平田俊子「いざ蚊枕」(「現代詩手帖」2011年01月号)
ことばがもっている何か--それがことばから溢れ出て、他のことばとまじりあう。そんな動きには季村敏夫のようなまっとうな(?)もののほかに、かなりふざけた(?)ものもある。
平田俊子「いざ蚊枕」。
これは「蚊枕」ではなく、「蚊枕」という詩の「枕」のようなものである。寝るときに使うのではなく、本題に入る前の導入部としての「枕」--と書いていくと蚊からはなれてしまうので、あ、まずい、と私は思うのだが、書いてしまったから、しようがない。
しかし、この書き出しを読むと、平田が何を書きたいのか、よくわからない。平田に書きたいことがわかっているのか、それもわからない。
「蚊についてもう少し言わせてください」と突然始まるのだが、「もう少し言わせてください」というかぎりは、平田は蚊について何か言ったことがあるのだろう。けれど、私には、それがわからない。わからないけれど、そんなことは別にして、ここに書いてあることばがわからないかと言えばわかる。ことばはわかるが、何がいいたいか、わからない。
わかる、わからない、にはふたつの「意味」がある。「わからない」には、ことばの「意味」そのものがわからない、というのと、ことばが「どこへ進むのか」見当がつかない、わからない、というのがある。
平田の詩の場合、「わからない」というのは「どこへ進むのか」わからない、である。そして、わからないのに、そのことばが進んでしまうのはなぜかといえば、ことばのなかに、そのことばからはみ出してしまって、他のことばと重なってしまうものがあるからだ。その重なりを利用して、いまここにあることばは、別のことばへと進んでいくことができる。
簡単に言うと「だじゃれ」なんだけれど。
その音を利用した変な力を借りて、平田はともかくことばを動かしはじめる。どこへ行くのか。まあ、平田にも「わからない」というのがほんとうのところではないかと思う。そして、私が平田の詩を読むのは、平田は書きたいことが「わかっていない」と思うからなのである。わかっていなくても、ことばは動いて行ける。その動きの可能性につきあいたい--そういう気持ちがあるから、平田のことばについて行ってしまう。
わからずに書く--というのは、少しずつわかりながら書く、発見しながら書く、どこへ行ってしまってもかまわない、と覚悟を決めて書くということでもある。
季村のことばには「気迫」があった。平田のことばには「覚悟」がある、ということになるかもしれない。わからないけれど、何かを「悟っている」。その、不思議な力がある。
ことば--あることばに出会い、そのことばと向き合うために(真っ正面から「対抗」するために)、平田は「自分」を頼りにしない。伊藤比呂美は「私は私である」にこだわったが、平田は平気で「自分」を捨てる。「詩枕千代子」はもちろん「島倉千代子」だが、そんなふうに平田は簡単に他人に「なる」。(詩枕千代子に「なる」しかない--と平田は書く。)
これは、同時に、そんなふうに他人に「なった」としても、一方で、自分は自分で「ある」ということを平田が知っているからである。「詩枕(島倉)千代子」になっても、平田が平田である証拠は「東京だよおっかさん」ではなく「東京だよおっ蚊さん」の「蚊」に対するこだわりとしてつづいている。
ことばを動かすのは、いつでも平田なのだ。
そこにあるもの、知っているもの、あらゆることを利用しながら、一方でことばを破壊し、他方でことばの運動を支配する。動かす。どんなことをしてもことばを動かしてみせる、そしてそれがどんなものになろうと、そこに最終的に平田があらわれてくる、と平田は悟っている。
だから、平気なのだ。平田俊子ではなく「平気」俊子という感じの雰囲気が、いつでも平田のことばにはある。
で、いろいろ書いてしまうと、面倒なので。最後。
「ば蚊で/おろ蚊で/あさは蚊な蚊」となって、「命を賭けて人の血を吸う」なんて、いいだろうなあ、と私は、ふと思うのだ。「ばか」「おろか」「あさはか」ということばのなかにさえ「蚊」という自分を刻印できるなんて、これはかっこいいことじゃないだろうか。詩の途中に出てくる高浜虚子の句の「金亀子(こがねむし)」は「ばか」「おろか」「あさはか」のなかに「こがねむし」を刻印できないからねえ。
ちょっと、飛躍して。(論理を省略して--という意味に理解してください。)
平田は「蚊」ということばのなかに、平田という詩人を刻印している。蚊を完全に平田のものにしてしまっている。「蚊」は「平田語」になっている。
詩は、その「平田語」の「平田」のなかにある。
なんになってもいい、どうなってもいいと覚悟しながら動かしたことばによって、平田は「蚊」を乗っ取って、蚊を「平田」にしてしまったのだ。
これって、愛、かなあ。
きっと究極の愛の形だなあ。
自分はどうなってもいい--そう覚悟して相手についていく。そして知らない内に、相手をのっとって、自分が相手になってしまょうのではなく、相手を自分にしてしまう。こわい、こわい、こわい愛の物語。
こんなふうに愛されたら--私は困るけれど、「蚊」、「蚊ということば」にとっては、至福だろうなあ。
ことばがもっている何か--それがことばから溢れ出て、他のことばとまじりあう。そんな動きには季村敏夫のようなまっとうな(?)もののほかに、かなりふざけた(?)ものもある。
平田俊子「いざ蚊枕」。
蚊についてもう少し言わせてください
鎌倉に住んでいる知り合いが
自分の住所を「蚊枕」と書くところを目撃しました
蚊がびっしり詰まった枕を想像しました
ソバガラや羽毛やパイプではなく
大量の蚊でふくらんだ枕
枕の中で蚊は生きているのだろう、蚊
生きていればうるさいし
死んでいれば気味が悪い
