望月遊馬「雨季」(「ガニメデ」50、2010年12月01日発行)
望月遊馬「雨季」には「意味(ストーリー)」が書かれているのかどうか、わからない。
「手は北へむかうといったでしょう」が何のことかわからない。手って、どこかへ向かう? 手だけがどうして動く? 北へ向かうとしたらだれかが(人間が)向かうのであって、手はその人間の肉体の一部でしょ? 馬鹿な私は混乱する。
一方、「縫い足した」ということばの中の「足」が奇妙に印象に残り、望月のことばを引用して言えば「足」が「あまりに鮮やか」なので、「足」と対になるのは「手」だよなあ。「足」が北へ向かうではなく「手」が向かうというのは、変になまなましくていいなあ、と思うのである。
「誤読」してしまうのである。
「誤読」のなかで、腕の短い服(ズボンも丈が短いかもしれないなあ)や、そこからはみ出した手足、雨季のために濡れた線路や、なんだかさびしいようなものか断片的に浮かんでくる。
なんだろうなあ。「スリッパにはおもかげのある鏡が映り」は望月には申し訳ないが、鏡にスリッパが映っている記憶の映像となるし、「手のなかには慕われてしまう眼のない小箱」は私には、眼球をしまいこんだ小箱を大事にかかえている手となって見えてくる。望月の書こうとしているものがなんであるか--ということよりも、私自身の抱え込んでいる「記憶」が望月のことばで誘い出されてくるような感じなのである。
あ、そうなんだなあ。自分ではもう気づくことができないことがある。だから他人のことばを読む。そして「誤読」する。「誤読」しながら、気づく。それは気づかなくてもいいことなのかもしれないけれど……。
詩とは、固まってしまった現実を「断片化」し、その断面に何かを映し出す装置のことかもしれない。
望月遊馬「雨季」には「意味(ストーリー)」が書かれているのかどうか、わからない。
雨季には、
着丈のみじかい腕のながさに、さらに縫い足した路線のながさ
が、あまりに鮮やかで、「手は北へむかうといったでしょう」
スケッチブックには、けむりをだしながら路を行く、白い断片、
「手は北へむかうといったでしょう」が何のことかわからない。手って、どこかへ向かう? 手だけがどうして動く? 北へ向かうとしたらだれかが(人間が)向かうのであって、手はその人間の肉体の一部でしょ? 馬鹿な私は混乱する。
一方、「縫い足した」ということばの中の「足」が奇妙に印象に残り、望月のことばを引用して言えば「足」が「あまりに鮮やか」なので、「足」と対になるのは「手」だよなあ。「足」が北へ向かうではなく「手」が向かうというのは、変になまなましくていいなあ、と思うのである。
「誤読」してしまうのである。
「誤読」のなかで、腕の短い服(ズボンも丈が短いかもしれないなあ)や、そこからはみ出した手足、雨季のために濡れた線路や、なんだかさびしいようなものか断片的に浮かんでくる。
読みあげられる 肌に打つ雨のこと スリッパにはおもかげの
ある鏡が映り 雨季だからと 手のなかには慕われてしまう眼
のない小箱がひそやかに すすんでいる
なんだろうなあ。「スリッパにはおもかげのある鏡が映り」は望月には申し訳ないが、鏡にスリッパが映っている記憶の映像となるし、「手のなかには慕われてしまう眼のない小箱」は私には、眼球をしまいこんだ小箱を大事にかかえている手となって見えてくる。望月の書こうとしているものがなんであるか--ということよりも、私自身の抱え込んでいる「記憶」が望月のことばで誘い出されてくるような感じなのである。
「もう、気づけないことがある」
あ、そうなんだなあ。自分ではもう気づくことができないことがある。だから他人のことばを読む。そして「誤読」する。「誤読」しながら、気づく。それは気づかなくてもいいことなのかもしれないけれど……。
詩とは、固まってしまった現実を「断片化」し、その断面に何かを映し出す装置のことかもしれない。
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