司茜『塩っ辛街道』(思潮社、2010年12月16日発行)
司茜『塩っ辛街道』の「父の手」は忘れられない作品である。
「厳かな冷たさ」に私は思わず傍線を引いた。あ、「厳か」は、こういう具合につかうのかと思った。そして、その「厳か」とはどういうものだろうか、と考えた。
「厳か--威儀正しく、近寄りにくいさま。いかめしいさま。」私は「広辞苑」を引いて確かめたが、どうも、司のつかっている「厳か」とは違うような気がするのだ。「近寄りにくい」ということは絶対にない。司は、父の手に触れて感じたのだから、それは「近寄りにくい」ということは絶対に、ない。近寄り、手で触れて、そのとき感じる何かなのだ。
何だろう。
読み返して、私はひとつのことに気がつく。「厳か」の前にある1行に気がつく。「そうではなかった」。これである。「厳か」とはこれである。「氷 雹 氷柱 雪」あるいは司がいままでに体験した冷たさ、司の肉体が知っている冷たさ--そういうものをすべて否定する冷たさである。肉体を超越する冷たさである。肉体ではたどりつけない冷たさである。
肉体ではたどりつけないものがある。
これは、考えてみると不思議である。私たちには知ることのできないものがあるということである。そして、その絶対に知ることのできないもの--それを体験して、それをかたることができないもの、それが「死」である。
「厳か」とは、それなのだ。
すべてのことを「そうではなかった」と言ってしまえるもの、肉体から離れたところにある絶対的なものなのだ。
それに司は触れてしまった。そして「冷たい」と感じてしまった。なぜ、冷たいと感じてしまったのか--それはわからない。わからないから、司は急いで「厳かな」ということばをつけくわえているのだろう。
「厳か」をほかのことばでいえないだろうか。ほかに「厳か」につうじることばを司は書いていないだろうか。見つけ出していないだろうか。
「悟った」(悟る)が「厳か」にいちばん近いかもしれない。「悟り」というのは、自分の肉体と、自分の肉体の外にあるものを一瞬のうちにつなぎ、そこにつくりだす世界であると思う。そこには自己はあって自己はない。また、世界も、そこにあって、そこにない。自己からも世界からも隔絶している。それでいて、自己であり、世界でもある。矛盾した何かである。
「厳か」はそれなのだと思う。父の手は「冷たい」。だが、それは冷たいと同時に、冷たくはないのだ。冷たさを、「そうではなかった」と否定する超越した力である。
私は思わず「厳かな冷たさだった」という1行に傍線を引いたのだが、その直前の「そうではなかった」という1行こそ、司がつかみ取った「真理」(永遠)であり、「思想」であると思うのだ。
この「厳か」に触れる肉体をもった司は、それとは違うものにも触れる。
タイトルの「半殺し」というのは「おはぎ」(かいもち)のことである。すりこぎで糯米をつぶしながらつくる。「半殺しにしたいひとを思う」力で糯米をつぶす。そしてそれを食べると「おいしい」。この「矛盾」といっていいような、不思議な肉体の官能。
ここにも、「もの」と「肉体」の交流の不思議な官能がある。
この官能と「厳か」は、一見、相いれないもののようにも感じられるが、そうではないのかもしれない。存在を超えて感じる官能、よろこびを知った肉体だけが、「厳か」を正確に「悟る」ことができるのかもしれない。
--そんなことを直感的に感じた。
*
補足。
これから私が書くことはかなり奇妙なことかもしれない。
「半殺し」や「襁褓」で書いている官能は、たとえていえば「父の手」の「氷 雹 氷柱 雪」につながる何かなのである。それは「肉体」で知っている何かである。
「父の手」で、司は、いろいろ書いてきて、結局「そうではなかった」と書いていたが、それはなにかしら「そうではなかった」ということばを仲立ちにして、司の肉体となじんでいるものなのだ。
半殺しにしたい--でも、そうではなかった。そういう矛盾を超えて肉体が、いま、ここにあると感じながら「おいしい」とも感じるのだ。半殺しにしたい--でも、そうではなかった、を経ないことには、おはぎはおいしくはなれない。
この印象と「厳か」は直接は結びつけることはできないのだが、どこかで通じている--私のことばで言えば、響きあっているように思えるのだ。
司茜『塩っ辛街道』の「父の手」は忘れられない作品である。
出棺時の
父の手の冷たさを
忘れることはできない
氷 雹 氷柱 雪
凍てつく日の学校の拭き掃除
自転車ごと池に落ちた
少女の日の冷たさ
市場の冷凍庫に閉じ込められた間抜けた主婦の冷たさ
私の冷たさの記憶はそれほどのものだった
父の手の冷たさは
そうではなかった
厳かな冷たさだった
