詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

長谷川龍生「倦怠」

2011-01-03 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
長谷川龍生「倦怠」(「現代詩手帖」2011年01月号)

 長谷川龍生「倦怠」には「記憶のなかに消えることのない他者の祭祀」というサブタイトルがついている。インドを旅したときのことを書いてる。そこでジャン・ジャーク・ルソーを思い、そのことばを反復し、それからまたインドへ戻る。なぜ、インドまで行って、ルソーを思い出さなければならないのか。そんな理由は、きっと誰にもわからない。思い出したという「事実」があるだけである。思い出して、そこから、ことばが動いた--そういう「事実」があるだけである。そういうことを書いたあとで、

真実 そんなものは見たこともなし
真理 そんなものは聞いたこともなし
ずぶ濡れになって ころがり込んだぼくの手のひらの貧しいインド紙幣
それを船賃であると もぎとった船頭の営為
ただ、それだけである。
もうれつな 倦怠が おそってくる。

 あ、と私はつぶやく。自分のことばが動かなくなったのを感じる。このとき自分のことばが動かなくなったというのは、ちょっと正確ではない。ほんとうは、一瞬、長谷川のことばがわからなくなった、ということである。それまで、長谷川の書いていることばを読むことで、私は私の知っていることばを動かしていた。長谷川のことばに重ねる形で私のことばを動かしていた。それはたとえて言えば、誰かの朗読(発言)合わせて、私自身の口を動かしているようなものである。それが、ここへきて、ぱたっと止まった。動けなくなった。

倦怠

 倦怠って、何? いやになって怠けること、あきあきすること。疲れてだるいこと。辞書にはそんなふうに書いてある。そして、その「意味」を私は知っている。だが、いま、ここで長谷川の書いている「倦怠」の原因は? それがわからない。インドの船頭が長谷川から紙幣をむしりとったこと。それが、なぜ、「倦怠」の原因?
 あ、これも正確な書き方とはいえないなあ。
 長谷川の書いている「倦怠」の意味がわからない、その原因がわからない--と書きながら、実は、わかっているのである。それは、ほんとうは「倦怠」ということばではない。辞書に書いてあるような意味ではない。けれども、何かが「倦怠」とつながっている。まるで何かに殴られて、肉体が動かなくなったような、激しい疲労感と、どこかでつながっている。
 いや、これも正確ではない。長谷川は、いま、ここで、誰も書いたことのない「倦怠」を発見して、それを書いてしまったのである。そのことが直感的にわかった。あ、自分の意志とは無関係に生きているひとに出会い(他人に出会い)、その他人の人生によって自分の何かがさらわれていく(信じられないものに殴られたような衝撃、というのは、たぶんここからきている。「負けたあ」という感じだろうか。)--それに抵抗できない一瞬、そこに「倦怠」の源がある。それを直感的にわかってしまったのである。
 普通の辞書に書いてある「倦怠」とはまったく違った新しい「倦怠」ということばがここにある。
 こういうとき、私のことばは動かなくなる。動かしようがない。新しいことばに出会い、それを納得してしまうと、そのときから私は私のことばをつくりかえなければならない。自分のことばをつくりかえというのは、簡単なことではない。だから、とまどって、立ち止まってしまうのである。
 そして、それから、いまこうしているように、自分のことばを最初から動かし直す。長谷川のことばにぶつかって、立ち止まったことを、そのままことばにしてみるのだ。ことばにしてみたからといって、どうにもならない。それでも、そうするしかない。
 ここからは、長谷川の詩を読む、ことばを読むのではない。ここからは、いままで、どこにもなかったことばを手で触りながら確かめるだけである。長谷川のことばに、私は私の「肉体」を重ねるのである。
 ことばに「意味」を求めない。「意味」というのは、結局のところ、自分自身の「過去」にしかない。すでに知っていることにしかない。そういう「意味」では、長谷川のことばは何ひとつ理解できない。「倦怠」ということば以降、そこにはいままでのことばとは違う「長谷川語」が書かれているのだ。(ほんとうは、もっと早くから「長谷川語」が書かれているのかもしれないが、私が「長谷川語」と感じたのは「倦怠」からである。)

