読みながら、詩のことばについて考えた。

ある日私は一時間半のあいだ運転して日本領事館へ行った
証明するためである
私が私であると
母が死んだ
解約せねばならない、母の口座を
口座には入っておる
はした金が定期になって
手続きをせねば解約できない、その口座を

 行分けにはなっているが、文体そのものは「散文」である。ひとつのことを言って、それを次のことばできちんと説明する。前に書かれたことを踏まえて、次のことばが展開していく。
 ここでは、倒置法が多用されている。母が死んで、その残した口座を解約するには、私が母の娘であるということを証明する必要があった。そのために、私は領事館へ行った--とふつうの「作文」(学校の作文)なら書くかもしれない。その「内容(意味)」を伊藤は倒置法で書いている--というのが、この詩の(作品の)ひとつの分析である。
 と、書いてみても、あ、ここからは、この作品が詩であるという「証明」はできないなあ。なぜ、これが、「作文」や「エッセイ」ではなく詩なのか、ということを語ったことにはならない。
 なぜ、詩なの? この作品を詩にしているのは、何?

私が私であると

 この1行に、その「理由」があると思う。伊藤の「肉体」(思想)が結晶している。伊藤にしか書けないことばがここにある、--この1行は「伊藤語」で書かれている。詩人の名前を冠してしかとらえることのできない「語」があるとき、それは詩である。
 私は、引用部分を散文化するとき、「私は私である」という部分を「私は母の娘である」と書き直した。実際に、銀行で求められているのは母-娘(私)の「肉親」であることを証明する「文書」である。「私が私である」という同義反復、自己完結の証明ではなく、「私」と「母」の関係を証明することを求められている。
 でも、この「関係」を証明することを求められていることを、伊藤は「私は私である」と証明すること、と置き換えるのである。この置き換えが「伊藤語」のはじまりである。「私」から出発し、「私」に戻ってくる--その自己完結が「伊藤語」である。
 どんなに他人との関係を書いても、どんなに他人を潜り抜けても、伊藤は「私」に戻ってくる。「私」から出て行って、「他人」になってしまうということがない。そういう「回路」を確立したことばが動き回るから、ここに書かれていることばは詩になるのである。

 ことばは--一般的なことばは「自己完結」ではない。それは自己完結ではなく、常に変数を抱え込んだ「関係」である。ことばだけでなく、人間存在そのものが「関係」である。伊藤は、「私は私である」と自己主張するが、他者はそうではなく「伊藤-母(あるいは、父でもいいが)」の「関係」を伊藤であると定義する。
 「私は私である」というときの「定義」の仕方が、伊藤と他人(世間・銀行の形式)では違う。その違いが「私は私である」と伊藤がことばを書くとき、くっきりと浮かび上がる。

書類という書類を取り集めてくるように
対面した年上の男の銀行員に指示された
証明するためであった
母が母であると
父が父であったと
私が私であると

 この部分の後半の3行は、正確には(?)、「母が私の母であると/父が私の父であったと/私が母と父の子どもであると」ということである。
 「私の」母、「私の」父の、「私の」がここでは省略されている。「私の」は伊藤にとっては自明過ぎて(肉体にしみつきすぎて)、それを書くことができないのだ。こんなふうに、完全に肉体にしみついて、肉体になってしまっていて、ことばにならないものを、私はキーワードと呼んだり、思想と呼んだりするのだが、思想というのはいつでも他人とぶつかったとき、そこにがんじがらめの「事態」を引き起こす。(これが社会的な広がりをもつとき、「事件」になる。)このがんじがらめの、面倒くさい「事態」は、思想にとっては大問題である。
 --でも、赤の他人の私にとっては、伊藤の思想の格闘は、とっしもおかしい。伊藤には申し訳ないが、「笑い話」である。楽しい。

