岡島弘子「傷のなおしかた」(「現代詩図鑑」第8巻第3号、2010年12月25日発行)
岡島弘子「傷のなおしかた」は書き出しがとても魅力的である。
道にできた水たまりを描いているだけなのだが、3行目「風がゆらし 陽があたためる」に私はほーっとため息が洩れた。「風がゆらし」というような大きな水たまりを見たことはないので、うそだろう、と言いたくなるのだが、次の「陽があたためる」がなんとも美しい。そうか、陽にあたためられ、あたたかくなる、そのあたたかさをわかるためには「風がゆらし」というくらいの大きさが必要かもしれない。
私は「水」ではないのだが、その岡島の描いている「水たまり」になって、自分自身の肉体があたたまっていくのを感じながら、あ、この光景は美しいなあ、と思ったのである。
「朝がおわるころ ふちから乾き」の、おわる「ころ」が静かでいい。「ふちから」という視線の動きもいい。水たまりが書かれているのに、なぜか水になっている自分を感じるのだ。
そして、もし、水と一体になり、「このままいけば/あさってには あとかたもなく消えるだろう」というのは、水にとっては不幸なこと(存在がなくなるのだから、不幸なことだろう)のはずなのだが、なぜか、とても落ち着いた気持ちになるのだ。岡島のことばを読むと。
存在がなくなること--それを知って、静かで落ち着いた気持ちになるというのは、なんとなく「矛盾」している。生きているということに、「矛盾」している。しかし、その「矛盾」をよくわからないが静かに越えていく力が、岡島のことばにある。
なんだろうなあ。
そう思っていると、詩は、思わぬ方向へ転換する。
「水」も「水たまり」も消えてしまって、指の傷のことが描かれる。それは「水たまり」とは違ったものだが、描きかたが似ているので、不思議な気持ちになる。「えぐれたところはもりあがり/まわりのひふもむけてたいらになり」というような丁寧な視線の動きは「陽があたため/朝がおわるころ ふちから乾き」ということばの動きと似ている。
傷に寄り添って、じっとそれを見ている--そういう印象がある。
「水たまり」も、岡島は寄り添うってじっとそれを見つめていたのだろう。
そして、この「寄り添ってじっと見つめる」ということが、「傷」にはわかるのだ。「傷」はだれかが(それは傷ついた自分であるのだけれど)寄り添ってくれていて、見つめてくれているということを頼りに回復するのだ。寄り添ってくれているひとがいるとわかって、回復するのだ。
「水たまり」の「水」があたたまる、そして消えていくのも、寄り添って、あたためてくれる陽があるからなのだ。水が消えていくとき、水は水ではなくなるのだが、ただ消えるだけではなく「陽」になるのだ。そういう変化があるから、静かに、落ち着いた気持ちになれる。
傷も、傷が回復し、消えながら、(変な文章だなあ)、その傷に寄り添ってくれていた「自分」に「なる」のだ。
ここから、この詩はもういっぺん変わる。
「意味」が強くなり、ちょっとセンチメンタルかもしれない。
その「意味」をちょっとわきにおいておいて(と書くと、それは違う、と岡島に叱られるかもしれないけれど……)、ここにある「寄り添う」感じ、「魂」に寄り添う感じはなかなかいいなあ。
「こころ」とか「魂」と、それを「ゆび」とは違ったものとして見ることに、私は、ちょっと違った思いを抱くのだけれど。(まあ、これは書きはじめると長くなるし、訳がわからなくなるので、きょうは省略。)
岡島にとって、「ことば」はかさぶたのようなものかもしれない。書くことで、傷はかたまり、剥がれ落ちて、その剥がれ落ちたことばの奥から、つまり書かれなかったことばになって、岡島のこころの傷、魂のかたちは、回復するんだろうなあ。
それまで、ただ、ことばは、寄り添っているだけなんだろうなあ--と、わかったような、わからないようなことを感じた。わからないけれど、ただ寄り添っているときの、その寄り添ってくれているもののあたたかさに染まるのは気持ちが落ちつくもんだよなあ、と感じた。
岡島弘子「傷のなおしかた」は書き出しがとても魅力的である。
どしゃぶりだった雨も夜明けとともにやんだ
のこされたおおきな水たまりを
風がゆらし 陽があたためる
朝がおわるころ ふちから乾き
夕暮れ前には半分ほどになって
道があらわれた
このままいけば
あさってには あとかたもなく消えるだろう
