詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

季村敏夫『ノミトビヨシマルの独言』(4)

2011-01-21 23:59:59 | 詩集
季村敏夫『ノミトビヨシマルの独言』(4)(書肆山田、2011年01月17日発行)

 「薄明」という作品。

置き忘れていったリュックサックを、引っ張りだした。梅雨の晴れ間を狙って、遺品整理をしていたときだった。うっすらと黴が生えたリュックサックは、変形し固まっていた。経帷子を羽織る、あの日の父のように。そのとき、かたわらの母は、ありし日の夫をおもっていたかどうか、ひとことも語らなかった。

死後硬直したリュックサックを逆さに振ると、小石が数個落ちてきた。つづいて砂粒がこぼれ、変色した紙が二枚舞った。足元から拾いあげると、ひとつは末尾に、癖のあるサインが走る書類であり、もう一枚は、リラについて書かれた植物図鑑の切れ端だった。

 2連目の「死後硬直した」という「比喩」は、1連目の「遺品」「経帷子」と呼応して比喩を超越していく。季村がやっている実際の行動はリュックサックを逆さにして振るという単純なことだが、それがまるで父のからだを揺さぶり、その奥から父の過去を引き出しているという感じがする。そして実際に、そこから父の過去があらわれてくる。小石、砂粒はいつまぎれこんだものか。父の歩いた道を想像させる。癖のあるサインは父そのものだが、その書類から季村が読みとることができるものはそれ以外にないかもしれない。リラの植物図鑑も同じである。断片しかわからない。そして断片しかわからないということが、季村を遠くへ連れていく。
 想像力。
 わからないことを想像しながら、そこで、季村は自分が知っていることを確かめる。想像力というのは不思議なもので、なんでも自由に想像できるわけではない。人間は知っていることしか想像できない--想像力といいながら、知っていることを確かめるだけなのだ。そして、その知っているということのなかには、「欲望」というと変だけれど、ひそかな「願い」のようなものが紛れ込む。

商社に勤めていた父の赴任先は満州国だった。リュックサックのなかの小石は、螢石の原石で、父は国境沿いにある鉱山との折衝係を担当していた。その頃、白い風をまとい、リラの梢をゆすって木戸をくぐる女がいた。中庭は、一瞬匂ったはずだが、すぐに静まりかえり、その後どのようにわすれられたのか。変色した図鑑の切れ端のなかで、リラの記述は干乾らびている。

 小石、砂粒がなんであるか、季村はほぼ正確に、知っている過去と結びつける。しかし、リラの花の記述はどうか。「木戸をくぐる女」。季村は、それを目撃したのか。してはいないだろう。その女は母ではない。父にそんな女がいた--と想像する。そこに、男の、というのではなく、人間の不思議な「欲望・願い・祈り」のようなものがある。ひとは、ひとをはみだしてしまう瞬間がある。それがあるから、生きる。
 季村の想像が正しいかどうかは、ほとんど問題ではない。詩にとっては。詩にとって、重要なのは、こういう「逸脱」こそが、想像力の「秘密」であるということだ。想像力の「本質」であるということだ。
 私たちは何かを想像する--「誤読」する。そのとき、その想像・誤読のなかには、人間の本質的な「欲望・願い・祈り」が入ってくる。想像・誤読することで、「本能」を発見する、自分のもっている「過去」を発見するといってもいい。
 季村の父に女(愛人)がいた、というのではない。いたかどうか、わかりはしないし、他人の父に愛人がいたかどうかを問題にしているのではない。また、季村の欲望のなかに「愛人」をもちたいという気持ちが含まれるというのでもない。そういう気持ちを、季村の父が、あるいは季村がもっているかではなく、人間というものは、好きなひとがいても別のひとを好きになるということがあり、それは何かしら、とても自然なことなのだ。そこには「自然」があるのだ。「過去の自然」--どんな規制にもしばられない「自由な自然」がある。そういうものを、想像力は発見してしまうのだ。
 この自然な欲望、自由な自然を発見することばの運動--そこにこそ、詩がある、と私は思う。詩のしなければならない仕事があると思う。

歪んだリュックサックのかたち。過ぎ去ったというが、なぜ物質が残り、痕跡として薄明に現れ出たのか。過ぎ去るという忘却のよろこび。だが、喪に服すること、遺品整理は酷薄である、これでは裁かれてしまうとおもったが、母は無造作に、小石と書類二枚を包みこんでしまった。

