詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

望月遊馬「雨季」

2011-01-29 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
望月遊馬「雨季」(「ガニメデ」50、2010年12月01日発行)

 望月遊馬「雨季」には「意味(ストーリー)」が書かれているのかどうか、わからない。

雨季には、

着丈のみじかい腕のながさに、さらに縫い足した路線のながさ
が、あまりに鮮やかで、「手は北へむかうといったでしょう」

スケッチブックには、けむりをだしながら路を行く、白い断片、

 「手は北へむかうといったでしょう」が何のことかわからない。手って、どこかへ向かう? 手だけがどうして動く? 北へ向かうとしたらだれかが(人間が)向かうのであって、手はその人間の肉体の一部でしょ? 馬鹿な私は混乱する。
 一方、「縫い足した」ということばの中の「足」が奇妙に印象に残り、望月のことばを引用して言えば「足」が「あまりに鮮やか」なので、「足」と対になるのは「手」だよなあ。「足」が北へ向かうではなく「手」が向かうというのは、変になまなましくていいなあ、と思うのである。
 「誤読」してしまうのである。
 「誤読」のなかで、腕の短い服(ズボンも丈が短いかもしれないなあ)や、そこからはみ出した手足、雨季のために濡れた線路や、なんだかさびしいようなものか断片的に浮かんでくる。

読みあげられる 肌に打つ雨のこと スリッパにはおもかげの
ある鏡が映り 雨季だからと 手のなかには慕われてしまう眼
のない小箱がひそやかに すすんでいる

 なんだろうなあ。「スリッパにはおもかげのある鏡が映り」は望月には申し訳ないが、鏡にスリッパが映っている記憶の映像となるし、「手のなかには慕われてしまう眼のない小箱」は私には、眼球をしまいこんだ小箱を大事にかかえている手となって見えてくる。望月の書こうとしているものがなんであるか--ということよりも、私自身の抱え込んでいる「記憶」が望月のことばで誘い出されてくるような感じなのである。

「もう、気づけないことがある」

 あ、そうなんだなあ。自分ではもう気づくことができないことがある。だから他人のことばを読む。そして「誤読」する。「誤読」しながら、気づく。それは気づかなくてもいいことなのかもしれないけれど……。
 詩とは、固まってしまった現実を「断片化」し、その断面に何かを映し出す装置のことかもしれない。



キョンシー電影大全集 -キョンシー映画作品集-
田中 克典,望月 遊馬,長田 良輔
パレード

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誰も書かなかった西脇順三郎(175 )

2011-01-29 13:17:27 | 誰も書かなかった西脇順三郎
 『えてるにたす』。「菜園の妖術」のつづき。
 西脇が「視覚」ではなく「聴覚」の詩人であることは、次の部分がより明瞭に証明しているかもしれない。

ごろごろいう幻像も
曲つた錯覚も
考える心のはてに
きいてしまつた

 「見てしまつた」ではなく「きいてしまつた」。
 「幻聴」なら「ごろごろいう」かもしれない。しかし「幻影」は目にみえるものだから「ごろごろいう」ことなどない。そういう音をともなわないものさえ、西脇は音をともなったものとして書いている。また「曲つた」は「幻影」同様、やはり視覚で判断するものである。それも「きいてしまつた」ということばが引き受ける。目で見たもの、耳できいたもの、それが交錯し、認識(考え)はできあがるのだけれど、その認識を統合するのは、西脇の場合「視覚」(見る)ではなく、聴覚「聞く」なのである。「考える心のはてに」その「考え」を「聞く」という肉体の動きが残るのである。

幻影よまつてよ
このツワブキの花を
びんにさすまで
オドリコソウのおどろきは
おどろの下でひよどりの
おとす糞を待つている

 この「しりとり(?)」を動かすのも、また音である。

 一方、西脇はたしかに「視覚」も書いている。「見る」についても書いている。

永遠という光線を通してみる
とすべてのものは透明になつて
みえなくなるわ
この赤い薔薇の実も
あの女のボウツ派のボートの帽子も
永遠という水の中で
すべて屈折してみえる
すべての色はうすくなる

 ここには「視覚」が強烈に描かれている。しかし、そういうときでも「ボウツ派のボートの帽子も」という音が飛びこんできて「意味」をひっかきまわす。また突然の「みえなくなるわ」という女ことばの音が「肉体」をくすぐる。
 私はどうしても西脇の「音」の方にひっぱられてしまう。音のなかには「考え(認識)」にならないもの、もっと生な現実の「手触り」のようなものがあるのかもしれない。これはもしかすると、西脇は「音」に対しては「絵(視覚)」に対してほど洗練されていなかったということかもしれない。(西脇の描いた「絵」はどこかで見たことがあるが、西脇が歌った「歌」とか演奏した「曲」、あるいは作曲した「音楽」というものを、私は知らない。--洗練されていないというのは、音を「音の芸術」としてつくりだしていないという意味である。)
 「音」は野蛮で、認識からとおい。(かけすが鳴いてやかましい--認識を破るものが音なのである。)それは、次の部分にも書かれている。

無は永遠の存在だ
永遠に存在するものは無だけだ
永遠にやるせない音を残して
女は便所からもどつてまた
帽子をかぶつたまま
そうつづけている

 「永遠」談義を破る「音」。「便所」の「音」。ああ、いいなあ、このリアリティー。「認識」を笑い飛ばす「肉体」。





続・幻影の人 西脇順三郎を語る
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