詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

石井萌葉「返り血アリス」、藤川みちる「this world」

2011-01-23 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
石井萌葉「返り血アリス」、藤川みちる「this world」(「ココア共和国」5、2011年01月01日発行)

 石井萌葉「返り血アリス」はことばが軽い。そして速い。もっともその速さは短距離競走のような速さではなく、肉体の中からあふれだしてくる若さによる速さである。歩きはじめると、楽しくて自然に足が速くなる。目的地も、歩く意味もわからない。けれど、自然に動いてしまう。そんな具合に、ことばを書くと、自然にことばが速くなる。

チェシャ猫まぁなんて貴方は
救いようの無い馬鹿なの
何時間、何千年こんな所に
居座ったってね
アタシの求める世界には
絶対にならないわ

真実を確かめる旅に出るの

嘘、誘惑。そんな話術は必要ないわ
毒、罠。そんな小細工はめんどうでしょう

 「チェシャ猫」から「アタシ」への移動がとても速い。猫を放り出して「アタシ」が動きはじめる。「アタシ」は猫じゃない。だから「こんな所」に居座ったりはしない。「旅」に出る。
 でも、どこへ?
 これは野暮な質問である。
 「旅」と決めたら、部屋を一歩出るだけで旅なのだ。それは幼い子供が「家出する」と思って少し遠い公園まで行って、それから帰ってくるのとおなじである。距離も場所も関係ない。「決意」だけが問題である。
 「決意」というのは、肉体の奥からあふれてくる自然な感情である。勢いのある感情のことである。
 「チェシャ猫まぁなんて貴方は/救いようの無い馬鹿なの」という2行は、猫に対する批判ではなく、「アタシ」は馬鹿にはならないわ、という「決意」、あふれる感情なのである。
 ここにはあふれる感情があるだけで、「意味」もない。
 --ということを書きはじめると、あ、なんだか、この詩を壊してしまうなあ。余分なことは書くまい。

血血返り血アリス
ドレスを染めて何処へ行くの
血血返り血アリス
足跡辿って着いてくうさぎ
血血返り血アリス
笑顔が可愛い気分屋少女
血血返り血アリス
アリスはきっと辿りつく

回る ラララ 彼女は
スキップしながら探してる
回る回る回る
ホントの自分を探してる

血血返り血アリス
垂れ目が可愛い我が儘少女
血血返り血アリス
誰よりも幸せの意味を知る
血血返り血アリス
探し物が見つからないの
血血返り血アリス
アリスはきっと辿り着く

 石井を動かしているのは、あふれてくる感情だけである。あふれてくることばだけである。あふれてくるから、それを前へ前へと放り投げる。「血血返り血アリス」ということばを放り投げる。
 「血血返り血アリス」ということばがどんな「意味」をもっているか、石井にはわからない。ただ、そのイメージが見える。実感できる。そしてことばになっている。だから、そのことばにぴったりする次のことばを探している。きっと、それは「真実」のことばとぶつかったとき、きれいな音を立てて、「これが真実だよ」と教えてくれるはずである。そういう「音」に出会うまで、石井と「血血返り血アリス」を前へ前へと放り投げて進む。
 「旅」とは、ぴったりくることばを探して動くことなのだ。「真実」とはぴったりくることばなのだ。いまのところ石井には「血血返り血アリス」ということばだけが「真実」なのである。
 だから何度でも、その唯一信じられる「真実」を前の方に放り出して、そのことばについていく。そうすると、次のことばが「アタシ」の進んだ道のわきから追いかけてくる。そして、その追いかけてくることばのなかにある何かが、また、「血血返り血アリス」ということばを前へ前へと放り投げるときの力になる。

回る回る ラララ 彼女は
深い森の中で探してる
回る回る ラララ 彼女は
やっと見つけた

地面に小さな人影
その首にナイフを突き刺すと
アリスは驚いた
何千人何万人もの人を殺めて
やっと見つけた探し物
それは

--血まみれドレスを着た

アリス--

でもいいの。アリスはずっと求めてた。
本当の姿がどうであっても
アリスにとっては 最高の終わり方。

 最後の方は、ことばが失速する(「血血返り血アリス」がまるで、父帰り、その父をナイフで刺してみたら、自分自身を刺してしまった、そこには血まみれの自分の「人形」があった--という「オチ」を想像させる)が、「でもいいの。」と石井は書く。確かにどうでもいいのだ。「求めていた」ということだけが、ことばにとって必要なことだからである。



 ことばを前へ放り投げて、それを追いかけて進む--ということばの運動は、藤川みちる「this world」にも共通する。

生かすも殺すも
自由自在な神様は
その時居眠りでも
してしまったんだろう

筆先から
滲んだink が
紙の上に
小さな染みを作った

それはきっと
accident
けれどきっと
destiny

ちいさなbug は
増幅し繁殖しながら
新しい秩序を
生み出していく

僕らのstory
可能性はinfinyty
ならばこの手で
変えてしまおう

this world!