「厳かな冷たさ」に私は思わず傍線を引いた。あ、「厳か」は、こういう具合につかうのかと思った。そして、その「厳か」とはどういうものだろうか、と考えた。
「厳か--威儀正しく、近寄りにくいさま。いかめしいさま。」私は「広辞苑」を引いて確かめたが、どうも、司のつかっている「厳か」とは違うような気がするのだ。「近寄りにくい」ということは絶対にない。司は、父の手に触れて感じたのだから、それは「近寄りにくい」ということは絶対に、ない。近寄り、手で触れて、そのとき感じる何かなのだ。
何だろう。
読み返して、私はひとつのことに気がつく。「厳か」の前にある1行に気がつく。「そうではなかった」。これである。「厳か」とはこれである。「氷 雹 氷柱 雪」あるいは司がいままでに体験した冷たさ、司の肉体が知っている冷たさ--そういうものをすべて否定する冷たさである。肉体を超越する冷たさである。肉体ではたどりつけない冷たさである。
肉体ではたどりつけないものがある。
これは、考えてみると不思議である。私たちには知ることのできないものがあるということである。そして、その絶対に知ることのできないもの--それを体験して、それをかたることができないもの、それが「死」である。
「厳か」とは、それなのだ。
すべてのことを「そうではなかった」と言ってしまえるもの、肉体から離れたところにある絶対的なものなのだ。
それに司は触れてしまった。そして「冷たい」と感じてしまった。なぜ、冷たいと感じてしまったのか--それはわからない。わからないから、司は急いで「厳かな」ということばをつけくわえているのだろう。
「厳か」をほかのことばでいえないだろうか。ほかに「厳か」につうじることばを司は書いていないだろうか。見つけ出していないだろうか。
入院前夜
父はもうこの家に帰ることはないと悟ったのか
荒い粋の中で
机に向かい
家五代にわたる系図を書いた
筆で見事に書いた
七十三年生きた
父の手の最後の仕事であった
「悟った」(悟る)が「厳か」にいちばん近いかもしれない。「悟り」というのは、自分の肉体と、自分の肉体の外にあるものを一瞬のうちにつなぎ、そこにつくりだす世界であると思う。そこには自己はあって自己はない。また、世界も、そこにあって、そこにない。自己からも世界からも隔絶している。それでいて、自己であり、世界でもある。矛盾した何かである。
「厳か」はそれなのだと思う。父の手は「冷たい」。だが、それは冷たいと同時に、冷たくはないのだ。冷たさを、「そうではなかった」と否定する超越した力である。
私は思わず「厳かな冷たさだった」という1行に傍線を引いたのだが、その直前の「そうではなかった」という1行こそ、司がつかみ取った「真理」(永遠)であり、「思想」であると思うのだ。
この「厳か」に触れる肉体をもった司は、それとは違うものにも触れる。
半殺しにしたいひとを思って
ひたすら つくっています
そして食べます
おいしいです
(「半殺し」)
タイトルの「半殺し」というのは「おはぎ」(かいもち)のことである。すりこぎで糯米をつぶしながらつくる。「半殺しにしたいひとを思う」力で糯米をつぶす。そしてそれを食べると「おいしい」。この「矛盾」といっていいような、不思議な肉体の官能。
襁褓を一枚 二枚 三枚 と数えています
三十年前も二十枚
二十年前も二十枚
五年前も二十枚
今年もあった二十枚
行李の底から取り出してなでています
絵柄のくるくる目玉の子犬
一匹 一匹 なでています
(「襁褓」)
ここにも、「もの」と「肉体」の交流の不思議な官能がある。
この官能と「厳か」は、一見、相いれないもののようにも感じられるが、そうではないのかもしれない。存在を超えて感じる官能、よろこびを知った肉体だけが、「厳か」を正確に「悟る」ことができるのかもしれない。
--そんなことを直感的に感じた。
*
補足。
これから私が書くことはかなり奇妙なことかもしれない。
「半殺し」や「襁褓」で書いている官能は、たとえていえば「父の手」の「氷 雹 氷柱 雪」につながる何かなのである。それは「肉体」で知っている何かである。
「父の手」で、司は、いろいろ書いてきて、結局「そうではなかった」と書いていたが、それはなにかしら「そうではなかった」ということばを仲立ちにして、司の肉体となじんでいるものなのだ。
半殺しにしたい--でも、そうではなかった。そういう矛盾を超えて肉体が、いま、ここにあると感じながら「おいしい」とも感じるのだ。半殺しにしたい--でも、そうではなかった、を経ないことには、おはぎはおいしくはなれない。
この印象と「厳か」は直接は結びつけることはできないのだが、どこかで通じている--私のことばで言えば、響きあっているように思えるのだ。
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