釈尊の真似をして、乞食の風態をして
インドの田舎道をあるく
牛糞を踏んづけて、ビニール袋の廃土にまぎれた穴ぼこ道をあるく
あるくのは、最高の儀式となる

 「意味」ではなく、私は、ここからは長谷川の「ことば」と「肉体」そのものに自分の肉体を重ねる。私のことばを捨て、ただことばを声にする。黙読だが、声にする。肉体をはっきりと動かす。
 そうすると、長谷川が、まるで私がそうしているように、釈尊の肉体に長谷川の肉体を重ね合わせていることがわかる。
 釈尊を真似るの「真似る」とは自分の肉体を他人の肉体に重ねるということだろう。長谷川は、ここでは釈尊の肉体に長谷川の肉体を重ねている。「思想」とか「ことば」ではなく、そういうものに頼らずに、そういうものを振り捨てて、ただ肉体を重ねている。
 私は実際にはインドにいないから、それを想像力のなかでやるだけだが、長谷川の場合に、実際に彼自身の肉体を動かしているので、そこからは、やはり「想像」だけではたどりつけないものが出てくる。

あるくのは、最高の儀式となる

 歩くことで、長谷川は「儀式」に到達している。参加--というより、到達だろうと思う。「あるく」が「儀式」ということばに変わるのである。それは、紙幣を奪い取られたときのショックが「倦怠」に変わったのと似ている。実際の肉体の行動がことばを変えてしまう。(そんなふうにして、肉体によってつくりかえられたことばこそが思想であると私は思っている。--これは、書きはじめるとかなり長くなる。つまり、私にはまだはっきりとはわかっていないことなので、短いことばでは書けそうにない。だから、省略するという言い訳なのだが……。)
 この長谷川の肉体とことばに、また、別のことばが重なってくる。(私は無学で、釈尊のことも、その後のことも知らないので、これから書くことは空想なのだが……。)
 釈尊の歩いた道を、長谷川がそうしたように、韓愈が歩いた。実際に歩いたか、ことばの上だけで歩いたのか私にはわからないが、その歩みを韓愈はことばにした。詩にした。それは、韓愈が見た世界であると同時に、釈尊が見た世界でもある。釈尊が見たと世界を韓愈が、想像して、そう書いたということである。いま、長谷川が釈尊の肉体をたどっているように、かつて韓愈が釈尊の肉体に韓愈の肉体を重ねたのである。
 そこから、詩が生まれる。 そこにいくつものことばが出てくる。そのいくつかを、長谷川は取り上げている。

さむいくちびるを なめなめ
「八荒(はっこう)」「百怪(ひゃっかい)」「鯨牙(げいが)」「天漿(てんしょう)」
「汗漫(かんまん)」「織女(しょくじょ)の襄(じょう)」「飛霞(ひか)の珮(はい)」「頡頏(けっこう)」
それらの言語の音韻を
かわいた空間に いくたびか叫んだことか

 私は震えてしまう。「かわいた空間に いくたびか叫んだことか」の主語はだれだろう。釈尊か、韓愈か、それとも長谷川か。たぶん、それは、そのそれぞれの3人である。
 それらのことばに、それぞれの「意味」はあるだろう。それはきちんと辞書にものっているだろう。けれど、そのことばを3人は「辞書」のことばとしてではなく、肉体としてつかみとっているのだ。辞書に載っている「意味」ではなく、その「意味」ではとらえられないもの--「他者」として受け止め、その「他者」を受け止めるために、自分の肉体そのものを変えてしまおうとしているのだ。肉体を変えることで、ことばそのものを変えようとしているのだ。
 それは、別なことばで言いなおせば、「精神」(あるいは魂)を生み出そうとしているということかもしれない。
 「意味」なら、「頭」で消化できる。けれど「魂(あるいは精神)」は、変わっていく肉体とともにしか存在しないのだ。自分の肉体が自分のものでありながら「他者」になってしまうとき、そこに「魂」が誕生するのだ。

 あ、なんだか、酔っぱらったみたいなことを書いているなあ。長谷川のことばにあてられてしまったのかもしれない。
 どんなふうに言いなおせばいちばん正確になるのか。私が感じていることをいえるのか。よくわからないのだが……。