わずらわしさに放り出したくなったが
はした金でも貴重な金であって、粛々と手続きをつづけた
そこで判明したのが、通帳もない、一つの口座
母がつくった、父も知らなかった、それを
さまざまな
事情や、情動や
緊張や、絶望が洩れてきて思わず耳を塞いだ
銀行員はつづけた、残金は518 円です、その口座、そして
通帳がないと「紛失扱い」になってさらに夥しい書類が必要になる、と

 母はいつか口座があると伊藤に言ったのだ。そして、その口座の通帳が見つからないので、銀行に行って、その旨伝え、解約しようとしたら、なんと残金は 518円。口座の残金がそうなるまでには「さまざまな/事情や、情動や/緊張や/絶望が」母を襲ったであろうということが、伊藤にはわかった。いっしょに生きてきたのだから。伊藤の見逃してきた「関係」が見えてきたということかもしれない。
 伊藤は「私は私である」という世界を生きているが、そこには同時に、それをとりまく「関係」、意識してこなかった「関係」がある。
 「私は私である」と主張しようとすればするほど、その単純明確なことがら(肉体を起点にする伊藤にとって「私は私である」は、自分の肉体に触って確かめるだけで成立する証明である)が、ややこしいものに巻き込まれていく。

忘れましょうよ
と私はそっと提案したが彼は受け入れなかったのである
私はさらに夥しく
書類という書類に記入し、書類という書類を取り集めた
母は母であった
と証明する書類
母は生まれてこのかた
名前と住所をてんてんと変えながらもつねに母であった
と証明する書類
母は母であった
と証明できない書類
(東京大空襲で某区が全勝してしまったのである)

 「忘れましょうよ」はケッサクだなあ。「もう、いいです」(もう、口座はどうでもいいです。権利を主張しません、放棄します)という意味なのだろうけれど、いったん動きだした「関係」は「関係」が完結するまで「関係」の証明を求めつづける。
 --ということが、延々とつづいていく。
 その途中に「母は生まれてこのかた/名前と住所をてんてんと変えながらもつねに母であった」という女の「暮らし」がきちんと書き込まれもする。生まれ、名づけられ、結婚し、姓がかわり、そういう変化の中でも、母は、その母の肉体は母のままであった。肉体としての母は紛れもない存在だった、ということもきちんと書かれる。
 「私は私である」と同様「母は母である」。その時も、肉体が存在証明(関係証明)の基本である。
 そして、この延々とつづくことばの運動に、一つ、特徴がある。
 繰り返しである。
 散文なら、繰り返しを省略して、文章を完結にする。けれど、伊藤の詩では、そういうことは起きない。何度でも繰り返す。重要なことは繰り返す。繰り返し、確かめながら、ことばをもう一度、最初から動かすのである。

私は私である

 繰り返し繰り返し、そのことばを口にして(伊藤の詩は、「文語」ではなく「口語」である)、肉体をくぐらせる。喉をくぐらせる。舌にのせる。唾もとばす。そうして、確かめるのである。
 ことばを、肉体が、生まれて、成長し、変化し、動いていくように、常に、「生まれる」という場から動かし直すのである。この運動が、伊藤の詩である。
 詩--それは、常に、いままであったことばではなく、「いま」「ここ」から生まれてくることばなのだ。伊藤は、そのことばを、まるで出産するかのように、伊藤自身の肉体をくぐらせて生み出し、育てる。繰り返し、繰り返しは、生み出したことばに対して、がんばれ、もっと大きくなれ、大きくなって敵を叩き殺せ、と励ますようでもある。

 伊藤の詩を読むと、ことばに対して、もっと元気になれ、と自然にいいたくなる。なんでもいいから、書いてしまえ、と励まされたような気持ちになる。勇気をもらえる感じがする。
 タイトルは「日系人の現在(母が死んだ)」なのだが、日本語の現在、(詩は死んだ)と読み替えて、詩を、日本語をはげましている伊藤の姿を私は見るのである。





読み解き「般若心経」
伊藤 比呂美
朝日新聞出版
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ピーター・イェーツ監督「ブリット」(★★★★)

