新川和江「コース」、谷川俊太郎「極めて主観的な香港の朝」(「現代詩手帖」2011年01月号)
長谷川龍生「倦怠」の緊迫した魂に触れたあと、新川和江「コース」を読むと、暖かな陽射しのなかでゆっくりと世界と一体になっている気持ちがしてくる。うつらうつら、眠りたいような(眠っているような)感じになってくる。
「いい出口を見つけたね」。この1行の前で、私は、ぼーっとなってしまう。あ、死ぬことは「出口」を見つけ、この世から出て行くことなのか。別の世界へ行くことなのか。「入り口」ではなく「出口」。そんなふうに「いま」「ここ」と和解できたら、ほんとうにいいだろうなあ。
まさか、肉体はそんなふうにして動くことはできないだろうが、魂なら、それができる。その夢にぼーっとする。
*
谷川俊太郎「極めて主観的な香港の朝」にも不思議な「和解」を感じた。
手も足もペニスも、罪を犯すことはあるかもしれない。でも、それは手にとっての罪? 足にとっての罪? ペニスにとっての罪? そうではなく、手に取っての喜び。足にとっての喜び。ペニスにとっての喜び。そして、手も足もペニスも、それ単独のものではないのだから、それは人間が生きていることの喜びだろう。その喜びも、死んでしまえば、その肉体がないのだから、肉体とともに消えてしまう。あらゆるものは肉体とともにあらわれ、肉体とともに消えていく。
罪も、そのときは存在しない。罪は、きっと生きているときの魂の迷いなのだ。肉体の喜びの、そのまるで自分のものではないような喜びをどうしていいかわからず、罪と思うことで喜びを制御しているのだろう。
いや、それだけじゃなくて、もっと大きな罪がある? あるかもしれない。けれど、それにしても、それは人間のひとつの可能性の実行にほかならない。ひとはしてはいけないことをしながら自分を超えるのだから、そういう可能性を否定してもはじまらない。
--というようなことを書いているのか、書いていないのか、まあ、谷川のことばを読みながら、私はぼんやりと感じた。
新川の詩につないで見ると、罪なんて、どら猫が庭に残していったとびきり臭いうんちのようなものである。そんなものなど適当に残しておいて、自分なりの「出口」を見つけて出て行くだけなのさ。
世界はきっととびきり臭いうんちを待っている。
ああ、それなのに、それなのに。世界には何の「罪」もない。猫のうんちに値するような「犯罪」もおこなわれていない。「主観的」には、極めて静かな、おとなしい世界である。退屈な世界である。
谷川の書いていないことを、私は私の「主観」でかってに書いてみる。
長谷川龍生「倦怠」の緊迫した魂に触れたあと、新川和江「コース」を読むと、暖かな陽射しのなかでゆっくりと世界と一体になっている気持ちがしてくる。うつらうつら、眠りたいような(眠っているような)感じになってくる。
猫が 通って行く
わたしの中の ランゲルハンス島を
うつらうつら
居眠りしている海馬の傍らを
いつも 裏庭のほうから回って
居間の前で立ち止まり
ガラス戸越しにじっとわたしを見据え
また悠然と歩き出す
白黒まだらの薄汚れたあのどら猫
わが家の芝生の感触が
ぽってりした下腹にここちよいのか
さてと 一隅に
とびきり臭い置き土産をのこし
ユキヤナギの茂みをくぐり
サンゴジュの生垣の株間から
せいせいした足どりで 出て行く
午後の陽が明るく射している西の通りへ
いい出口を見つけたね
わたしも いつか
白い小花にまぶされて
そこから西へ 出て行くことにしよう
「いい出口を見つけたね」。この1行の前で、私は、ぼーっとなってしまう。あ、死ぬことは「出口」を見つけ、この世から出て行くことなのか。別の世界へ行くことなのか。「入り口」ではなく「出口」。そんなふうに「いま」「ここ」と和解できたら、ほんとうにいいだろうなあ。
まさか、肉体はそんなふうにして動くことはできないだろうが、魂なら、それができる。その夢にぼーっとする。
*
谷川俊太郎「極めて主観的な香港の朝」にも不思議な「和解」を感じた。
木っ端になって
つまりは歴史の上澄みに
ぷかふか浮かんでいる
痛いところはない
痒いところもない
見ると手に十本の指がある
触ると足にも十本の指がある
驚くべきことだ
その他にまだペニスもあるのだから
昨夜<ナショジオ>で見た
豆の莢みたいなケースは
つけていないが
このまま何世紀かが過ぎてゆくとしたら
もちろんそのころ私はどこか
別のところに行っているのだが
結局罪なんてものはどこにもなかった
ということになりはしまいか
あーあ
世界はいま
借りてきた猫のようにおとなしい
手も足もペニスも、罪を犯すことはあるかもしれない。でも、それは手にとっての罪? 足にとっての罪? ペニスにとっての罪? そうではなく、手に取っての喜び。足にとっての喜び。ペニスにとっての喜び。そして、手も足もペニスも、それ単独のものではないのだから、それは人間が生きていることの喜びだろう。その喜びも、死んでしまえば、その肉体がないのだから、肉体とともに消えてしまう。あらゆるものは肉体とともにあらわれ、肉体とともに消えていく。
罪も、そのときは存在しない。罪は、きっと生きているときの魂の迷いなのだ。肉体の喜びの、そのまるで自分のものではないような喜びをどうしていいかわからず、罪と思うことで喜びを制御しているのだろう。
いや、それだけじゃなくて、もっと大きな罪がある? あるかもしれない。けれど、それにしても、それは人間のひとつの可能性の実行にほかならない。ひとはしてはいけないことをしながら自分を超えるのだから、そういう可能性を否定してもはじまらない。
--というようなことを書いているのか、書いていないのか、まあ、谷川のことばを読みながら、私はぼんやりと感じた。
新川の詩につないで見ると、罪なんて、どら猫が庭に残していったとびきり臭いうんちのようなものである。そんなものなど適当に残しておいて、自分なりの「出口」を見つけて出て行くだけなのさ。
世界はきっととびきり臭いうんちを待っている。
ああ、それなのに、それなのに。世界には何の「罪」もない。猫のうんちに値するような「犯罪」もおこなわれていない。「主観的」には、極めて静かな、おとなしい世界である。退屈な世界である。
谷川の書いていないことを、私は私の「主観」でかってに書いてみる。
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