榎本櫻湖「散文と任意の器楽のための協奏曲《絶叫する文字で描かれた三連画》」(「サクラコいずビューティフルと愉快な仲間たち」1、2010年12月01日発行)
榎本櫻湖「散文と任意の器楽のための協奏曲《絶叫する文字で描かれた三連画》」は、私のように目の悪い人間には引用がなかなか難しい。間違えて引用するかもしれないが、まあ、許していただきたい。
何が書いてあるか。わかりません。わからなくていいのだと、私は思っている。書きたいことがはっきりしているわけではないのだ。ことばを次々に重ねていく、そのことに榎本は集中している。
ただし、ことばにことばを重ねることで、新しいことばが動く、というのでもない。
ことばは、ときとはして榎本の「肉体」の内部から噴出してくることもあると思うが(たとえば、「礎の楚々とした風貌」の「楚々とした」ということばは「礎」と書いたときに、その文字を見る視力が噴出させたものである)、対外の場合は、榎本の強い視力で遠くを見つめ、その見えたことばに対して榎本の「肉体」が動いていくという感じである。
ことばを視力で見る。見つける。そして、その見えたことば(文字、あるいは「漢字」と言い換えてもいいかもしれない)へと、榎本は自分の「肉体」を近づけていく。
これはつまり、書いている榎本にさえ何を書いているかわからないということである。何かしらのことば(文字)が見える。そのことば(文字)に恋して、そのことば(文字)のためなら自分はどうなってもいいと覚悟している。何かのために自分がどうなってもいいと思うことを超える「愛」はない。榎本は、ことばへの「愛」をつらぬくために、ことばを「肉体」で追いかけるのである。ことばを「肉体」そのものにしようとするのである。
そのとき、とてもおもしろいことが起きている。
ことばを「限定」しようとする、絞り込もうとする激しい意思が、遠くにあることばを呼び寄せる。まるで「のみ」「だけ」「さえ」「しか」は、望遠鏡の「穴」のようである。そこでは視界は限定され、限定されることで「遠く」が見える。「遠く」を「近く」に錯覚させるのである。
そして、この「望遠鏡」というのぞき穴からみたことばの、一種の「遠近感」の狂った運動は、当然のことながら、世界を簡潔には描写できず、ひたすら混乱を深めていく。ひとつのことばと、別のことばをつなぐ回路などない。ただ、新しいことばが古いことば(これから書くことばがいままで書いたことば)を引っ張り、むりやりそこに「回路」(論理?)を偽装するだけである。
この運動は(この榎本の文体は)、ひたすら読点「、」のみの呼吸でどこまでも動いていく。句点「。」を拒絶しながら、長い長い呼吸をつづけることで、そこに何かがあるかのように錯覚させる。
これは、おもしろい。
どこまでもどこまでも、この呼吸がつづき、終わることができなかったらとてもおもしろいと思う。
しかし、残念なことに、そうはならない。
途中を省略して引用する。
「父祖たちの端著は削られ続けているのであろうか……洒脱さの失われた出立の果てから、」という部分の「……」。
読点「、」ではなく「……」。
ここにあるのはなんだろう。読点「、」が呼吸だとしたら、「……」はなんだろうか。それを私は仮に「沈黙」と呼ぶことにするが、この「沈黙」が句点「。」として働き、榎本のせっかくの文体を殺してしまう。
ことばのほんとうの「沈黙」は「……」という表記にあるのではなく、「つまり逐次養われる一つの雲母のなかで蠢く奇怪な様相は、」というような不自然なことばの運動、いままでになかった動きを強いられるときのことばの「内部」にのみあるのに、「……」と書くことで、ことばがことばの「意味」を拒絶しながら先へ進むときの激しい「沈黙」が聞こえなくなってしまう。
榎本のやっていることはおもしろいが、「……」という嘘の「沈黙」によって、大きくつまずき、大失敗になってしまった。
「……」の「沈黙」を叩き壊して、もう一度、詩を爆発させてほしい。そうすれば、この作品はとてもおもしろくなるはずである。(いまのままでも、おもしろいはおもしろいのだが。)
榎本櫻湖「散文と任意の器楽のための協奏曲《絶叫する文字で描かれた三連画》」は、私のように目の悪い人間には引用がなかなか難しい。間違えて引用するかもしれないが、まあ、許していただきたい。
