伊藤比呂美「日系人の現在(母が死んだ)」(「現代詩手帖」2011年01月号)
季村敏夫『ノミトビヨシマルの独言』のことばの気迫と向き合いつづけるのと、少し休憩したくなる。休憩に利用されては困る--と叱られるかもしれないが、伊藤比呂美「日系人の現在(母が死んだ)」を読みながら、詩のことばについて考えた。
行分けにはなっているが、文体そのものは「散文」である。ひとつのことを言って、それを次のことばできちんと説明する。前に書かれたことを踏まえて、次のことばが展開していく。
ここでは、倒置法が多用されている。母が死んで、その残した口座を解約するには、私が母の娘であるということを証明する必要があった。そのために、私は領事館へ行った--とふつうの「作文」(学校の作文)なら書くかもしれない。その「内容(意味)」を伊藤は倒置法で書いている--というのが、この詩の(作品の)ひとつの分析である。
と、書いてみても、あ、ここからは、この作品が詩であるという「証明」はできないなあ。なぜ、これが、「作文」や「エッセイ」ではなく詩なのか、ということを語ったことにはならない。
なぜ、詩なの? この作品を詩にしているのは、何?
この1行に、その「理由」があると思う。伊藤の「肉体」(思想)が結晶している。伊藤にしか書けないことばがここにある、--この1行は「伊藤語」で書かれている。詩人の名前を冠してしかとらえることのできない「語」があるとき、それは詩である。
私は、引用部分を散文化するとき、「私は私である」という部分を「私は母の娘である」と書き直した。実際に、銀行で求められているのは母-娘(私)の「肉親」であることを証明する「文書」である。「私が私である」という同義反復、自己完結の証明ではなく、「私」と「母」の関係を証明することを求められている。
でも、この「関係」を証明することを求められていることを、伊藤は「私は私である」と証明すること、と置き換えるのである。この置き換えが「伊藤語」のはじまりである。「私」から出発し、「私」に戻ってくる--その自己完結が「伊藤語」である。
どんなに他人との関係を書いても、どんなに他人を潜り抜けても、伊藤は「私」に戻ってくる。「私」から出て行って、「他人」になってしまうということがない。そういう「回路」を確立したことばが動き回るから、ここに書かれていることばは詩になるのである。
ことばは--一般的なことばは「自己完結」ではない。それは自己完結ではなく、常に変数を抱え込んだ「関係」である。ことばだけでなく、人間存在そのものが「関係」である。伊藤は、「私は私である」と自己主張するが、他者はそうではなく「伊藤-母(あるいは、父でもいいが)」の「関係」を伊藤であると定義する。
「私は私である」というときの「定義」の仕方が、伊藤と他人(世間・銀行の形式)では違う。その違いが「私は私である」と伊藤がことばを書くとき、くっきりと浮かび上がる。
この部分の後半の3行は、正確には(?)、「母が私の母であると/父が私の父であったと/私が母と父の子どもであると」ということである。
「私の」母、「私の」父の、「私の」がここでは省略されている。「私の」は伊藤にとっては自明過ぎて(肉体にしみつきすぎて)、それを書くことができないのだ。こんなふうに、完全に肉体にしみついて、肉体になってしまっていて、ことばにならないものを、私はキーワードと呼んだり、思想と呼んだりするのだが、思想というのはいつでも他人とぶつかったとき、そこにがんじがらめの「事態」を引き起こす。(これが社会的な広がりをもつとき、「事件」になる。)このがんじがらめの、面倒くさい「事態」は、思想にとっては大問題である。
--でも、赤の他人の私にとっては、伊藤の思想の格闘は、とっしもおかしい。伊藤には申し訳ないが、「笑い話」である。楽しい。
母はいつか口座があると伊藤に言ったのだ。そして、その口座の通帳が見つからないので、銀行に行って、その旨伝え、解約しようとしたら、なんと残金は 518円。口座の残金がそうなるまでには「さまざまな/事情や、情動や/緊張や/絶望が」母を襲ったであろうということが、伊藤にはわかった。いっしょに生きてきたのだから。伊藤の見逃してきた「関係」が見えてきたということかもしれない。
伊藤は「私は私である」という世界を生きているが、そこには同時に、それをとりまく「関係」、意識してこなかった「関係」がある。
「私は私である」と主張しようとすればするほど、その単純明確なことがら(肉体を起点にする伊藤にとって「私は私である」は、自分の肉体に触って確かめるだけで成立する証明である)が、ややこしいものに巻き込まれていく。
「忘れましょうよ」はケッサクだなあ。「もう、いいです」(もう、口座はどうでもいいです。権利を主張しません、放棄します)という意味なのだろうけれど、いったん動きだした「関係」は「関係」が完結するまで「関係」の証明を求めつづける。
--ということが、延々とつづいていく。
