詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

司茜『塩っ辛街道』

2011-01-09 23:59:59 | 詩集
司茜『塩っ辛街道』(思潮社、2010年12月16日発行)

 司茜『塩っ辛街道』の「父の手」は忘れられない作品である。

出棺時の
父の手の冷たさを
忘れることはできない

氷 雹 氷柱 雪
凍てつく日の学校の拭き掃除
自転車ごと池に落ちた
少女の日の冷たさ
市場の冷凍庫に閉じ込められた間抜けた主婦の冷たさ
私の冷たさの記憶はそれほどのものだった

父の手の冷たさは
そうではなかった
厳かな冷たさだった

 「厳かな冷たさ」に私は思わず傍線を引いた。あ、「厳か」は、こういう具合につかうのかと思った。そして、その「厳か」とはどういうものだろうか、と考えた。
 「厳か--威儀正しく、近寄りにくいさま。いかめしいさま。」私は「広辞苑」を引いて確かめたが、どうも、司のつかっている「厳か」とは違うような気がするのだ。「近寄りにくい」ということは絶対にない。司は、父の手に触れて感じたのだから、それは「近寄りにくい」ということは絶対に、ない。近寄り、手で触れて、そのとき感じる何かなのだ。
 何だろう。
 読み返して、私はひとつのことに気がつく。「厳か」の前にある1行に気がつく。「そうではなかった」。これである。「厳か」とはこれである。「氷 雹 氷柱 雪」あるいは司がいままでに体験した冷たさ、司の肉体が知っている冷たさ--そういうものをすべて否定する冷たさである。肉体を超越する冷たさである。肉体ではたどりつけない冷たさである。

 肉体ではたどりつけないものがある。

 これは、考えてみると不思議である。私たちには知ることのできないものがあるということである。そして、その絶対に知ることのできないもの--それを体験して、それをかたることができないもの、それが「死」である。
 「厳か」とは、それなのだ。
 すべてのことを「そうではなかった」と言ってしまえるもの、肉体から離れたところにある絶対的なものなのだ。
 それに司は触れてしまった。そして「冷たい」と感じてしまった。なぜ、冷たいと感じてしまったのか--それはわからない。わからないから、司は急いで「厳かな」ということばをつけくわえているのだろう。

 「厳か」をほかのことばでいえないだろうか。ほかに「厳か」につうじることばを司は書いていないだろうか。見つけ出していないだろうか。

入院前夜
父はもうこの家に帰ることはないと悟ったのか
荒い粋の中で
机に向かい
家五代にわたる系図を書いた
筆で見事に書いた
七十三年生きた
父の手の最後の仕事であった

 「悟った」(悟る)が「厳か」にいちばん近いかもしれない。「悟り」というのは、自分の肉体と、自分の肉体の外にあるものを一瞬のうちにつなぎ、そこにつくりだす世界であると思う。そこには自己はあって自己はない。また、世界も、そこにあって、そこにない。自己からも世界からも隔絶している。それでいて、自己であり、世界でもある。矛盾した何かである。
 「厳か」はそれなのだと思う。父の手は「冷たい」。だが、それは冷たいと同時に、冷たくはないのだ。冷たさを、「そうではなかった」と否定する超越した力である。

 私は思わず「厳かな冷たさだった」という1行に傍線を引いたのだが、その直前の「そうではなかった」という1行こそ、司がつかみ取った「真理」(永遠)であり、「思想」であると思うのだ。

 この「厳か」に触れる肉体をもった司は、それとは違うものにも触れる。

半殺しにしたいひとを思って
ひたすら つくっています
そして食べます
おいしいです
                        (「半殺し」)

 タイトルの「半殺し」というのは「おはぎ」(かいもち)のことである。すりこぎで糯米をつぶしながらつくる。「半殺しにしたいひとを思う」力で糯米をつぶす。そしてそれを食べると「おいしい」。この「矛盾」といっていいような、不思議な肉体の官能。

襁褓を一枚 二枚 三枚 と数えています
三十年前も二十枚
二十年前も二十枚
五年前も二十枚
今年もあった二十枚
行李の底から取り出してなでています
絵柄のくるくる目玉の子犬
一匹 一匹 なでています
                        (「襁褓」)

 ここにも、「もの」と「肉体」の交流の不思議な官能がある。
 この官能と「厳か」は、一見、相いれないもののようにも感じられるが、そうではないのかもしれない。存在を超えて感じる官能、よろこびを知った肉体だけが、「厳か」を正確に「悟る」ことができるのかもしれない。
 --そんなことを直感的に感じた。