つまり逐次養われる一つの雲母のなかで蠢く奇怪な様相は、鏤められた甚だ脆弱な真意に絡めとられる皮脂の過度な哄笑の前に佇むのみであったのだし、いずれにせよ終息へと導かれる円滑な書体は、掠めさられた素描の内側でだけ燻る不明瞭な思慕でさえあって、崩れ落ちた橋の裏からひたすら萎びた礎の楚々とした風貌が見てとられるというのだが、さて詳らかにされることもなく色彩の不明な、殆ど埋没しかかった記述のようにしか思われない伸縮の明晰さに改めて修繕され得るのであるから、たおやかな乳房の過激な意図に於いては、いつまでも枯渇した腫瘍でしかなかったし、
何が書いてあるか。わかりません。わからなくていいのだと、私は思っている。書きたいことがはっきりしているわけではないのだ。ことばを次々に重ねていく、そのことに榎本は集中している。
ただし、ことばにことばを重ねることで、新しいことばが動く、というのでもない。
ことばは、ときとはして榎本の「肉体」の内部から噴出してくることもあると思うが(たとえば、「礎の楚々とした風貌」の「楚々とした」ということばは「礎」と書いたときに、その文字を見る視力が噴出させたものである)、対外の場合は、榎本の強い視力で遠くを見つめ、その見えたことばに対して榎本の「肉体」が動いていくという感じである。
ことばを視力で見る。見つける。そして、その見えたことば(文字、あるいは「漢字」と言い換えてもいいかもしれない)へと、榎本は自分の「肉体」を近づけていく。
これはつまり、書いている榎本にさえ何を書いているかわからないということである。何かしらのことば(文字)が見える。そのことば(文字)に恋して、そのことば(文字)のためなら自分はどうなってもいいと覚悟している。何かのために自分がどうなってもいいと思うことを超える「愛」はない。榎本は、ことばへの「愛」をつらぬくために、ことばを「肉体」で追いかけるのである。ことばを「肉体」そのものにしようとするのである。
そのとき、とてもおもしろいことが起きている。
佇む「のみ」であったのだし
内側「だけ」で燻る
思慕で「さえ」あって
記述のように「しか」思われない
ことばを「限定」しようとする、絞り込もうとする激しい意思が、遠くにあることばを呼び寄せる。まるで「のみ」「だけ」「さえ」「しか」は、望遠鏡の「穴」のようである。そこでは視界は限定され、限定されることで「遠く」が見える。「遠く」を「近く」に錯覚させるのである。
そして、この「望遠鏡」というのぞき穴からみたことばの、一種の「遠近感」の狂った運動は、当然のことながら、世界を簡潔には描写できず、ひたすら混乱を深めていく。ひとつのことばと、別のことばをつなぐ回路などない。ただ、新しいことばが古いことば(これから書くことばがいままで書いたことば)を引っ張り、むりやりそこに「回路」(論理?)を偽装するだけである。
この運動は(この榎本の文体は)、ひたすら読点「、」のみの呼吸でどこまでも動いていく。句点「。」を拒絶しながら、長い長い呼吸をつづけることで、そこに何かがあるかのように錯覚させる。
これは、おもしろい。
どこまでもどこまでも、この呼吸がつづき、終わることができなかったらとてもおもしろいと思う。
しかし、残念なことに、そうはならない。
途中を省略して引用する。
その下部で展がっていく氷柱もまた、冴えない混濁の異相だからなのか、極めて饒舌さを欠いた不可欠の帰途のように退けられつつ、さりながら、父祖たちの端著は削られ続けているのであろうか……洒脱さの失われた出立の果てから、緊縛の需要に絆されるように強かに見据えられ、且つ間歇的に補完される衝撃の鄙びたほつれは、
「父祖たちの端著は削られ続けているのであろうか……洒脱さの失われた出立の果てから、」という部分の「……」。
読点「、」ではなく「……」。
ここにあるのはなんだろう。読点「、」が呼吸だとしたら、「……」はなんだろうか。それを私は仮に「沈黙」と呼ぶことにするが、この「沈黙」が句点「。」として働き、榎本のせっかくの文体を殺してしまう。
ことばのほんとうの「沈黙」は「……」という表記にあるのではなく、「つまり逐次養われる一つの雲母のなかで蠢く奇怪な様相は、」というような不自然なことばの運動、いままでになかった動きを強いられるときのことばの「内部」にのみあるのに、「……」と書くことで、ことばがことばの「意味」を拒絶しながら先へ進むときの激しい「沈黙」が聞こえなくなってしまう。
榎本のやっていることはおもしろいが、「……」という嘘の「沈黙」によって、大きくつまずき、大失敗になってしまった。
「……」の「沈黙」を叩き壊して、もう一度、詩を爆発させてほしい。そうすれば、この作品はとてもおもしろくなるはずである。(いまのままでも、おもしろいはおもしろいのだが。)