蚊の生死をその人に問うと
「蚊枕って、蚊が寝るときに使う枕ですよ」
「蚊って、寝るとき枕を使うんですか」
「使います。小さな頭に小さな枕をあてがって寝ます」
「うわあ。知りませんでした」
これは「蚊枕」ではなく、「蚊枕」という詩の「枕」のようなものである。寝るときに使うのではなく、本題に入る前の導入部としての「枕」--と書いていくと蚊からはなれてしまうので、あ、まずい、と私は思うのだが、書いてしまったから、しようがない。
しかし、この書き出しを読むと、平田が何を書きたいのか、よくわからない。平田に書きたいことがわかっているのか、それもわからない。
「蚊についてもう少し言わせてください」と突然始まるのだが、「もう少し言わせてください」というかぎりは、平田は蚊について何か言ったことがあるのだろう。けれど、私には、それがわからない。わからないけれど、そんなことは別にして、ここに書いてあることばがわからないかと言えばわかる。ことばはわかるが、何がいいたいか、わからない。
わかる、わからない、にはふたつの「意味」がある。「わからない」には、ことばの「意味」そのものがわからない、というのと、ことばが「どこへ進むのか」見当がつかない、わからない、というのがある。
平田の詩の場合、「わからない」というのは「どこへ進むのか」わからない、である。そして、わからないのに、そのことばが進んでしまうのはなぜかといえば、ことばのなかに、そのことばからはみ出してしまって、他のことばと重なってしまうものがあるからだ。その重なりを利用して、いまここにあることばは、別のことばへと進んでいくことができる。
簡単に言うと「だじゃれ」なんだけれど。
その音を利用した変な力を借りて、平田はともかくことばを動かしはじめる。どこへ行くのか。まあ、平田にも「わからない」というのがほんとうのところではないかと思う。そして、私が平田の詩を読むのは、平田は書きたいことが「わかっていない」と思うからなのである。わかっていなくても、ことばは動いて行ける。その動きの可能性につきあいたい--そういう気持ちがあるから、平田のことばについて行ってしまう。
わからずに書く--というのは、少しずつわかりながら書く、発見しながら書く、どこへ行ってしまってもかまわない、と覚悟を決めて書くということでもある。
季村のことばには「気迫」があった。平田のことばには「覚悟」がある、ということになるかもしれない。わからないけれど、何かを「悟っている」。その、不思議な力がある。
いざ蚊枕
生きるべき、蚊
死ぬべき、蚊
蚊枕に対抗しようと思えば
詩枕千代子になるしかない
「東京だよおっ蚊さん」や
「蚊らたち日記」を歌うしかない
ことば--あることばに出会い、そのことばと向き合うために(真っ正面から「対抗」するために)、平田は「自分」を頼りにしない。伊藤比呂美は「私は私である」にこだわったが、平田は平気で「自分」を捨てる。「詩枕千代子」はもちろん「島倉千代子」だが、そんなふうに平田は簡単に他人に「なる」。(詩枕千代子に「なる」しかない--と平田は書く。)
これは、同時に、そんなふうに他人に「なった」としても、一方で、自分は自分で「ある」ということを平田が知っているからである。「詩枕(島倉)千代子」になっても、平田が平田である証拠は「東京だよおっかさん」ではなく「東京だよおっ蚊さん」の「蚊」に対するこだわりとしてつづいている。
ことばを動かすのは、いつでも平田なのだ。
そこにあるもの、知っているもの、あらゆることを利用しながら、一方でことばを破壊し、他方でことばの運動を支配する。動かす。どんなことをしてもことばを動かしてみせる、そしてそれがどんなものになろうと、そこに最終的に平田があらわれてくる、と平田は悟っている。
だから、平気なのだ。平田俊子ではなく「平気」俊子という感じの雰囲気が、いつでも平田のことばにはある。
で、いろいろ書いてしまうと、面倒なので。最後。
人間のまわりをうろうろする蚊
人間の血をちゅうちゅう吸う蚊
あげくにたたかれ、落命する蚊
実に愚かだ、考えがたりない、
実におろ蚊だ、蚊んがえがたりない
(略)
生きるべき、蚊
死ぬべき、蚊
火柱
蚊柱
人柱
命を賭けて人の血を吸う
ば蚊で
おろ蚊で
あさは蚊な蚊
「ば蚊で/おろ蚊で/あさは蚊な蚊」となって、「命を賭けて人の血を吸う」なんて、いいだろうなあ、と私は、ふと思うのだ。「ばか」「おろか」「あさはか」ということばのなかにさえ「蚊」という自分を刻印できるなんて、これはかっこいいことじゃないだろうか。詩の途中に出てくる高浜虚子の句の「金亀子(こがねむし)」は「ばか」「おろか」「あさはか」のなかに「こがねむし」を刻印できないからねえ。
ちょっと、飛躍して。(論理を省略して--という意味に理解してください。)
平田は「蚊」ということばのなかに、平田という詩人を刻印している。蚊を完全に平田のものにしてしまっている。「蚊」は「平田語」になっている。
詩は、その「平田語」の「平田」のなかにある。
なんになってもいい、どうなってもいいと覚悟しながら動かしたことばによって、平田は「蚊」を乗っ取って、蚊を「平田」にしてしまったのだ。
これって、愛、かなあ。
きっと究極の愛の形だなあ。
自分はどうなってもいい--そう覚悟して相手についていく。そして知らない内に、相手をのっとって、自分が相手になってしまょうのではなく、相手を自分にしてしまう。こわい、こわい、こわい愛の物語。
こんなふうに愛されたら--私は困るけれど、「蚊」、「蚊ということば」にとっては、至福だろうなあ。
私の赤くて柔らかな部分 | |
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