詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

季村敏夫『ノミトビヨシマルの独言』

2011-01-15 23:59:59 | 詩集
季村敏夫『ノミトビヨシマルの独言』(書肆山田、2011年01月17日発行)

 読みはじめた瞬間に、不思議な緊張の予感につつまれる詩集というものがある。ことばがぱっと目に飛びこんでくる。ひとつひとつのことばが区別がつかないくらいに鮮やかにいっせいに目に飛び込んでくる。何もわからないのだけれど、すべてがわかったような感じになる。すべてがわかっているはずなのに、なにもわからないという気持ちになる。ここにはたいへんなものが「ある」。それをしっかり見なければいけない、読まなければいけない。そういう気持ちになる。
 ことばに気迫がある。ことばの気迫が、瞬間的に立ち上がってくるのだ。
 季村敏夫『ノミトビヒヨシマルの独言』が、そういう詩集である。巻頭の詩で、私は、瞬間的に背筋がのびるのを感じた。ページを開いた瞬間に、強烈な緊張を感じたのだ。気迫を感じ、はっとしたのである。
 何が、どのことばが、この気迫の発火点(?)なのだろうか。私はおそるおそるという感じと、早く見極めたいという矛盾した気持ちで「アピ」読みはじめた。

風は南へ
これは夏の声明(しょうみょう)
風のこどもへの断片

南へといそぐ息の舟を
あらわれては消える
波の火がおそう

空中の息は
ほかのだれかの息にひかれ
風の源に帰ろうと踊る

手をとりあう波の手
手が手にかさなる微風が
南へとはなたれる

* アピ=マレー語で火。アピはかつて戦場だった。

 何が書いてあるか、私にはわからない。「夏」はわかる。季節だ。「南」もわかる。方角だ。次の「これは夏への声明」がわからない。「これ」がわからないのである。声明というのは、私には葬式のときのお坊さんの合唱(?)のようなものである。「これ」というのは「風」で、風が夏への声明というのだろうか。でも、そうすると3行目の「風のこどもへの断片」というのは? 「これ」が「風」だとすると、「風」は「風のこどもへの断片」となる。「風」と「風のこども」のちがいは? 風に「こども」なんている? いや、2行目と3行目は、そんな具合にはつながっていないのだ。「声明」を言いなおしたのが3行目である。「声明」は「風のこどもへの断片」である。では、何の断片?
 私は2行目を読み返す。「これ(風)は夏への声明」。そのとき、「夏」とは何? 単なる季節の名前ではないのだろう。そこには「死者」がいるのだ。死者とつながる何か。そして、3行目とつないで考えるなら、「風」の「断片」が「声明」ということになる。でも風のどんな断片? 声明だから「音」? それとも音にならない光? 
 わからないまま、その3行がひとかたまりとなって「これ」に結晶のようにして凝固するのを感じる。すべてが「これ」なのだ。季村の感じた「何か」の総称、ひとかたまりのものが「これ」なのだと思う。
 風、南、夏、声明、こども、断片。
 これは切り離せない。切り離せないというのは、こんがらがった糸のようなものである。切り離してしまえば、糸は糸の長さを失い、糸でなくなってしまう。こんがらがったまま、「これ」として、そのままもちつづけ、時間をかけてほぐすしかないのである。こんがらがった糸をほぐすように、あっちをひっぱり、こっちをひっぱり、私自身を別の形にするしかないのである。いや、そうではなくて、そんなことをしたら「糸のかたまり」は「かたまり」ではなく、弱々しい1本の糸になってしまう。季村が書いているのは、あくまで「糸のかたまな」のようなものなのだから、私自身が別の形になって、その糸の端から別の端までたどってみるしかないのである。それをたどりおえたとき、糸のかたまりが外から見ると小さいけれど、内部に巨大な宇宙をかかえていることがわかるのだ。
 なにもわからないまま、風、南、夏、声明、こども、断片の濃密な緊張感に、私は「ブラックホール」のようなものを感じたのだ。そこにすべてがある。そこにすべてがのみこまれ、そこから目にみえない爆発の光が発している。そんなようなものを見たように、緊張したのだ。
 わたからないまま、そのときそのときにあらわれてきた印象を書いておく。
 2連目。
 「息」。これは「声明」に通じる。声明は、おぼうさんの声だ。息が肉体をとおって、私の知らないことばになって、ただ「音」としてかけまわる。私はお経?の意味を、そのことばをまったく知らない。外国語の「音」と何もかわらない。ただ、「音」なのだけれど、その「音」には息を感じる。そして、そこに生きている「いのち」を感じる。「息の舟」は生きている人間を想像させる。
 「波の火」。びっくりしてしまう。波は水である。波に火はありえない。比喩としても「火の波」はあっても「波の火」はないだろう。矛盾している、を超えて、間違っている。間違ったことばである。
 のだけれど。
 あ、これなのだ。このことばが詩のなかから特別な光を発して私の眼のなかに飛びこんできたのだ。このことばが私を緊張させたのだ、と読み返してはっきりわかる。
 「火の波」ということばは間違っている。「学校教科書」の文法(あるいは文章教室?)からみると、あってはならない表現である。けれど、そのあってはならないものが、ここに「ある」。間違いなく、ここに「ある」。そして、そこに「ある」ことによって、そのことばとが「ない」ときには言い表せないことを言おうとして、ふんばっている。
 そこにことばの「気迫」そのものがある。
 だれも言っていない。そのことを、「波の火」は言おうとしているのだ。
 南へ向かう舟--そして、そこに乗っている息、つまり人間のいのちにとって、その波こそは、彼らを襲い、焼き尽くす何かである。それは息を、いのちを拒絶するもの、しかもいのちを超越したものである。その「超越」を特権的に語るのが「波の火」という「間違い」である。「間違い」のなかには特権的なもの、いままでそこに存在しなかった力があるのだ。

