新井高子「熟(な)れた手」(「ミて」113 、2010年12月20日発行)、北爪満喜「納屋の音」(「モーアシビ」23、2010年11月20日発行)
新井高子「熟(な)れた手」は製糸工場で働いていた「おハンさん」の記憶を描いている。仕事が体にしみついて、寝たきりになって、恍惚状態になっても、その手の動きがとまらない。
肉体は不思議なものだ。他人の肉体の動きを見ると、その人が何をしているかがわかる。ハンさんは、いわば痴呆状態。その肉体がやっていることは「意味」を持たない。その「意味」を持たない動きを、新井は「意味」として見てしまう。そして、その肉体の「意味」だけではなく、肉体とともにあるこころの動きまで見てしまう。
新井が読みとったものが「正解」であるという根拠はどこにもない。「誤読」かもしれない。けれど、それが「誤読」である方が、より新井のこころをあらわしている。「誤読」は新井の願いなのだ。製糸工場で糸繰り仕事をしつづけたハン。彼女は、いま、そのときのさまざまなことを思い出して生きている。働くことはつらいことだが、そのつらさのなかにも何かしらのよろこびがある。うまく仕事ができたときの達成感のようなものがある。そのよろこびを新井は祝福している。
この「誤読」が、さらに次の「誤読」を生み出していく。
存在しないものを見る。存在しないものがことばとなって、そこにある。そういうことばの運動のために「誤読」が必要なのだ。
新井の「誤読」は、まぼろしではなく、現実に見える。現実として見える。--それは、その「誤読」が、ハンの糸を繰る手つき、糸を丸めた玉をなでる手つきという肉体を通っているからだ。ことばは肉体を通ると、それが「誤読」であっても、しっかりと前へ進むことができるのだ。
*
北爪満喜「納屋の音」は、一部、とても魅力的なところがある。
暗闇が「一滴」、水のように落下する。耳のなかを伝い、喉の奥に。この肉体の内部感覚がとてもおもしろい。
新井はハンさんの肉体を運動としてみていた。外部としてみていた。そして、その肉体の動きに「こころ」をみつけだし、そこからハンさんのこころではなく新井自身のこころを育てる形で「誤読」をことばにした。
北爪は「こころ」というものを新井ほどは信じていないのかもしれない。そのかわりに、肉体の内部に、さらに肉体があるということを発見している。「喉」は北爪にとって、「こころ」ということになるかもしれない。
でも、そうすると、耳の螺旋の内側の「内耳の置くの窪み」は? あ、それだって、こころだね。--と、考えてみるとわかるのだが、肉体には幾重もの内部があるのだ。そして、もし肉体というものが幾重にも構成されたものだとするならば、「外部」(たとえば、納屋)もまた肉体かもしれない。あるいは「外部」(もの)は肉体からはみ出した「こころ」かもしれない。「納屋」は「遠いこころ」かもしれない。「ふれられないわたしの納屋」とは「遠いこころ--ふれることのできない遠いこころ」かもしれない。
「外部」と「内部」、肉体の外部としてのこころ、肉体の内部としてのこころ--このふたつの往復を、もっと緊密に書けば、この詩はとてもおもしろくなると思う。外部も内部も、緊密につながらず、なんだか飛躍しながら描かれるので、私には、この詩はよくわからない。--思うように「誤読」できない。「誤読」したい部分があるのに、その「誤読」が邪魔されてしまうもどかしさがある。
次の部分は、私はおもしろく読んだ。
「外部」「内部」の境目に「わたしの形」がある。この発見はおもしろいなあ。「こころ」というようなあいまいなものではなく「形」。(鈴木志郎康なら、あいまいと書かずに「あやふや」と書くかもしれない。)
形を落とした後、肉体はどうなるだろう。「冷たい」ということばがあるが、「感覚」になるのだ。この「感覚」と、肉体の内部である「こころ」はどういう関係にあるのか。わからないことは、わからないまま、ほうっておこう。いつかわかるときがくるかもしれない。ある日、北爪の詩を読み返して、あっ、と気づくかもしれない。それまでは、わからないままにしておく。
そのわからないものをわからないままにしておいても、もうひとつ、この部分にはおもしろいことがある。
ブラウス→下着(たぶんブラジャー)→ジーンズ→くつした。北爪は、きちんと上から順に「形」を脱ぎ捨てている。そして、冷たいタイルを(足の裏で)踏み→足先から湯に入り→(ここからは私の想像だが)足→腰→胸という具合に下から上へ順序よく温かさで体をつつむ。
うーん、律儀だ。
そして思うのだが、この北爪の律儀さが、どうも肉体の外部・内部(その中間としての形)を窮屈にしていないか。(耳の螺旋→内耳の窪み→喉、というのも丁寧だけれど、なんだか窮屈だよね、こうしてみると。)この窮屈さに邪魔されて、「誤読」がうまくいかない、と私は理不尽な要求を北爪にしてしまう。理不尽な要求をしたくなる。
どこかで、そのつなぎ目を破ってしまえばおもしろいのになあ。どこかで、外部・内部を混同してしまえば、肉体そのものが、ずいぶんかわるだろうなあ。どこかに、とんでもない破れ目をつくってよ。
新井高子「熟(な)れた手」は製糸工場で働いていた「おハンさん」の記憶を描いている。仕事が体にしみついて、寝たきりになって、恍惚状態になっても、その手の動きがとまらない。
たぐってる
見えないすじを、
「あれよぉ、ハンさん
まだ糸繰りさんやってんかぁ」
掛けぶとんをときどき撫ぜるのは
巻き上がった玉の
