田原『谷川俊太郎論』(2)(岩波書店、2010年12月10日発行)
第2章「詩歌の翻訳論的考察--谷川詩の検証を通して」には、実際の中国語訳が載っていておもしろい。--といっても、私は中国語を理解しないから、田原の説明を読んで、あ、おもしろいなあと思っているのだが。
「無題」という詩では、田原は、孫佃の訳と田原の訳を比較している。
という部分で、田原と孫の訳は大きく異なっていると、田原は書いている。
私は何の疑問も持たず「転ぶ」を(つまずいて)転んだと思っていたので、孫の「地べたで転げまわっている」ということばに驚いてしまったのだが……。うーん。この「転げまわっている」というのはどういう意味だろう。田原の説明ではわかりにくい。倒れたのではなく、わざとごろんごろんとやるのも「転げまわる」である。遊ぶのも「転げまわるである」。「転げまわる」は「転ぶ+まわる」なのかなあ。よくわからないが、「日本語」の場合、たぶん「転ぶ」よりも「まわる」に重点がある。「まわる」は繰り返しである。だから、そこから「遊ぶ」という印象が生まれる。(もちろん、苦しんで「転げまわる」もあるけれど、そういうときは「のたうちまわる」の方がぴったりくるかなあ。どちらにしろ「まわる」には繰り返しがある。)
なぜ、孫は「まわる」ということばをつけくわえたのだろう。(中国語でも、「まわる」であるかどうか、私には判断できないが。)もしかすると、そこには「まわる=繰り返し」という意味があるのかなあ。もしそうだとすると、「飽く」と「繰り返し」が深いところで微妙に呼び掛け合う--なんだか、見てはいけないものを見てしまったように、変な印象を残して、なのだが……。
こんな気持ちになるのは、私にとって「転ぶ」というのは、「一瞬」のこと、繰り返さないことだからである。「転ぶ」は、転んだままではなく、立ち上がるを含んでいる。反対の動きを含んでいる。
もし私が中国人なら(ではなく、中国語ができるなら)、私は「仔犬はつまずいて転んだ」ではなく、「仔犬は転んだあと立ち上がった」と翻訳するかなあ……。転ぶのは「つまずいて」が当たり前なので、わざわざ付け足す気持ちにならないのである。転んだら立ち上がるも、まあ、付け足しだけれど……。
と書いてみると、不思議だなあ。中国語は、とても「しつこい」。「意味」をつくりだしていくことばなのだ、という気がしてくる。「転ぶ」と、ただ、それだけでいいじゃないか、といいたくなる。
何かが違うんだね。その違いが、これは真剣に考えるとおもしろいぞ、という感じにさせる。--だからといって、私は、それ以上は追究しないのだけれど。
「かっぱ」について書いていることもおもしろかった。
この詩について、田原は次のように書く。
この部分を読んで、あ、私が谷川に読んでいるものと、田原が谷川の詩に読んでいるものはまったく違うものだと気がついた。
「意味」。「意味」の概念がまったく違う。
「意味」は私にとって「音」である。「かっぱ」も「らっぱ」も「なっぱ」も、それぞれに「意味」はない。「もの」を指し示しているようだが、何も指し示さない。全部が「意味」(もの)でなくなると、さすがに困るけれど、私はこの詩では「かっぱ」という架空の動物を思い描くだけである。かっぱの動きを思い描くだけである。
「意味」ということから逆に言いなおすと……。
たとえばかっぱがリンゴをかっぱらう。あるいは魚を買う。そうだとしても、谷川はかっぱは「らっぱ」をかっぱらったと書くだろう。「なっぱ」をかったと書くだろう。
「かっぱ」「らっぱ」「なっぱ」「いっぱ」という「音」そのものが「意味」なのだ。それは「もの」を指し示さない。「もの」には「意味」はない。ただ「音」だけが「意味」を持っている。だからこそ「とってちってた」という「らっぱ」の「音」が書かれる。「音」が一番の「意味」なのだ。
どういう「意味」か。
この「音」は気持ちがいい。この「音」を「声」に出すと、「肉体」がよろこぶ--そういうよろこびを浮かび上がらせる「意味」、よろこびを誘う「思想」。
「音」のよろこび、「音」からはじまる感性の動き--それが「思想」なのだ。谷川の「思想」なのだ、と、私は田原の文章に触れることで、はっきりと感じることができた。
*
今月のおすすめベスト3。
季村敏夫『ノミトビヨシマルの独言』
榎本櫻湖「散文と任意の器楽のための協奏曲《絶叫する文字で描かれた三連画》」
長谷川龍生「倦怠」
第2章「詩歌の翻訳論的考察--谷川詩の検証を通して」には、実際の中国語訳が載っていておもしろい。--といっても、私は中国語を理解しないから、田原の説明を読んで、あ、おもしろいなあと思っているのだが。
「無題」という詩では、田原は、孫佃の訳と田原の訳を比較している。
私は飽いた 仔犬は転ぶ
私は飽いた 日日の太陽
私は飽いた 赤いポストの立つているのに
という部分で、田原と孫の訳は大きく異なっていると、田原は書いている。