 3連目。
 「空中の息」。これは、死んでしまったいのちの絶叫である。声明のようにおだやかな(?)ものではない。声明になれない声。声明を必要とする声である。「ほかのだれかの息」は声明のように思える。声明に導かれ(ひかれ)、「空中の息」は「風の源」へ帰ろうとする。舟が南へ向かっているなら、北へ帰ろうとする。息が生まれた場所へ帰ろうとする。だが、北へ帰ろうにも、すでに舟は「波の火」のなか。どこへも帰れないだろう。そこには、ただ「空中の息」をなぐさめるための「声明」と、それにすがる「息」の不可能のおどりがあるだけである。

 4連目。
 「手をとりあう波の手」。「波の火」に襲われて、「息」どうなったのだろう。「波」になってしまったのか。ただし、このとき「波」は「火」ではないだろう。「火」が過ぎ去って、波も小さくなっている。ないでいる。そこにあるのは「水」だ。どこまでも広がる水だ。--というようなことを季村はことばにしていないのだが、私には、そういう「情景」が見える。「手が手にかさなる」は無数の息、波の火に襲われて、苦しみ、そして声明になぐさめられておだやかになった息--「微風」に思える。おだやかな海(波の火が消えた海)に吹いている「微風」。それはゆっくりゆっくりと「南」へ向かう。このとき、その「風」は「南へといそぐ舟」の「息」ではない。きっと「風のこども」である。「風のこども」が手に手をかさねて、おだやかな波の下にある「手」を感じながら、南へ向かう。

 私の印象は、3連目を中心にして、何かねじれてしまう。1連目に書かれている「風」と「風のこども」ということばの影響を受けて、どこまでが「風」(息)であり、それがなぜ「風の子ども(息のこども)」にすりかわるのか、きちんと説明できない。
 ほぐれた糸のこっちをひっぱったつもりが、あっちをひっぱっていた、という感じである。ほぐすつもりが逆に固くしてしまう、という感じである。
 こんなめんどうな比喩をつかわずにいえば、ようするに、わけがわからないということになるのだが、わけがわからないのだが、ここに季村の書こうとしていること、その「かたまり」のすべてが凝縮しているということはわかる。直感的にわかる。ことばの「気迫」が、それをしっかり見ろ、と私に命令している。