 自分の肉体を他人の肉体に重ねる。たとえば、釈尊を真似てインドを歩く。釈尊を描いた韓愈をまねる。意味のわからないことばを、そのことばのまま口にすることで、せめてのどと耳を重ね合わせる。そのとき、もし、肉体がぴっかり重なる(一体化する)とまで行かなくても、そういう肉体の動きをすることでしかつかみとれない何かに出合う。肉体そのものが、何かに出会い、肉体とともにある魂に響いてくる。
 そのとき、だれのものでもないことばが誕生し、そのことばが他のことばを支配する。統一する。そういう「儀式」のようなことが、一瞬のうちにおこなわれる。

 私はきっと何もわかっていないのだろう。ただ興奮しているだけなのだろう。だが、こういう興奮が私は好きなのだ。だから、書いてしまう。
 ほんとうは、こういう興奮にのみこまれたら、それをじっと肉体のなかにしまいこんで、興奮が新しいことばに結晶するまで我慢しているのがいいのかもしれない。長谷川は、最終連で、その静かな肉体の動きを書いている。

釈尊の生まれたところ
釈尊の修行したところ
釈尊の涅槃(ねはん)に入ったところ
東南アジアの極地から群集が寄ってきて
座を組み 瞼をとじている
明らかに ぼくは それを無視して
うつむきかげん 過ぎ去っていく



 「倦怠」から遠ざかってしまったかもしれない。でも、どうやって、「倦怠」に戻っていいかわからない。
 長谷川の書いている「倦怠」は、私のずぼらな肉体の感じで言えば「負けたあ」という感覚に似ている。太刀打ちできないという衝撃に似ている。この衝撃のなかで、私が知るのは、「他者」の絶対的な勝利である。「他者」の祝祭が、その瞬間に存在する。長谷川は、その祝祭を、私とは違ってもっと厳粛な「祭祀」と感じているのかもしれない。長谷川はとても精神的(魂的)なのである。
 --ここから先は、私のことばの範疇からはみ出してしまう。きっと、誰かが、もっと適切なことばで長谷川の詩の読み方を書いてくれるだろう。それを読みたい。



立眠
長谷川 龍生
思潮社

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ナボコフ『賜物』(34)

2011-01-03 12:40:47 | ナボコフ・賜物

 人気のない春の森ではしっとり濡れた白樺の褐色の木立が--中でも特に小ぶりの白樺が、周りのことにはまるで関心がなく、自分の内側しか見つめていないといった風に立っていて、(略)
                                 (76ページ)

 高屋窓秋の「山鳩よみればまはりに雪がふる」をふいに思い出した。窓秋のナボコフの白樺が同じものに見えた。
 ナボコフの「白樺」の文章では、誰が「小ぶりの白樺が、周りのことにはまるで関心がなく、自分の内側しか見つめていない」と感じたのかわからない。ルドルフが感じたのか。オーリャが感じたのか。誰の「心象」を代弁しているのかわからないのだが、この誰のものでもない「心象」が、不思議なことに、私をその森へ連れていく。ルドルフの心象でも、オーリャの心象でもないからこそ、私は彼らのどちらかに加担することもなく、客観的(?)に森にさまよい込む。そして、そこで一本の白樺になり、空気を呼吸する。一本の白樺になってしまう。そして、気がつく、あ、これはルドルフの心象でもオーリャの心象でもないのではなく、ふたりの心象なのである。ふたりを超えたというか、ふたりの区別をない心象というものだと気がつく。
 --これは、窓秋の句にもどっていえば、「山鳩」が「山鳩」ではなく、同時に窓秋であり、またそのことばを読む「私」でもあるという関係に似ている。あらゆる存在に区別がなくなる。個々の存在の区別を超えた何か。「一元論」の世界。誰もがその白樺を見るとき、その白樺になり、森を呼吸する。
 こういう不思議な世界が、突然、ぱっと出てくるのもナボコフの特徴だと思う。ナボコフの描写は、あるとき突然「一元論」になる。「一元論」の描写には何でももちこむことができる。どんな「心理」、誰の「心理」でももちこむことができる。だから、あ、これを「盗作」してみたい、という欲望にかられる。何かの描写、どこかの描写に、これを利用して、たとえば「街灯の下の置き去りにされた自転車が、街の喧騒にはまるで関係がなく、まるで自分の内側しかみつめていないといった風にクリスマスの雨にぬれていた」とか。そこから、誰の、どんな物語でもはじめることができる--そういう気持ちにさせられることばに、私は強くひかれる。


ロリータ、ロリータ、ロリータ
若島 正
作品社


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