彼は「仔犬は転ぶ」を「仔犬が地べたで転げまわっている」という旨の中国語に訳しているが、拙訳では「つまずいて転んだ仔犬」となっている。自分としては原詩への理解や翻訳に十分な自信を持っていたが、疑問を抱えたまま日本にもどった。その晩谷川に電話をかけて確認してみた結果、拙訳が原作の表現しようとするものを翻訳できていること、つまり拙訳がより原作者の意図に近いことがわかった。
私は何の疑問も持たず「転ぶ」を(つまずいて)転んだと思っていたので、孫の「地べたで転げまわっている」ということばに驚いてしまったのだが……。うーん。この「転げまわっている」というのはどういう意味だろう。田原の説明ではわかりにくい。倒れたのではなく、わざとごろんごろんとやるのも「転げまわる」である。遊ぶのも「転げまわるである」。「転げまわる」は「転ぶ+まわる」なのかなあ。よくわからないが、「日本語」の場合、たぶん「転ぶ」よりも「まわる」に重点がある。「まわる」は繰り返しである。だから、そこから「遊ぶ」という印象が生まれる。(もちろん、苦しんで「転げまわる」もあるけれど、そういうときは「のたうちまわる」の方がぴったりくるかなあ。どちらにしろ「まわる」には繰り返しがある。)
なぜ、孫は「まわる」ということばをつけくわえたのだろう。(中国語でも、「まわる」であるかどうか、私には判断できないが。)もしかすると、そこには「まわる=繰り返し」という意味があるのかなあ。もしそうだとすると、「飽く」と「繰り返し」が深いところで微妙に呼び掛け合う--なんだか、見てはいけないものを見てしまったように、変な印象を残して、なのだが……。
こんな気持ちになるのは、私にとって「転ぶ」というのは、「一瞬」のこと、繰り返さないことだからである。「転ぶ」は、転んだままではなく、立ち上がるを含んでいる。反対の動きを含んでいる。
もし私が中国人なら(ではなく、中国語ができるなら)、私は「仔犬はつまずいて転んだ」ではなく、「仔犬は転んだあと立ち上がった」と翻訳するかなあ……。転ぶのは「つまずいて」が当たり前なので、わざわざ付け足す気持ちにならないのである。転んだら立ち上がるも、まあ、付け足しだけれど……。
と書いてみると、不思議だなあ。中国語は、とても「しつこい」。「意味」をつくりだしていくことばなのだ、という気がしてくる。「転ぶ」と、ただ、それだけでいいじゃないか、といいたくなる。
何かが違うんだね。その違いが、これは真剣に考えるとおもしろいぞ、という感じにさせる。--だからといって、私は、それ以上は追究しないのだけれど。
「かっぱ」について書いていることもおもしろかった。
かっぱかっはらった
かっぱらっぱかっぱらった
とってちってた
かっぱなっぱかった
かっぱなっぱいっぱかった
かってきってくった
この詩について、田原は次のように書く。
行頭の多くが「ka」という頭韻で始まり、そして「ta」という脚韻で終わる。そのうえ、詩句自体のリズムの跳躍も作品に抑揚をつけ、日本語で朗読すると明朗で爽快に聞こえ、押韻の醍醐味を味わうことができる。しかし中国語に翻訳する場合は、同じようにできない。無理矢理に原詩の意味を訳出することはできるが、その韻律までもはどうしても訳出できないのである。
この部分を読んで、あ、私が谷川に読んでいるものと、田原が谷川の詩に読んでいるものはまったく違うものだと気がついた。
「意味」。「意味」の概念がまったく違う。
「意味」は私にとって「音」である。「かっぱ」も「らっぱ」も「なっぱ」も、それぞれに「意味」はない。「もの」を指し示しているようだが、何も指し示さない。全部が「意味」(もの)でなくなると、さすがに困るけれど、私はこの詩では「かっぱ」という架空の動物を思い描くだけである。かっぱの動きを思い描くだけである。
「意味」ということから逆に言いなおすと……。
たとえばかっぱがリンゴをかっぱらう。あるいは魚を買う。そうだとしても、谷川はかっぱは「らっぱ」をかっぱらったと書くだろう。「なっぱ」をかったと書くだろう。
「かっぱ」「らっぱ」「なっぱ」「いっぱ」という「音」そのものが「意味」なのだ。それは「もの」を指し示さない。「もの」には「意味」はない。ただ「音」だけが「意味」を持っている。だからこそ「とってちってた」という「らっぱ」の「音」が書かれる。「音」が一番の「意味」なのだ。
どういう「意味」か。
この「音」は気持ちがいい。この「音」を「声」に出すと、「肉体」がよろこぶ--そういうよろこびを浮かび上がらせる「意味」、よろこびを誘う「思想」。
「音」のよろこび、「音」からはじまる感性の動き--それが「思想」なのだ。谷川の「思想」なのだ、と、私は田原の文章に触れることで、はっきりと感じることができた。
*
今月のおすすめベスト3。
季村敏夫『ノミトビヨシマルの独言』
榎本櫻湖「散文と任意の器楽のための協奏曲《絶叫する文字で描かれた三連画》」
長谷川龍生「倦怠」
水の彼方 ~Double Mono~ | |
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