詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

岸田将幸「絶対主語、裂けたザクロ」、城戸朱理「手紙が届かない、夏

2011-01-25 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
岸田将幸「絶対主語、裂けたザクロ」、城戸朱理「手紙が届かない、夏」(「現代詩手帖」2011年01月号)

 どんなことばが詩になるか。--これは、詩人はどんなことばを詩にするか、と同じことであるか、あるいはまったく違うことなのか、私にはよくわからない。ただ、あることばの運動に対しては詩を感じ、別のことばの運動に対しては詩を感じない、という違いがある。

 岸田将幸「絶対主語、裂けたザクロ」は詩そのものを題材(?)にして1行目がはじまる。

われわれの詩は自らに対する一つの警告である
そして、風紀とは無縁な者が風紀と化す、敵に対する問責である

 1行目はなんとなくわかる。詩を「警告」である、と考える。この「警告」のなかには、岸田独自の、まだことばにならないことばが動いている。それがどんなものであるか期待しながら私は2行目を読む。そうすると、とたんにわからなくなる。「われわれの詩は」「敵に対する問責である」というこなのか。詩は「警告」であり、「敵に対する問責」である。われわれに対しては何事かを知らせ、敵に対しては何事かを問いただし、責める。うーん。そのとき、「風紀とは無縁な者が風紀と化す」とは何? 何、というより、それは「敵」を修飾することばなのだろうか。なんだかここには「関係代名詞」が省略されているような雰囲気がある。

われわれの詩は自らに対する一つの警告である
そして、風紀とは無縁な者が風紀と化す「ところの」敵に対する問責である

 私は「敵」を「風紀とは無縁なものが風紀」となって「われわれ」に感じられるもの、と書いているように思える。くだけた(?)ことばで言えば、セックスに関心をもたなくなった人々がセックス描写を「風紀を乱す」といって取り締まるようなこと、風紀を押しつけてくるようなこと、そういう行為の実行者を「敵」と呼んでいるように感じられる。
 詩というのは一種の「世間(風紀が支配している社会)」に対する暴力である。破壊的行為である。それは「われわれ」に「世間」を破壊することでしか発見できない何かがあるということを知らせる(警告する)。一方、それは同時に風紀を押しつけてくる「世間」に対して「問責」することである。
 --こんなふうに読むと、1行目と2行目は、私のなかではすっきりとした「論理(意味)」になる。そして、そのとき、

そして、風紀とは無縁な者が風紀と化す、敵に対する問責である

 の、2度書かれている読点「、」がとても気になるのである。特に、私が「関係代名詞」と呼び、「ところの」という変な日本語に置き換えた2度目の読点が気になるのである。私はむりやり「ところの」という日本語(?)に置き換えることで岸田に近づいてみたのだが、ここにはことばにならない何かがある。岸田自身のなかで言語化されていないなにかがある。そして、そのまだ言語になっていないもの、未生の言語を岸田は読点によって乗り越えようとしている。あるいは、その未生の何かの不思議な粘着力(--粘着力というのは、思わず「ところの」というような「関係代名詞」を補いたくなるようなつながりを感じさせるからである)を振り払い、「いま」「ここ」にあることば、書いていることばをもっと自由にしようとしている、という具合にも感じられる。
 そして、その運動は、簡単に見すごしてしまった「そして、」の読点にもあるのだ。詩は「警告である」と書いたあと、(詩は)問責であるということばに辿り着くために、まず、「そして、」の読点によって、ことばにならない何かがあること、それに近づくために、飛翔するのか、切断するのかわからないが、ひと呼吸の読点「、」が必要だったのだ。
 この瞬間、「肉体」が動いている、と私は感じる。
 この不思議な印象--そこに、私は、詩を感じている。読点「、」と、そのリズムに岸田の書こうとして書けないいらだちのようなもの、肉体のざわめきのようなものを感じ、ぞくっとする。

 この最初の2行は、たとえば、

われわれの詩は自らに対する一つの警告である
われわれの詩は風紀とは無縁な者が風紀と化す敵に対する問責である

 と、読点なしで書くこともできるはずである。そうすると、次の

われわれはこれを通りたくない
わたしはこれを通らなければならない

 とも2行組みの「セット」としてことばがスムーズに(?)動く。あらかじめ予定されていたかのように動いていく。
 けれども、岸田は、そういうスムーズな運動--何かしらの予定調和的なことばの運動を拒絶している。スムーズであることを拒絶し、その拒絶を起点に、まだことばになっていないことばの内部へ入っていこうとする。
 先に書いた読点「、」の内部へことばを動かしていく。