 何度か出てくる英語がとてもおもしろい。
 そこに書かれている英語は、藤川にとっては石井の「血血返り血アリス」である。「知っているけれど知らないことば」である。「音」があって、それから「意味」をこめる。たとえばaccidentに「事故」、destiny に「運命」。「意味」をこめながら、しかし、同時に「意味」を剥奪する。藤川がそれまで知っていた「事故」や「運命」とは違った何かを、その「音」のなかに探す。その「音」が別の「音」とぶつかって、新しい音を引き出し、そこから探している「意味」があらわれるといいのになあ--と、ここにないものを探しながらことばが動く。

 ことばを自分の前に放り投げる。そして、それを追いかける。あとから「意味」が生まれるかもしれない。生まれないかもしれない。「でもいいの。」動いていくことが詩の唯一の目的であり、存在理由なのだから。


季刊ココア共和国vol.5
秋 亜綺羅,藤川 みちる,石井 萌葉
あきは書館
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誰も書かなかった西脇順三郎(170 )

2011-01-23 15:08:35 | 誰も書かなかった西脇順三郎
 『えてるにたす』。「菜園の妖術」のつづき。

多摩川から梨をもつてきてくれた
女のくつしたのなま白い
秋のすみれの香りにもまさる
このくだものの露のつめたい
出世が出来ない男が宮人のまねして
沼のほとりをひとりで歩いている

 行と行とのつながり具合がよくわからない。詩だから、「意味」がきちんと成り立たなくてもいいのだろうけれど……。梨(くだもの)、女、男、沼が断片的に思い浮かぶ。男が「沼のほとりをひとりで歩いている」という1行の「ほとり」「ひとり」の音は、「ほとり」というものは「ひとり」で歩かないといけないのだ、という気持ちを呼び起こす。そして、その前に「女」と「宮人」が登場するからかもしれないが、私は「ほとり」のなかに「ほと(陰)」を読んでしまう。女の陰部。「沼」が、そのまま「ほと」でもあるような感じがするのである。
 この「ほと(陰)」呼び覚ますものに、2行目がある。「女のくつしたのなま白い」。これは、ほんとうに女の靴下を描写しているのかどうかわからない。梨の果肉の色が「くつしたのなま白い」色に似ているというイメージに受け取れないことはないけれど、「なま白い」の「なま」の音がいろいろとスケべこころを刺激するのである。
 この行自体は、つく「し」た、なま「し」ろいという音のつながりによって成立しているのだが、そこに「なま」が入ってくることで、「女」が「なま」めかしくなる。そして、それが「ほと(陰)」につながる。
 「このくだものの露のつめたい」というのは、ふつうなら「露」ではなく「汁」(果汁)だと思うが、「つ」ゆによって、「つ」めたいが自然に動く。そして、その「つめたい」はなんとなく、「なま」めかしい「女」の、「なま」めかしいくせに「つめたい」感じを浮かびあがらせる。それとも、「女」は「つめたい」ことによって、男には「なま」の欲情をそそるのか、めざめさせるのか……。
 女がいて、男がいて、そして、そこにはセックスは存在しない。そのとき「ひとり」が浮き彫りになり、その「ひとり」がいろいろと妄想を誘ってくれる。
 --こんなふうに読みながら、遊んでしまうのは、私だけかもしれないが……。

 そして、このあと。

葦のなかでかいつぶりがねずみを追つている
「身分のひくい」女がひしをとつている

 これは「沼」の描写かもしれないが、「身分のひくい」ということばが強烈である。「宮人」(男)と「身分のひくい」女の対比が、私が先に書いた妄想をばっさり切り捨てる。
 「宮人(男)」と「身分のひくい」女がセックスをしてはいけないというのではないが、「宮人」ということばと「身分のひくい」ということばが、それまでのことばのなかに、「接続」ではなく「断絶」を持ち込む。
 この「断絶」の挿入(乱入?)を、私はとても美しいと感じる。
 この美しさは--一種の爆発である。爆発の瞬間、「空間」がかわる。「空気」がかわる。爆発とは、空気(空間)そのものの変化なのだ。
 この「断絶」と、それにともなう激しい「空気」の変化。このなかに、西脇が頻繁に書いている「淋しい」があると、私は感じている。
 異質なものが出会う瞬間、それまでの「空気」ががらりとかわる。そういう劇的な変化をもたらしてくれる「存在」。その存在(もの)に淋しさがあり、淋しさだけが、世界を変えうるのだ。





野原をゆく (1972年) (現代日本のエッセイ)
西脇 順三郎
毎日新聞社

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