その途中に「母は生まれてこのかた/名前と住所をてんてんと変えながらもつねに母であった」という女の「暮らし」がきちんと書き込まれもする。生まれ、名づけられ、結婚し、姓がかわり、そういう変化の中でも、母は、その母の肉体は母のままであった。肉体としての母は紛れもない存在だった、ということもきちんと書かれる。
「私は私である」と同様「母は母である」。その時も、肉体が存在証明(関係証明)の基本である。
そして、この延々とつづくことばの運動に、一つ、特徴がある。
繰り返しである。
散文なら、繰り返しを省略して、文章を完結にする。けれど、伊藤の詩では、そういうことは起きない。何度でも繰り返す。重要なことは繰り返す。繰り返し、確かめながら、ことばをもう一度、最初から動かすのである。
繰り返し繰り返し、そのことばを口にして(伊藤の詩は、「文語」ではなく「口語」である)、肉体をくぐらせる。喉をくぐらせる。舌にのせる。唾もとばす。そうして、確かめるのである。
ことばを、肉体が、生まれて、成長し、変化し、動いていくように、常に、「生まれる」という場から動かし直すのである。この運動が、伊藤の詩である。
詩--それは、常に、いままであったことばではなく、「いま」「ここ」から生まれてくることばなのだ。伊藤は、そのことばを、まるで出産するかのように、伊藤自身の肉体をくぐらせて生み出し、育てる。繰り返し、繰り返しは、生み出したことばに対して、がんばれ、もっと大きくなれ、大きくなって敵を叩き殺せ、と励ますようでもある。
伊藤の詩を読むと、ことばに対して、もっと元気になれ、と自然にいいたくなる。なんでもいいから、書いてしまえ、と励まされたような気持ちになる。勇気をもらえる感じがする。
タイトルは「日系人の現在(母が死んだ)」なのだが、日本語の現在、(詩は死んだ)と読み替えて、詩を、日本語をはげましている伊藤の姿を私は見るのである。
季村敏夫『ノミトビヨシマルの独言』のことばの気迫と向き合いつづけるのと、少し休憩したくなる。休憩に利用されては困る--と叱られるかもしれないが、伊藤比呂美「日系人の現在(母が死んだ)」を読みながら、詩のことばについて考えた。
ある日私は一時間半のあいだ運転して日本領事館へ行った
証明するためである
私が私であると
母が死んだ
解約せねばならない、母の口座を
口座には入っておる
はした金が定期になって
手続きをせねば解約できない、その口座を
行分けにはなっているが、文体そのものは「散文」である。ひとつのことを言って、それを次のことばできちんと説明する。前に書かれたことを踏まえて、次のことばが展開していく。
ここでは、倒置法が多用されている。母が死んで、その残した口座を解約するには、私が母の娘であるということを証明する必要があった。そのために、私は領事館へ行った--とふつうの「作文」(学校の作文)なら書くかもしれない。その「内容(意味)」を伊藤は倒置法で書いている--というのが、この詩の(作品の)ひとつの分析である。
と、書いてみても、あ、ここからは、この作品が詩であるという「証明」はできないなあ。なぜ、これが、「作文」や「エッセイ」ではなく詩なのか、ということを語ったことにはならない。
なぜ、詩なの? この作品を詩にしているのは、何?
私が私であると
この1行に、その「理由」があると思う。伊藤の「肉体」(思想)が結晶している。伊藤にしか書けないことばがここにある、--この1行は「伊藤語」で書かれている。詩人の名前を冠してしかとらえることのできない「語」があるとき、それは詩である。
私は、引用部分を散文化するとき、「私は私である」という部分を「私は母の娘である」と書き直した。実際に、銀行で求められているのは母-娘(私)の「肉親」であることを証明する「文書」である。「私が私である」という同義反復、自己完結の証明ではなく、「私」と「母」の関係を証明することを求められている。
でも、この「関係」を証明することを求められていることを、伊藤は「私は私である」と証明すること、と置き換えるのである。この置き換えが「伊藤語」のはじまりである。「私」から出発し、「私」に戻ってくる--その自己完結が「伊藤語」である。
どんなに他人との関係を書いても、どんなに他人を潜り抜けても、伊藤は「私」に戻ってくる。「私」から出て行って、「他人」になってしまうということがない。そういう「回路」を確立したことばが動き回るから、ここに書かれていることばは詩になるのである。
ことばは--一般的なことばは「自己完結」ではない。それは自己完結ではなく、常に変数を抱え込んだ「関係」である。ことばだけでなく、人間存在そのものが「関係」である。伊藤は、「私は私である」と自己主張するが、他者はそうではなく「伊藤-母(あるいは、父でもいいが)」の「関係」を伊藤であると定義する。
「私は私である」というときの「定義」の仕方が、伊藤と他人(世間・銀行の形式)では違う。その違いが「私は私である」と伊藤がことばを書くとき、くっきりと浮かび上がる。
書類という書類を取り集めてくるように
対面した年上の男の銀行員に指示された
証明するためであった
