詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

平田俊子「いざ蚊枕」

2011-01-19 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
平田俊子「いざ蚊枕」(「現代詩手帖」2011年01月号)

 ことばがもっている何か--それがことばから溢れ出て、他のことばとまじりあう。そんな動きには季村敏夫のようなまっとうな(?)もののほかに、かなりふざけた(?)ものもある。
 平田俊子「いざ蚊枕」。

蚊についてもう少し言わせてください


鎌倉に住んでいる知り合いが
自分の住所を「蚊枕」と書くところを目撃しました
蚊がびっしり詰まった枕を想像しました
ソバガラや羽毛やパイプではなく
大量の蚊でふくらんだ枕
枕の中で蚊は生きているのだろう、蚊
生きていればうるさいし
死んでいれば気味が悪い
蚊の生死をその人に問うと
「蚊枕って、蚊が寝るときに使う枕ですよ」
「蚊って、寝るとき枕を使うんですか」
「使います。小さな頭に小さな枕をあてがって寝ます」
「うわあ。知りませんでした」

 これは「蚊枕」ではなく、「蚊枕」という詩の「枕」のようなものである。寝るときに使うのではなく、本題に入る前の導入部としての「枕」--と書いていくと蚊からはなれてしまうので、あ、まずい、と私は思うのだが、書いてしまったから、しようがない。
 しかし、この書き出しを読むと、平田が何を書きたいのか、よくわからない。平田に書きたいことがわかっているのか、それもわからない。
 「蚊についてもう少し言わせてください」と突然始まるのだが、「もう少し言わせてください」というかぎりは、平田は蚊について何か言ったことがあるのだろう。けれど、私には、それがわからない。わからないけれど、そんなことは別にして、ここに書いてあることばがわからないかと言えばわかる。ことばはわかるが、何がいいたいか、わからない。
 わかる、わからない、にはふたつの「意味」がある。「わからない」には、ことばの「意味」そのものがわからない、というのと、ことばが「どこへ進むのか」見当がつかない、わからない、というのがある。
 平田の詩の場合、「わからない」というのは「どこへ進むのか」わからない、である。そして、わからないのに、そのことばが進んでしまうのはなぜかといえば、ことばのなかに、そのことばからはみ出してしまって、他のことばと重なってしまうものがあるからだ。その重なりを利用して、いまここにあることばは、別のことばへと進んでいくことができる。
 簡単に言うと「だじゃれ」なんだけれど。
 その音を利用した変な力を借りて、平田はともかくことばを動かしはじめる。どこへ行くのか。まあ、平田にも「わからない」というのがほんとうのところではないかと思う。そして、私が平田の詩を読むのは、平田は書きたいことが「わかっていない」と思うからなのである。わかっていなくても、ことばは動いて行ける。その動きの可能性につきあいたい--そういう気持ちがあるから、平田のことばについて行ってしまう。
 わからずに書く--というのは、少しずつわかりながら書く、発見しながら書く、どこへ行ってしまってもかまわない、と覚悟を決めて書くということでもある。
 季村のことばには「気迫」があった。平田のことばには「覚悟」がある、ということになるかもしれない。わからないけれど、何かを「悟っている」。その、不思議な力がある。

いざ蚊枕
生きるべき、蚊
死ぬべき、蚊
蚊枕に対抗しようと思えば
詩枕千代子になるしかない
「東京だよおっ蚊さん」や
「蚊らたち日記」を歌うしかない

 ことば--あることばに出会い、そのことばと向き合うために(真っ正面から「対抗」するために)、平田は「自分」を頼りにしない。伊藤比呂美は「私は私である」にこだわったが、平田は平気で「自分」を捨てる。「詩枕千代子」はもちろん「島倉千代子」だが、そんなふうに平田は簡単に他人に「なる」。(詩枕千代子に「なる」しかない--と平田は書く。)
 これは、同時に、そんなふうに他人に「なった」としても、一方で、自分は自分で「ある」ということを平田が知っているからである。「詩枕(島倉)千代子」になっても、平田が平田である証拠は「東京だよおっかさん」ではなく「東京だよおっ蚊さん」の「蚊」に対するこだわりとしてつづいている。
 ことばを動かすのは、いつでも平田なのだ。
 そこにあるもの、知っているもの、あらゆることを利用しながら、一方でことばを破壊し、他方でことばの運動を支配する。動かす。どんなことをしてもことばを動かしてみせる、そしてそれがどんなものになろうと、そこに最終的に平田があらわれてくる、と平田は悟っている。
 だから、平気なのだ。平田俊子ではなく「平気」俊子という感じの雰囲気が、いつでも平田のことばにはある。

 で、いろいろ書いてしまうと、面倒なので。最後。

人間のまわりをうろうろする蚊
人間の血をちゅうちゅう吸う蚊
あげくにたたかれ、落命する蚊
実に愚かだ、考えがたりない、
実におろ蚊だ、蚊んがえがたりない
(略)
生きるべき、蚊
死ぬべき、蚊
火柱
蚊柱
人柱
命を賭けて人の血を吸う
ば蚊で
おろ蚊で
あさは蚊な蚊

 「ば蚊で/おろ蚊で/あさは蚊な蚊」となって、「命を賭けて人の血を吸う」なんて、いいだろうなあ、と私は、ふと思うのだ。「ばか」「おろか」「あさはか」ということばのなかにさえ「蚊」という自分を刻印できるなんて、これはかっこいいことじゃないだろうか。詩の途中に出てくる高浜虚子の句の「金亀子(こがねむし)」は「ばか」「おろか」「あさはか」のなかに「こがねむし」を刻印できないからねえ。

