詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

新川和江「コース」、谷川俊太郎「極めて主観的な香港の朝」

2011-01-04 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
新川和江「コース」、谷川俊太郎「極めて主観的な香港の朝」(「現代詩手帖」2011年01月号)

 長谷川龍生「倦怠」の緊迫した魂に触れたあと、新川和江「コース」を読むと、暖かな陽射しのなかでゆっくりと世界と一体になっている気持ちがしてくる。うつらうつら、眠りたいような(眠っているような)感じになってくる。

猫が 通って行く
わたしの中の ランゲルハンス島を
うつらうつら
居眠りしている海馬の傍らを

いつも 裏庭のほうから回って
居間の前で立ち止まり
ガラス戸越しにじっとわたしを見据え
また悠然と歩き出す
白黒まだらの薄汚れたあのどら猫

わが家の芝生の感触が
ぽってりした下腹にここちよいのか
さてと 一隅に
とびきり臭い置き土産をのこし

ユキヤナギの茂みをくぐり
サンゴジュの生垣の株間から
せいせいした足どりで 出て行く
午後の陽が明るく射している西の通りへ

いい出口を見つけたね
わたしも いつか
白い小花にまぶされて
そこから西へ 出て行くことにしよう

 「いい出口を見つけたね」。この1行の前で、私は、ぼーっとなってしまう。あ、死ぬことは「出口」を見つけ、この世から出て行くことなのか。別の世界へ行くことなのか。「入り口」ではなく「出口」。そんなふうに「いま」「ここ」と和解できたら、ほんとうにいいだろうなあ。
 まさか、肉体はそんなふうにして動くことはできないだろうが、魂なら、それができる。その夢にぼーっとする。



 谷川俊太郎「極めて主観的な香港の朝」にも不思議な「和解」を感じた。

木っ端になって
つまりは歴史の上澄みに
ぷかふか浮かんでいる
痛いところはない
痒いところもない
見ると手に十本の指がある
触ると足にも十本の指がある
驚くべきことだ
その他にまだペニスもあるのだから
昨夜<ナショジオ>で見た
豆の莢みたいなケースは
つけていないが

このまま何世紀かが過ぎてゆくとしたら
もちろんそのころ私はどこか
別のところに行っているのだが
結局罪なんてものはどこにもなかった
ということになりはしまいか

あーあ
世界はいま
借りてきた猫のようにおとなしい

 手も足もペニスも、罪を犯すことはあるかもしれない。でも、それは手にとっての罪? 足にとっての罪? ペニスにとっての罪? そうではなく、手に取っての喜び。足にとっての喜び。ペニスにとっての喜び。そして、手も足もペニスも、それ単独のものではないのだから、それは人間が生きていることの喜びだろう。その喜びも、死んでしまえば、その肉体がないのだから、肉体とともに消えてしまう。あらゆるものは肉体とともにあらわれ、肉体とともに消えていく。
 罪も、そのときは存在しない。罪は、きっと生きているときの魂の迷いなのだ。肉体の喜びの、そのまるで自分のものではないような喜びをどうしていいかわからず、罪と思うことで喜びを制御しているのだろう。
 いや、それだけじゃなくて、もっと大きな罪がある? あるかもしれない。けれど、それにしても、それは人間のひとつの可能性の実行にほかならない。ひとはしてはいけないことをしながら自分を超えるのだから、そういう可能性を否定してもはじまらない。
 --というようなことを書いているのか、書いていないのか、まあ、谷川のことばを読みながら、私はぼんやりと感じた。
 新川の詩につないで見ると、罪なんて、どら猫が庭に残していったとびきり臭いうんちのようなものである。そんなものなど適当に残しておいて、自分なりの「出口」を見つけて出て行くだけなのさ。
 世界はきっととびきり臭いうんちを待っている。

 ああ、それなのに、それなのに。世界には何の「罪」もない。猫のうんちに値するような「犯罪」もおこなわれていない。「主観的」には、極めて静かな、おとなしい世界である。退屈な世界である。

 谷川の書いていないことを、私は私の「主観」でかってに書いてみる。

記憶する水
新川 和江
思潮社
ひとり暮らし (新潮文庫)
谷川 俊太郎
新潮社


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熊切和嘉監督「海炭市叙景」(★★★★)

2011-01-04 19:51:55 | 映画
監督 熊切和嘉 出演 谷村美月、竹原ピストル、加瀬亮

 冒頭のシーンが非常に美しい。学校。教室。授業中。遠くでサイレンがなっている。児童が水滴でくもった窓ガラスを拭く。そのとき少し光が変化する。その微妙な光の変化をきちんとつかまえている。私は期待でわくわくしてしまう。こんなに美しいシーンを見るのはいつ以来だろう。これからどんな美しいシーンがつづくのだろう。
 でも、その期待は、そこまで止まりだった。
 冬の北国(雪国)の弱々しい光。しかも、外の光を直接とらえるよりも、室内から、窓越しにその光をとらえる、あるいは窓から室内に入ってきた光をとらえることにカメラが(映画が?)夢中になりすぎていて、かなりむりがある。その光は美しいのだけれど、それだけにむりがある。
 たとえば、造船所のリストラで職を失う(?)若い夫婦の室内。台所があって居間がある。その間には戸があるのだけれど、その戸を閉めない。玄関のガラス戸が居間から見える。台所、玄関から入ってくる光を居間にまで取り込むためには、戸を開けておかないとむりなのだが、ねえ、冬の北国でそんなことする? まず防寒がいちばん。戸はできる限り閉める。こんな嘘のシーンを撮ってはだめ。昼にそんなシーンを撮ったために、年越しそばを食べるときも居間の戸は開いたまま。台所が、そこから見える。雪国じゃ、そんなことはしないよ。
 冒頭の映像の美しさ、そして暮らしの細部、細部に生きている命を丁寧に描くという点では「長江哀歌」(10年に1本の大傑作)に似ているが、嘘がある分だけ、その美しさも「つくられたもの」に成り下がってしまっている。つまらないね。「長江哀歌」のあの美しさを見たあとでは、どんな映画を見ても「長江哀歌」を真似しているとしか見えないところがつらい。暮らしの撮り方を、もっと変えないといけないのだと思う。
 ただ、外の雪のシーンは出色だった。冷たさがしっかりと定着していた。白い輝きではなく、灰色の硬さを含んだ雪の質感がよかった。そこに、暮らしをはっきりと感じた。こういう映像を撮れるのだから、室内ももう少し丁寧に撮ればいいのに、と思わずにはいられない。
 それに。
 なんだか「文学臭」が強すぎる。登場する人物が「苦悩」をおもてに出しすぎる。唯一の救いは、プロパンガス店の社長がボンベで足の指をつぶし動けなくなったとき、料金を滞納している暴力団員がたばこをすすめるところ。そこにだけ、人間の、人間に対するいい意味での裏切りがある。ガス代を踏み倒す暴力団員が、ふとみせる人間的なやさしさ--そこに、お、人間はおもしろい、と感じさせるものがある。
 あとは「不幸」の予定調和である。予定調和のストーリー、演技だから文学臭の「臭」がいっそう強くなるのである。
 「長江哀歌」を貪欲に消化する意欲はいいけれど、その分、興醒めの度合いも大きい。


海炭市叙景 (小学館文庫)
佐藤 泰志
小学館


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