 わっ、どうしようと、私は悩んでしまう。
 読まなければよかったかなあ。読まなければ、季村のことばの世界を知らずに過ごせたのになあ。でも、読みたい。読んで、読んで、読んで、私のぼんやりしたことばを捨て去ってしまいたい。季村のことばの緊張感、ことばの気迫に押されるままに、ここではないどこかへ行ってしまいたい。矛盾した気持ちが私のなかで渦巻く。
 1篇読んだだけだが、たいへんな詩集であると感じてしまった。


木端微塵
季村 敏夫
書肆山田
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山鹿なみ子『メオト詩篇』

2011-01-15 09:09:58 | 詩集
山鹿なみ子『メオト詩篇』(ふらんす堂、2010年09月11日発行)

 山鹿なみ子『メオト詩篇』は、ことばに頼っている詩である。頼っているというのは、知っていることばを組み合わせることで、いままで存在しなかった「世界」を書こうとしている、という意味である。
 「居たのだろうか」。

氷点下二十度
二羽の
蝶が

 氷点下二十度の世界には、現実には蝶はいない。その非現実の世界、山鹿が書くまでは存在しなかった世界を、山鹿はことばで出現させる。
 詩全体が「比喩」なのだ。対象を明示しない「比喩」なのだ。いや、対象を明示できない「比喩」なのだ。明示できないのは、それが実際には存在しないからだ。
 「君は薔薇だ」というときの「薔薇」は比喩。その対象が「君」であるのと比較するとわかる。
 その存在しないものを、山鹿はなんとか書き表したいと思っている。これは詩のひとつの方向性である。
 このとき問題は、どれだけ「定型」に頼らずにことばを動かすかである。「定型」に頼ると、存在しないはずの世界が、すでに存在している世界にひっぱられ、せっかくのことばが全部「うそ」になる。山鹿がほんとうに、そのいままで存在しなかった世界と触れ合っているのか、わからなくなる。「ほんとう」を書いているのではなく、「うそ」を書いている。しかも、「うそ」をついてもばれないと思って書いている、という印象が生まれてくる。

黒い

広げ
たわむれ
風に
ただよい
雪の
蜜を
吸う

 「たわむれ」「ただよい」--この2行。これは「氷点下二十度」の世界でのみありうる動きではなく、むしろ、多くの「文学」に登場済みの、明るい陽射し、おだやかな風の吹いている「定型」の世界である。
 もちろん「氷点下二十度」にそういう動きがあってはいけないというのではないが、「定型」を感じさせてはいけない。「氷点下二十度」の「たわむれ」「ただよい」をつかみとって書かないと、「定型」を利用した「うそ」になってしまう。
 そこに「うそ」があるから、せっかく書いた「雪の/蜜を/吸う」というすばらしく透明な「真実」がちぐはぐになってしまう。
 「雪」に「蜜」など、ない--ないから、それを「吸う」という動詞で固く結びつけるとき、「氷点下二十度」と「黒い」「蝶」が鮮やかに動きだす。
 --のだけれど。
 その前の「たわむれ」「ただよう」が、でも、これは書いてみただけ、と後ろを向いて「べろ」を出してしまう。

雪原を
腰まで
沈ませながら
黒衣の男
蝶を
何年も
追いかけた来た

その
痕跡
すべて消され
男は
蝶は
何処へ

 私なら、「たわむれ」「ただよい」という蝶の描写の「定型」に殺され、消えてしまった。もう二度と存在できなくなってしまった、と答えよう。
 「定型」を破らないかぎり、詩は生まれない。

 ことばの静かな詩もあるのだが、この一篇で、私の印象は変わってしまった。ほんとうは、ほかの詩を紹介すべきなのかもしれないけれど、気になったので、書いておく。





詩集・メオト詩篇
山鹿 なみ子
ふらんす堂
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