 補足。
 これから私が書くことはかなり奇妙なことかもしれない。
 「半殺し」や「襁褓」で書いている官能は、たとえていえば「父の手」の「氷 雹 氷柱 雪」につながる何かなのである。それは「肉体」で知っている何かである。
 「父の手」で、司は、いろいろ書いてきて、結局「そうではなかった」と書いていたが、それはなにかしら「そうではなかった」ということばを仲立ちにして、司の肉体となじんでいるものなのだ。
 半殺しにしたい--でも、そうではなかった。そういう矛盾を超えて肉体が、いま、ここにあると感じながら「おいしい」とも感じるのだ。半殺しにしたい--でも、そうではなかった、を経ないことには、おはぎはおいしくはなれない。

 この印象と「厳か」は直接は結びつけることはできないのだが、どこかで通じている--私のことばで言えば、響きあっているように思えるのだ。






塩っ辛街道
司 茜
思潮社


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フランクリン・J・シャフナー監督「パヒヨン」(★★)

2011-01-09 22:18:28 | 午前十時の映画祭
監督 フランクリン・J・シャフナー 出演 スティーヴ・マックイーン、ダスティン・ホフマン

 この映画を最初に見たのは学生のときである。当時、ダスティン・ホフマンはアカデミー賞の主演男優賞候補の常連だった。ダスティン・ホフマンにやれない役はない--そう思われていた感じある。少なくとも、私は、そんな具合に感じていた。ダスティン・ホフマン自身、どう思っていたかはわからないけれど、もしかしたら彼自身そう思っていたのかもしれない。それで、この映画にも出てみる気になったのでは……。
 こんなことから書きはじめるのは。
 どうも、スティーヴ・マックイーンとダスティン・ホフマンがかみ合わない。ストーリーはわかるのだが、二人が親近感を感じる二人には見えないのである。信頼関係というのは、変な言い方になるが、どこかに「色気」を含んでいる。それがない。スティーヴ・マックイーンとダスティン・ホフマンが互いにひかれあう何かを感じているとは思えない。互いに相手の魅力をまったく感じていない--そういう感じがするのだ。仕事だからいっしょにやっているだけ、という感じがとても強く漂っている。
 これは、たとえばスティーヴ・マックイーンが逃走の途中であう男たちとの関係と比較するとわかりやすいかもしれない。脱走兵を殺すハンターを殺した入れ墨の男、パピヨンの入れ墨を彫ってくれと頼む酋長(?)、密輸で生きているハンセン病の男--彼らとスティーヴ・マックィーンが対話するとき、そこに何か、親密な空気がある。自分を叩き壊しても、相手に接近する何かがある。「色気」がある。
 ところがスティーヴ・マックイーンとダスティン・ホフマンの間には、そういう感じがまったくない。別れの抱擁のシーンでさえ、別れを惜しんでいる感じがしない。ダスティン・ホフマンが顔で別れの感情をあらわす。けれど、それをスティーヴ・マックイーンの背中が受け止めない。まるで、いま、カメラはダスティン・ホフマンの顔の演技をアップでとらえている。おれは背中をかしてやっているだけ、という感じだ。(背中は代役?)ダスティン・ホフマンの演技を受け止めていないのだ。
 しらけるのである。
 演技というのは不思議なものだなあ、と思う。一人がどんなにうまく演じても、それだけではカメラに定着しないのだ。演技を受け止める相手がいて、はじめて演技になるのだ。演技とは、ある意味でセックスなのだ。恋愛なのだ。自分がどうなってもいいというつもりで相手に自分を切り開いていかなければ、かみ合わないのだ。
 これは、ほんとうにほんとうに不思議な映画である。



 この映画以降、ダスティン・ホフマンは「クレイマー、クレイマー」で復活するまで、長い長い低迷に入った--と私は思っている。ダスティン・ホフマンの最初の失敗作になるのだと思う。
                         (午前10時の映画祭、49本目)



パピヨン スティーヴ・マックィーン没後30年特別愛蔵版 [DVD]
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誰も書かなかった西脇順三郎(168 )

2011-01-09 11:11:17 | 誰も書かなかった西脇順三郎
 『えてるにたす』。「菜園の妖術」の、たとえば、次の部分。

空間と時間しか残らない
生きるために死ぬのだ
死ぬために生きるのだ
存在するものは永遠しかない
そういう考えも人間とともに
また失くなつて行く
そういう会話が汽車の中で
桃をたべながら話す人間の中から
きこえてくることがあつた