 ちょっと、飛躍して。(論理を省略して--という意味に理解してください。)
 平田は「蚊」ということばのなかに、平田という詩人を刻印している。蚊を完全に平田のものにしてしまっている。「蚊」は「平田語」になっている。
 詩は、その「平田語」の「平田」のなかにある。
 なんになってもいい、どうなってもいいと覚悟しながら動かしたことばによって、平田は「蚊」を乗っ取って、蚊を「平田」にしてしまったのだ。
 これって、愛、かなあ。
 きっと究極の愛の形だなあ。
 自分はどうなってもいい--そう覚悟して相手についていく。そして知らない内に、相手をのっとって、自分が相手になってしまょうのではなく、相手を自分にしてしまう。こわい、こわい、こわい愛の物語。
 こんなふうに愛されたら--私は困るけれど、「蚊」、「蚊ということば」にとっては、至福だろうなあ。

私の赤くて柔らかな部分
平田 俊子
角川書店(角川グループパブリッシング)
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誰も書かなかった西脇順三郎(169 )

2011-01-19 12:01:51 | 誰も書かなかった西脇順三郎

 『えてるにたす』。「菜園の妖術」のつづき。

なにしろあの山百合は
歯医者のかえりにいさらごのあたりを
うろつくちばの魚うりの女が
駅まで出る坂道で折つてきた
美しいへそくりの胡麻すりの
八月の日の愛情のあわれみだ
銅銭のやわらかみはもう
入口のくらやみには残つていない

 ここには何が書かれているのか。
 「あの山百合は」「ちばの魚うりの女が」「折つてきた」もの。その花には「あわれみ」「やわらかみ」「くらやみ」というような淋しさは「残つていない」--と、私の「頭」は強引に読みとってしまう。つまり、山百合の花と魚売りの女が出会い、その出会いのなかで、こころの奥にある感情がゆさぶられ、ゆさぶられるままに、ああでもない、こうでもないとことばが動いている。
 でも、そんなことはどうでもいいなあ。
 こころが、ことばが動くとき、その動きを私は自分でコントロールできない。西脇のことばのリズムに突き動かされて、いま書いたばかりの魚売りの女と山百合の出会いから逃れられなくなる。
 かえ「り」に、あた「り」を、「う」ろつく、魚「う」り、駅ま「で」、坂道「で」、へそく「り」、胡麻す「り」、あわれ「み」、やわらか「み」、くらや「み」。
 そこに書かれていることばは、「意味」もあるだろうけれど、それ以上に「音」をもっていて、その「音」がどうしても気になる。その「音」から逃れられなくなる。

美しいへそくりの胡麻すりの

 という1行は、これはほんとうに「意味」なんか、ぜんぜん、つかめない。澤正宏(福島大、人間発達文化学教授)にでも聴けば、出典と、それらしい「意味」は教えてくれるかもしれないが、私は「へそくりの胡麻すりの」という音だけで満足だし、「美しいへそくり」ということばのなかには「美しいへそ」があり、そこから女の裸なんかが浮かび上がるところが大好きだ。「へそ」の「胡麻」ということばを連想させるのもいいなあ。「「へそ」の「胡麻」と感じているときは、ことばではなく、女の裸を感じているのだけれど。
 そして、そこに女の裸を感じるからこそ「あわれみ」「やわらかみ」「くらやみ」ということばがぴったり感じられる。
 魚売りのたくましい(?)というか、頑丈な女と山百合。その取り合わせが、「意味」はわからないけれど「美しいへそくりの胡麻すりの」なんだなあ。

なまなすに塩をかけて
この美しい紫の悪魔を食うのだ
ピースにすい口をつけて吸い
呪文をとなえて充分
女神の分裂をさけるのだ
永遠は永遠自身の存在であつて
人間の存在にはふれていない
永遠をいくらつぶしてうすくしても
限定の世界にはならない
にわつとりがなく
また人類の夜明けだ
神々のたそがれはもう
ふたたびたまごの中にはいつた

 先に指摘したのとおなじ「音」の動きがここでも見られる。しかし、ここでいちばんおもしろいのは、

にわつとりがなく

 の1行である。
 ことばの転換の仕方としては、「旅人かへらず」の「ああかけすが鳴いてやかましい」とおなじものだが、音がケッサクである。
 「にわとりがなく」(鶏が鳴く)では、「音」がまったくおもしろくない。「にわつとり」(にわっとり)と促音が入ることでことばが弾む。「にわつとり」は次の行の「夜明け」を呼び出すのだが、その夜明けは「にわつとり」の「音」(なく--ということばに従えば、にわとりの「トキ」をつくる声だね)に破られて、夜明けどころか、真昼も飛び越してしまいそうである。実際、次の行では「たそがれ」になるのだけれど。
 その前に書いてあるのは、なにやら哲学じみたことがら、「意味」のありそうなことばなのだが、そんなものは、もういいなあ。「にわつとり」「にわつとり」「にわつとり」と叫びながら走り回りたい気持ちになる。
 この「無意味」、ナンセンスな肉体のよろこびが私は大好きだ。




詩学 (1968年)
西脇 順三郎
筑摩書房
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