それぞれの限界は図らずも共同に<ポエティック>である
それぞれがまったく他者の入り込む余地のないところで、そ知らぬふうに限界に至るか否かであることろの<ポエティック>とは世界内でのわれわれにおける断裂の瞬間である

 「詩」と、「詩的」ではなく、<ポエティック>。ここにも、岸田自身にしかわからない断絶と粘着力がある。その、言語化できていない何かを、岸田はことばで追う。
 そのとき、2行目では読点「、」ですませた(?)関係代名詞が、「ところの」ということばでしぶとく岸田に反逆してくる。
 あ、おもしろいなあ。
 岸田は、どうするんだろう。

断裂したそれぞれは全く知らない人の日々の基底、日々の土地、日々の証拠であり、まるで割れた硝子の上の硝子板

 ふいに、ことばが異質になる。読点で区切りながら、ことばを並列する。並列のなかには、並列に値する「粘着力(結びつき)」があるはずだけれど、それを説明することを放棄して、ことばが散らばる。まるで、「敵」の銃撃にあって死ぬ瞬間の血しぶき、いくつもの岸田の肉体の断片、あるいはその瞬間に見る世界の断片としての幻のように散らばっている。それを繋ぎ止めるのは、「いのち」ではなく、「死」である。
 どんな「死」であれ、それは「いのち」の側からみると、世界の破壊であるけれど、それによってほんうとに壊れるのは世界の方ではない。このことは、岸田には直感的にわかっている。
 だから、2連目。
 やりなおすのである。精神の肉体、ことばの肉体は、生きる意思さえあれば何度でもよみがえる。

土-人、この土のしたの人たちの
生成りの文字の産声を聞く、土人、美しい人の土
生成りの人の生成りでないところの声を一切、拒否する拒否イコール土
<性的>行為はときに可憐な内面を担保するといえども、われわれの眼差しは冷酷にその声色を潰さなければならない、つまり生命は原理的にそれを只管、生きようとするものであって、われわれが<病的>に生きる術は皆無、只管の無言だ炉の無音だ
無口か金切り声か、そのような選択に苦しみ
傷つきやすさにおいて人柄と詩の善さを測り、この錯誤の理解が遅れたことに人としての詩としての哀れがあった

 やりなおし、とは、繰り返しである。「われわれの詩は自らに対する一つの警告である/そして、風紀とは無縁な者が風紀と化す、敵に対する問責である」と書いたこと、そして書き切れなかったことを岸田はただ繰り返すのである。
 読点「、」と、書かれない句点、そして「1行空き」が、岸田のことばをねじ曲げる。歪める。つまり、ふつうに書かれることば、ふつうに話されることばではないものにする。言い換えると、詩に、する。

 岸田が書きたいと思っていること、書こうとしていることを、私はただ「誤読」することしかできないが、そこにはいろいろな「誤読」を誘うエネルギーが満ちている。
 このエネルギー、その肉体の印象が、岸田の詩なのだと思う。



 城戸朱理「手紙が届かない、夏」にも読点「、」が出てくる。句点「。」も出てくる。しかし、その呼吸は、私には「肉体」とは感じられない。だから、それにつづくことばの変化(砕け方)も、私には肉体とは感じられない。

夜はまだ始まったばかりで
何かを泣いて忘れるように髪を洗うと
狐火のように点るもの、
それも失われた記憶の一節なのだろうか
何かを考えるなら、幾何学的に。
すると、夜の広がりとその底に潜む情動が
誰のものなのか分かってくる
夢であっても
かなしみだけは鮮やかで
足長蜂はあまりに優雅に滑空し
その生態は哲学的で
眠りのなかでも謎となる

 「何かを泣いて忘れるように髪を洗うと」「足長蜂はあまりに優雅に滑空し」というときの「ことばの肉体」と、「何かを考えるなら、幾何学的に。」というときの「ことばの肉体」の関係が私にはさっぱりわからない。句読点は、いったい何? そのとき、城戸はどんな呼吸をするのだろう。