 「物質」を「ことば」、「痕跡」を「自然」(自由な自然--本能)と置き換えてみると、ことばと想像力、ことばと「過去」というものの関係が明確になるかもしれない。
 「物質(もの)」のなかに、「過去」がある。その「過去」を引っ張りだすのは「ことば」である。そして、ことばは「過去」を引っ張りだすふりをして(あるいは過去を引っ張りだしながら、同時に)、人間が生きるときの自然な欲望・願い・祈りを、そのことばのなかに注入する。
 ことばは残酷である。
 しかし、ことばは美しい。
 無言のなかで、ことばを遠ざけたところで、その「場」で、静かな安寧がある。「忘却のよろこび」がある。
 そして、その「忘却のよろこび」さえ、ことばは、ことばにしてしまうことで、そこにまた人間のいのちの「ひとつのかたち」を浮かび上がらせてしまう。
 苦しむこと、悲しむことさえ、美しい--悲劇は美しい、悲劇が感動を与えるのは、そのためだ。
 ことばをとおして、ことばになることによって、人間は美しくなるのだ。ことばは人間を美しくするのだ。

母は無造作に、小石と書類二枚を包みこんでしまった。

 この「無造作」の深さ。
 季村のこころのなかに、どんな思いが去来しているのか、わからない。私はただ、あ、美しいことばだ、美しい詩だ、とだけ書く。



わが標べなき北方に―詩集 (1981年)
季村 敏夫
蜘蛛出版社
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ロウ・イエ監督「スプリング・フィーバー」(★★)

2011-01-21 22:22:51 | 映画
監督 ロウ・イエ 出演 チン・ハオ、チェン・スーチェン、タン・ジュオ、ウー・ウェイ

 冒頭の蓮の花のシーン、そしてラストの主人公が首の傷を隠すために彫った入れ墨のシーン(肌と入れ墨の模様)は、なかなか美しい。特に、入れ墨は、人の行為は何かをあらわすためであるというより、何かを隠すためであるという「芸術観(人間観察)」はこの映画全体を象徴している。いちばん特徴的なのは、自殺する夫が恋人(男)を妻に紹介するシーンである。恋人であることを隠すために、友人として妻に紹介するのである。もう、男が恋人であるということはばれてしまっているのだが……。
 しかし、この人間観察は、映画のなかでは深まってゆかない。上滑りである。明かりの少ないざらざらした映像のなかで、やたら男と男のセックスシーンが多い。もっとほかにも描きようがあるのではないかと思うくらいセックスシーンに頼っている。「ブロークバックマウンテン」とは、そこが大きく違う。「ブロークバックマウンテン」はセックスからはじまり、純愛で終わるという、ふつうの恋愛とはまったく逆な過程を描いていて大変おもしろかったが、「スプリング・フィーバー」はセックスからはじまり、セックス後の空しさと、それについてまわる憎しみで終わる。まあ、これが「いま」の恋愛なのかもしれないが、なんとも救いがない。入れ墨の「花」は傷を隠すのではなく、結局、こころの苦い傷、入れ墨のようにけっして消えない傷をあらわす--というのでは、あまりにも「図式的」で退屈である。
 この映画で見るべきなのは、モンスーン気候の緑と雨(水)の織りなす美しい揺らぎかもしれない。春のやわらかな緑が、雨にぬれてますますやわらかくなる。細かい雨に、木々の緑のやわらかさが溶けだし、空気のなかで、いままでなかった何かに変わってしまうような不思議な美しさがある。
 しかし、冒頭の蓮の花は、なぜ、あんなプランターのようなところに蓮の花が咲いているのかという不自然さ、わざとらしさが残る。春の嵐のさなか、車から降りて、じゃれながら連れションするのもわざとらしい。美しいけれども、「わざと」がつきまとう。
 もちろん、詩というのは、一種の「わざと」によって生まれる。「わざと」表現されたものではない偶然は「詩」ではないのだから、「わざと」は「わざと」でいいのかもしれいなが……。
 そのときの美しさが、「長江哀歌」がすでにやりとげたことのコピーで終わっているから、「わざと」が目立つのである。ハンディカメラによる撮影がそっくりだし、暮らしの細部にカメラを近づけていくのも同じである。暮らしのなかの、存在そのものの生きてきた痕跡--その美しさ、生物の美しさは「長江哀歌」が撮りつくしている。これを超えるのは、中国における男色というような特異な題材では「わざと」が浮き立つだけである。

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