艶を、
愛でていたんだろう
肉体は不思議なものだ。他人の肉体の動きを見ると、その人が何をしているかがわかる。ハンさんは、いわば痴呆状態。その肉体がやっていることは「意味」を持たない。その「意味」を持たない動きを、新井は「意味」として見てしまう。そして、その肉体の「意味」だけではなく、肉体とともにあるこころの動きまで見てしまう。
新井が読みとったものが「正解」であるという根拠はどこにもない。「誤読」かもしれない。けれど、それが「誤読」である方が、より新井のこころをあらわしている。「誤読」は新井の願いなのだ。製糸工場で糸繰り仕事をしつづけたハン。彼女は、いま、そのときのさまざまなことを思い出して生きている。働くことはつらいことだが、そのつらさのなかにも何かしらのよろこびがある。うまく仕事ができたときの達成感のようなものがある。そのよろこびを新井は祝福している。
この「誤読」が、さらに次の「誤読」を生み出していく。
糸の果て、
ではなかったか
おハンさんの白い髪こそ、
這っているんじゃないか
あの工場に、
いまも伸び、
待っているんじゃないか
繰り上げようとする
指先を、
存在しないものを見る。存在しないものがことばとなって、そこにある。そういうことばの運動のために「誤読」が必要なのだ。
新井の「誤読」は、まぼろしではなく、現実に見える。現実として見える。--それは、その「誤読」が、ハンの糸を繰る手つき、糸を丸めた玉をなでる手つきという肉体を通っているからだ。ことばは肉体を通ると、それが「誤読」であっても、しっかりと前へ進むことができるのだ。
*
北爪満喜「納屋の音」は、一部、とても魅力的なところがある。
ふれられないわたしの納屋に 暗闇が溜まっている
錆びて歪んで開かない納屋の
壁のひび割れから染み出すと
幾重にもたたまれた襞を伝い
耳の螺旋を 伝い
ひたひたと内耳の窪みに溜まって
ふいに一滴 喉の奥に落下する
暗闇が「一滴」、水のように落下する。耳のなかを伝い、喉の奥に。この肉体の内部感覚がとてもおもしろい。
新井はハンさんの肉体を運動としてみていた。外部としてみていた。そして、その肉体の動きに「こころ」をみつけだし、そこからハンさんのこころではなく新井自身のこころを育てる形で「誤読」をことばにした。
北爪は「こころ」というものを新井ほどは信じていないのかもしれない。そのかわりに、肉体の内部に、さらに肉体があるということを発見している。「喉」は北爪にとって、「こころ」ということになるかもしれない。
でも、そうすると、耳の螺旋の内側の「内耳の置くの窪み」は? あ、それだって、こころだね。--と、考えてみるとわかるのだが、肉体には幾重もの内部があるのだ。そして、もし肉体というものが幾重にも構成されたものだとするならば、「外部」(たとえば、納屋)もまた肉体かもしれない。あるいは「外部」(もの)は肉体からはみ出した「こころ」かもしれない。「納屋」は「遠いこころ」かもしれない。「ふれられないわたしの納屋」とは「遠いこころ--ふれることのできない遠いこころ」かもしれない。
「外部」と「内部」、肉体の外部としてのこころ、肉体の内部としてのこころ--このふたつの往復を、もっと緊密に書けば、この詩はとてもおもしろくなると思う。外部も内部も、緊密につながらず、なんだか飛躍しながら描かれるので、私には、この詩はよくわからない。--思うように「誤読」できない。「誤読」したい部分があるのに、その「誤読」が邪魔されてしまうもどかしさがある。
次の部分は、私はおもしろく読んだ。
ブラウス 下着 ジーンズ くつした
わたしの形を落としていって
浴室の冷たいタイルを踏み
足先から浴槽の湯に入る
「外部」「内部」の境目に「わたしの形」がある。この発見はおもしろいなあ。「こころ」というようなあいまいなものではなく「形」。(鈴木志郎康なら、あいまいと書かずに「あやふや」と書くかもしれない。)
形を落とした後、肉体はどうなるだろう。「冷たい」ということばがあるが、「感覚」になるのだ。この「感覚」と、肉体の内部である「こころ」はどういう関係にあるのか。わからないことは、わからないまま、ほうっておこう。いつかわかるときがくるかもしれない。ある日、北爪の詩を読み返して、あっ、と気づくかもしれない。それまでは、わからないままにしておく。
そのわからないものをわからないままにしておいても、もうひとつ、この部分にはおもしろいことがある。
ブラウス→下着(たぶんブラジャー)→ジーンズ→くつした。北爪は、きちんと上から順に「形」を脱ぎ捨てている。そして、冷たいタイルを(足の裏で)踏み→足先から湯に入り→(ここからは私の想像だが)足→腰→胸という具合に下から上へ順序よく温かさで体をつつむ。
うーん、律儀だ。
そして思うのだが、この北爪の律儀さが、どうも肉体の外部・内部(その中間としての形)を窮屈にしていないか。(耳の螺旋→内耳の窪み→喉、というのも丁寧だけれど、なんだか窮屈だよね、こうしてみると。)この窮屈さに邪魔されて、「誤読」がうまくいかない、と私は理不尽な要求を北爪にしてしまう。理不尽な要求をしたくなる。
どこかで、そのつなぎ目を破ってしまえばおもしろいのになあ。どこかで、外部・内部を混同してしまえば、肉体そのものが、ずいぶんかわるだろうなあ。どこかに、とんでもない破れ目をつくってよ。
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