 私は呼吸を感じないと、音楽を感じない。音楽のないところに詩はない--と、突然、書いておく。(ここからほんとうは城戸朱理のことばを批判すべきなのかもしれないが、目の悪い私には一日に書けることばの量はこれくらいなので……。)


“孤絶-角”
岸田 将幸
思潮社

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誰も書かなかった西脇順三郎(172 )

2011-01-25 12:17:09 | 誰も書かなかった西脇順三郎
 『えてるにたす』。「菜園の妖術」のつづき。
  西脇のひとつのことばは次のことばとどういう関係があるのか。修飾語(修飾節)と被修飾語(被修飾節)の関係がわかりにくい。

人間が考えられない記号で仕組まれた
世界に落ちたこの青磁色の世界

 「考えられない」は「記号」の修飾している。では、「記号で仕組まれた」は2行目の冒頭の「世界」を修飾しているのか。それとも2行目の終わりの「青磁色の世界」を修飾しているのか--というような考えがふいに浮かぶのは、「人間が考えられない」ものが何なのか考えてしまうからかもしれない。
 何を考えられない?
 たとえばある「記号」を考えられない。けれど、その記号を考えられないということは考えられる。--変な言い方だが、人間は「考えられないということ」を考えることができるし、ことばにもすることができる。

世界に落ちたこの青磁色の世界

の冒頭の「世界」と末尾の「世界」は同じことば、同じ文字ではあるけれど、違ったものを指し示している--と考えるのが一般的かもしれない。けれど、それは同じものであり、ある瞬間に冒頭の「世界」ということばがあらわれ、次に末尾の「世界」蛾あらわれるとき、冒頭の「世界」は末尾の「世界」のなかに凝縮しているということもあるのだ。どちらが外(大きい)、どちらがその内部(小さい)ということは、ない、と考えることもできる。
 そんなことでは困るのだけれど、そういう困ったものが詩なのだ。きっと。
 そこにあることば--それに触れて、自分の知っていることばがひっかきまわされる。そのとき、ふいに、何かが触れてくる。それが詩である。

人間が考えられない記号で仕組まれた
世界に落ちたこの青磁色の世界
残された金でくるまエビのテンプラと
ラム酒をいそいでたべてもどつて

 「記号」「青磁色の世界」から「くるまエビのテンプラ」へ一気に移動する。その途中には「残された金で」という、なんだか俗っぽいことばの「橋」がある。「残された金」が「考え」「記号」というような抽象的なものでないために、「くるまエビのテンプラ」がとても自然に感じられる。
 こういう変な運動も、ことばはしてしまう。西脇は、ことばにこんな運動をさせている。
 この「残された金」とか「いそいでたべて」とか、あまりに日常的過ぎて、詩には書かないようなことばを書きながら、ことばの「論理」のタガをはず。ことばを自由にする。

この絶望のぼつらくのカミツレの
シオンの紫の夕暮のカーテンが
さがるのをみるこのクロイドンの男の
庭に立寄つてみるこの秋の悲しみを
このすすきの穂がちらつく窓から
悲しむ人間のほそながい顔は
神農のたべものにあげるだけだ

 「意味」を追ってはいけないのだ。没落は「ぼつらく」に、カミレルら「カミツレ」になってしまう。ことばは「意味」ではなく、「音」そのものとして、ここにある。
 いつくものことばが書かれ、それを「この」と「の」がつないで行く。「この」という特定の意識、そして「の」による無限(?)の連続。
 ことばは、動くことで、別のことばを探す。その探すと言う動きのなかに、詩がある。何かが分かっていて書くのではない。分からないから、それを探しあてるために書くのだ。

人間の苦しみから
人間の繁殖が芽生え
「ひさしぶりだな」
だが永遠に別れて行つた

 「この絶望の」からの「この」と「の」の繰り返しによる長い連続があったあとだけに、この4行のリズムの転換、すばやさが気持ちがいい。「ひさしぶりだな」のなかに、「人間の苦しみから/人間の繁殖が芽生え」(恋愛とセックスと出産があり)「だが永遠に別れて行つた」が凝縮する。




Ambarvalia―西脇順三郎詩集
西脇 順三郎
恒文社

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