2011-01-17 23:16:57 | 午前十時の映画祭
監督 ピーター・イェーツ 出演 スティーヴ・マックイーン、ロバート・ヴォーン、ジャクリーン・ビセット

 かつて見たとき、印象に残ったのはサンフランシスコのカーチェイスと夜の空港、滑走路での追跡である。今回、「午前十時の映画祭」で見直して、やはりカーチェイスのシーンがすばらしいと感じたが、全体も非常に充実していることに気がついた。
 冒頭、監督らのクレジットの文字のなかから場面があらわれるのも新鮮だが、それ以上にひとつひとつのシーンが「もの」の材質に迫っている。単に「もの」をスクリーンに映し出すのではなく、「もの」の存在感をスクリーンに定着させている。オフィスの襲撃(強盗?)のシーンの、室内の感じ、壁の感じ、ガラスの感じ、光と闇の感じ--そして、そこから、登場人物の「素質」のようなものも感じられる。あ、これは役者の「存在感」をそのままスクリーンに定着させて動いていく映画なのだ、とわかる。
 主役はスティーヴ・マックイーン。その演技が、ストイックでとてもおもしろい。「事件」を頭で完全に理解し、その理解にそって肉体を動かしている。アクションの基本は「頭脳」なのだという印象を強く浮かび上がらせる。--こんな映画とは、知らなかった。そのことに、とても驚かせた。昔見た映画とは別物、という感じすらした。
 役者の「素質」というか「素材」のおもしろさ--それが端的に出ているのがロバート・デュバルのつかい方である。タクシーの運転手を演じている。後部座席のシートの後ろに犬のぬいぐるみを置いている。スティーヴ・マックイーンが被害者の動き再確認するために、そのタクシーに乗る。ロバート・デュバルはいろいろ「証言」するのだが、その最後の決めて、
 「被害者は2度電話した。2度目は遠距離だ」
 「どうして遠距離とわかる」
 「コインの数だ」
 この冷静な分析。さすが、「ゴッド・ファーザー」の弁護士だなあ。ロバート・デュバルに演じられないなあ、と感心してしまった。(昔は、ロバート・デュバルなんて、知らなかった。)
 ジャクリーン・ビセットもおもしろい。使える車がなくなったとき、スティーブ・マックイーンの「足」になって車を運転する。途中で、異変に気づき、殺人の「現場」へ駆けつける。マックイーンに何か起きたのでは、と心配してのことなのだが。そのときの、カンのあらわし方、その後の悲しみのあらわし方--特に、悲しみの深さが彼女をより美しくみせるというつかい方が、とてもすばらしい。ジャクリーン・ビセットには悲しみの中で知的に輝き、そのとき彼女の人間としてのやさしさがあふれる。
 カーチェイスは、いまの映画に比べると「地味」なのだが、その地味さのなかに、美しさがある。サンフランシスコの坂をとてもよくつかっている。坂はずーっと斜面なのではなく、道とクロスするとき平らな部分が出てくる。その平らな部分を通り、もう一度さかに入る瞬間、車が必然的にジャンプする形になる。そこに無理がない。ここでもサンフランシスコという町(坂)の材質・素質(?)というものが浮き彫りになる。車の運動の特質も浮き彫りになる。存在感がくっきりしてきて、スクリーンを見ていることを忘れる。「町」そのもののなかで、カーチェイスを見ている感じになる。
 途中、タイヤのホイールが外れるのは「演出」か「偶然」かわからないが、そのホイールの転がる音が、映像を「必然」に変えてしまう。カーチェイスそのものの材質というのは変だけれど、手触りのようなものが一気にスクリーンから噴出してくる。いまの映画のCGでは出でこない味である。

 ストーリーではなく、「味」をみせる映画なのだ。この映画が「ダーティー・ハリー」のようにシリーズ化されなかったのは、ストーリーではなく、役者や都市の「味」を見せる映画であるという特質も関係しているかもしれない。
                      (「午前十時の映画祭」50本目)



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