母が母であると
父が父であったと
私が私であると
この部分の後半の3行は、正確には(?)、「母が私の母であると/父が私の父であったと/私が母と父の子どもであると」ということである。
「私の」母、「私の」父の、「私の」がここでは省略されている。「私の」は伊藤にとっては自明過ぎて(肉体にしみつきすぎて)、それを書くことができないのだ。こんなふうに、完全に肉体にしみついて、肉体になってしまっていて、ことばにならないものを、私はキーワードと呼んだり、思想と呼んだりするのだが、思想というのはいつでも他人とぶつかったとき、そこにがんじがらめの「事態」を引き起こす。(これが社会的な広がりをもつとき、「事件」になる。)このがんじがらめの、面倒くさい「事態」は、思想にとっては大問題である。
--でも、赤の他人の私にとっては、伊藤の思想の格闘は、とっしもおかしい。伊藤には申し訳ないが、「笑い話」である。楽しい。
わずらわしさに放り出したくなったが
はした金でも貴重な金であって、粛々と手続きをつづけた
そこで判明したのが、通帳もない、一つの口座
母がつくった、父も知らなかった、それを
さまざまな
事情や、情動や
緊張や、絶望が洩れてきて思わず耳を塞いだ
銀行員はつづけた、残金は518 円です、その口座、そして
通帳がないと「紛失扱い」になってさらに夥しい書類が必要になる、と
母はいつか口座があると伊藤に言ったのだ。そして、その口座の通帳が見つからないので、銀行に行って、その旨伝え、解約しようとしたら、なんと残金は 518円。口座の残金がそうなるまでには「さまざまな/事情や、情動や/緊張や/絶望が」母を襲ったであろうということが、伊藤にはわかった。いっしょに生きてきたのだから。伊藤の見逃してきた「関係」が見えてきたということかもしれない。
伊藤は「私は私である」という世界を生きているが、そこには同時に、それをとりまく「関係」、意識してこなかった「関係」がある。
「私は私である」と主張しようとすればするほど、その単純明確なことがら(肉体を起点にする伊藤にとって「私は私である」は、自分の肉体に触って確かめるだけで成立する証明である)が、ややこしいものに巻き込まれていく。
忘れましょうよ
と私はそっと提案したが彼は受け入れなかったのである
私はさらに夥しく
書類という書類に記入し、書類という書類を取り集めた
母は母であった
と証明する書類
母は生まれてこのかた
名前と住所をてんてんと変えながらもつねに母であった
と証明する書類
母は母であった
と証明できない書類
(東京大空襲で某区が全勝してしまったのである)
「忘れましょうよ」はケッサクだなあ。「もう、いいです」(もう、口座はどうでもいいです。権利を主張しません、放棄します)という意味なのだろうけれど、いったん動きだした「関係」は「関係」が完結するまで「関係」の証明を求めつづける。
--ということが、延々とつづいていく。
その途中に「母は生まれてこのかた/名前と住所をてんてんと変えながらもつねに母であった」という女の「暮らし」がきちんと書き込まれもする。生まれ、名づけられ、結婚し、姓がかわり、そういう変化の中でも、母は、その母の肉体は母のままであった。肉体としての母は紛れもない存在だった、ということもきちんと書かれる。
「私は私である」と同様「母は母である」。その時も、肉体が存在証明(関係証明)の基本である。
そして、この延々とつづくことばの運動に、一つ、特徴がある。
繰り返しである。
散文なら、繰り返しを省略して、文章を完結にする。けれど、伊藤の詩では、そういうことは起きない。何度でも繰り返す。重要なことは繰り返す。繰り返し、確かめながら、ことばをもう一度、最初から動かすのである。
私は私である
繰り返し繰り返し、そのことばを口にして(伊藤の詩は、「文語」ではなく「口語」である)、肉体をくぐらせる。喉をくぐらせる。舌にのせる。唾もとばす。そうして、確かめるのである。
ことばを、肉体が、生まれて、成長し、変化し、動いていくように、常に、「生まれる」という場から動かし直すのである。この運動が、伊藤の詩である。
詩--それは、常に、いままであったことばではなく、「いま」「ここ」から生まれてくることばなのだ。伊藤は、そのことばを、まるで出産するかのように、伊藤自身の肉体をくぐらせて生み出し、育てる。繰り返し、繰り返しは、生み出したことばに対して、がんばれ、もっと大きくなれ、大きくなって敵を叩き殺せ、と励ますようでもある。
伊藤の詩を読むと、ことばに対して、もっと元気になれ、と自然にいいたくなる。なんでもいいから、書いてしまえ、と励まされたような気持ちになる。勇気をもらえる感じがする。
タイトルは「日系人の現在(母が死んだ)」なのだが、日本語の現在、(詩は死んだ)と読み替えて、詩を、日本語をはげましている伊藤の姿を私は見るのである。
読み解き「般若心経」 | |
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