 哲学的なことばにふいに割り込んでくる「桃をたべながら」という肉体的なことば。哲学から遠いことば。その出会い。この瞬間、私は「空間と時間しか残らない」や「存在するものは永遠しかない」ということばが無意味に思えてくる。「桃をたべながら」の方が哲学的だと感じる。
 なぜだろうか。
 「桃をたべながら」の方がわかりやすいからである。納得できるからである。頭ではなく、肉体で実感できるからである。
 おもしろいのは、そういう実感できること、その人間の「中から」ことばが聞こえてくるという表現である。ことばが「人間の中から」聞こえてくるというだけなら、それは「哲学」なのだが、その人間が「桃をたべながら話す」ということばと結びつけられるとき、「哲学」が不思議と肉体的になる。--私のことばで言いなおすと、真実になる。
 もし、「桃をたべながら」ではなく、(そして、汽車の中で、ではなく)、たばこをふかしながらだったり、酒(紅茶)を飲みながらだったりだったら、たぶん、それらのことばは「頭」のなかだけに
存在したと思う。
 「桃をたべながら」だからこそ、そこに肉体があらわれる。
 私は、こういう部分がとても好きだ。

 そのことばのつづき。

存在は存在自身存在するだけだ
人間の脳髄と関係がないのよ
もうやがてたま川へまた
まんだらげを取りにいらつしやいな

 「存在は存在自身存在するだけだ」というのは「存在するものは永遠しかない」ということばを否定しているのか、あるいは肯定しているのか。どっちでもいい。--私は、どっちでもいいと考える。それは「人間の脳髄とは関係がないのよ」ということばとは裏腹に、「人間の脳髄」で考えられたことばにすぎない。
 ほんとうは「桃をたべながら」話す人間とは関係がないということである。
 こんな私の読み方では、ことばの「意味」(論理)というものが解体されてしまうかもしれないが、そうではないかもしれない。
 「存在は存在自身存在するだけだ」は、実は「桃をたべる」肉体とは関係がない。その肉体と関係がないことを承知の上で、それを「脳髄とは関係がない」というとき、「脳髄」もまた「肉体」になる。「脳髄」もまた「頭」ではなく「肉体」だから、「存在は存在自身存在するだけだ」は「脳髄とは関係がない」ということになるのだ。

 あ、きっと、こんな書き方ではわからない。

 言いなおそう。
 ここでは、二元論と一元論が瞬時にかわっているのである。
 「哲学」を考える「頭」が一方にあり、他方に「哲学」を考えずにただ桃をたべる「肉体」がある。人間は「頭」と「肉体」でできているという二元論が一方にある。
 他方に、「哲学」を「頭(脳髄)」と関係があると考えるのはまちがい、「頭」とは関係がない、ただ「肉体」とのみ関係があると考える立場がある。--というか、「頭」も「肉体」なのだから、「頭」だけを取り出して、それを「脳髄」と呼び、「哲学」と「脳髄」を結びつけるのは「まちがい」だと考える立場がある。一元論である。「脳髄」と関係があるのではなく(つまり「脳髄と関係がなく」)、ただ「肉体」と関係しているのだ。「桃をたべる」肉体と関係しているのだ。
 そして、この一元論の立場をとるのは、「まんだらげを取りにいらつしやいな」と、即物的なことばを語る「女」の立場なのだ。
 哲学は「脳髄(男)」のなかにはない。あるとしたら、それはあくまでも括弧付きのもの。「哲学」。哲学は、「肉体」のなかから聞こえてくるものである。肉体と関係があるというよりも、肉体そのもの。

 ここには、なにかしら、矛盾したものが矛盾したまま書かれている。矛盾を排除し、整理し直すと、それは詩ではなくなってしまうのだ。ことばの直感とは無関係なものになってしまうのだ。
 ことばの直感は、「空間と時間しか残らない」というようなうさんくさいことばを否定し、「桃をたべながら」ということばのなかで息を吹き返すのだ。あるいは、「存在は存在自身が存在するだけだ」というような「頭」のことばを、そんなものは「脳髄と関係がない」と切り捨てることで、直感的に別のことばへと生まれ変わるのだ。
 論理から、直感へ。
 男から、女へ。

もうやがてたま川へまた

 この1行のなかの「たま」川と「また」の、その音の動きそのもののなかに、論理から直感へ、男から女へという運動が凝縮している。「論理」(意味)を音のなかで解体し、音そのもののなかで遊んでしまうのだ。
 音のなかで、西脇はみずから(進んで)迷子になり、ことばを解体する。
 --ということを、できるなら「結論」として、私はなんとか書きたいのだが、うまく書けないなあ。私自身にもよくわからないのだ。直感的にそう感じるだけであって、その直感をどう説明すればいいのか、ほんとうにわからない。
 きょう引用した部分には何か矛盾したものがあって、その矛盾に私は強く動かされて、「誤読」をしたくなるのである。

詩人西脇順三郎 (1983年)
鍵谷 幸信
筑摩書房
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