道にできた水たまりを描いているだけなのだが、3行目「風がゆらし 陽があたためる」に私はほーっとため息が洩れた。「風がゆらし」というような大きな水たまりを見たことはないので、うそだろう、と言いたくなるのだが、次の「陽があたためる」がなんとも美しい。そうか、陽にあたためられ、あたたかくなる、そのあたたかさをわかるためには「風がゆらし」というくらいの大きさが必要かもしれない。
私は「水」ではないのだが、その岡島の描いている「水たまり」になって、自分自身の肉体があたたまっていくのを感じながら、あ、この光景は美しいなあ、と思ったのである。
「朝がおわるころ ふちから乾き」の、おわる「ころ」が静かでいい。「ふちから」という視線の動きもいい。水たまりが書かれているのに、なぜか水になっている自分を感じるのだ。
そして、もし、水と一体になり、「このままいけば/あさってには あとかたもなく消えるだろう」というのは、水にとっては不幸なこと(存在がなくなるのだから、不幸なことだろう)のはずなのだが、なぜか、とても落ち着いた気持ちになるのだ。岡島のことばを読むと。
存在がなくなること--それを知って、静かで落ち着いた気持ちになるというのは、なんとなく「矛盾」している。生きているということに、「矛盾」している。しかし、その「矛盾」をよくわからないが静かに越えていく力が、岡島のことばにある。
なんだろうなあ。
そう思っていると、詩は、思わぬ方向へ転換する。
肉がえぐれるほど深く切ったゆびさきも
次の日には血が止まった
消毒をして傷薬たっぷり
毎日バンソウコウをとりかえるたびに
血色もうすれ
等高線をえがいて
えぐれたところはもりあがり
まわりのひふもむけてたいらになり
ゆびのかたちをとりもどしつつある
「水」も「水たまり」も消えてしまって、指の傷のことが描かれる。それは「水たまり」とは違ったものだが、描きかたが似ているので、不思議な気持ちになる。「えぐれたところはもりあがり/まわりのひふもむけてたいらになり」というような丁寧な視線の動きは「陽があたため/朝がおわるころ ふちから乾き」ということばの動きと似ている。
傷に寄り添って、じっとそれを見ている--そういう印象がある。
「水たまり」も、岡島は寄り添うってじっとそれを見つめていたのだろう。
そして、この「寄り添ってじっと見つめる」ということが、「傷」にはわかるのだ。「傷」はだれかが(それは傷ついた自分であるのだけれど)寄り添ってくれていて、見つめてくれているということを頼りに回復するのだ。寄り添ってくれているひとがいるとわかって、回復するのだ。
「水たまり」の「水」があたたまる、そして消えていくのも、寄り添って、あたためてくれる陽があるからなのだ。水が消えていくとき、水は水ではなくなるのだが、ただ消えるだけではなく「陽」になるのだ。そういう変化があるから、静かに、落ち着いた気持ちになれる。
傷も、傷が回復し、消えながら、(変な文章だなあ)、その傷に寄り添ってくれていた「自分」に「なる」のだ。
ここから、この詩はもういっぺん変わる。
魂が裂けるほどに負った
こころのきずも
風がゆらし 陽があたため
朝がおわるころ ふちから乾き
夕暮れ前には半分ほどになって
そうしてあとかたもなく消えてくれるといいのだけれど
毎日バンソウコウをとりかえ
消毒をして傷薬をたっぷりすりこめるといいのだけれど
血色もうすれ
えぐれたところはもりあがり等高線をえがいて平らになり
いつか
魂のかたちをとりもどせるといいのだけれど
「意味」が強くなり、ちょっとセンチメンタルかもしれない。
その「意味」をちょっとわきにおいておいて(と書くと、それは違う、と岡島に叱られるかもしれないけれど……)、ここにある「寄り添う」感じ、「魂」に寄り添う感じはなかなかいいなあ。
「こころ」とか「魂」と、それを「ゆび」とは違ったものとして見ることに、私は、ちょっと違った思いを抱くのだけれど。(まあ、これは書きはじめると長くなるし、訳がわからなくなるので、きょうは省略。)
岡島にとって、「ことば」はかさぶたのようなものかもしれない。書くことで、傷はかたまり、剥がれ落ちて、その剥がれ落ちたことばの奥から、つまり書かれなかったことばになって、岡島のこころの傷、魂のかたちは、回復するんだろうなあ。
それまで、ただ、ことばは、寄り添っているだけなんだろうなあ--と、わかったような、わからないようなことを感じた。わからないけれど、ただ寄り添っているときの、その寄り添ってくれているもののあたたかさに染まるのは気持ちが落ちつくもんだよなあ、と感じた。
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