詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

三角みづ紀『はこいり』

2011-01-05 23:59:59 | 詩集
三角みづ紀『はこいり』(思潮社、2010年10月25日発行)

 三角みづ紀『はこいり』は、世界に対して自己を閉ざした詩集である。--と、簡単に言ってしまってはいけないのだろうけれど……。
 ただ、自己を閉ざす、世界から自己を切り離すといっても、なかなかむずかしい。

 私は網膜剥離で手術を受けた経験がある。そのとき友人が、こんなことをいった。「ヘレン・ケラーが、もし、目と耳と口のどちらかが回復するならと問われたとき、なんと答えたと思う?」。私は即座に「耳」と答えた。私は失明するかもしれないと不安だったにもかかわらず、耳が聞こえないと困るなあと思った。友人が「ヘレン・ケラーも耳と答えている」。
 私は音痴だし、ふつうの会話でも最初の音(ことばの初めの音、冒頭の音)が聞き取れないことが多い。それでも私は耳で聞かないことにはことばを理解できない。音を聞かないと意味を理解できない。
 耳というのは、目、口と違って自分では閉ざすことができない(手を使えば別だが)。それは、無意識のうちに何かを聞き取る--ということも関係しているかもしれない。無意識のうちに理解しているものを、ことばでもういちど確認し直す--それが、ことばなのかなあ、とふと思ったのだ。

 と、長い前置きになったが。
 「百舌」。この詩に私はとても親近感を覚えた。

まなざしを捨てた、朝

浴室の鏡が割れる
ほどの戦争のあと
耳だけがのこった
きこえるものは
汽笛と、
たちのぼる湯気

 これは、男と大喧嘩(鏡が割れるほどの喧嘩--あるいは鏡に肉体の変化が映るほどの喧嘩)をしたあと、ひとりでシャワーをあびている様子かもしれない。目を閉じて、何も見ないと決めている。そうすると、湯気の音が聞こえる。それは遠い汽笛、記憶の汽笛の音と重なり、三角を「いま」「ここ」から「過去」の「どこか」へ連れていく。
 耳は--音は、三角を救ってくれる大切な肉体である。
 一方、耳は残酷でもある。

「十年なんてあっというまだったね」
おとこは
三ヶ月前とおなじ声で
つぶやいた
確かに
この十年は三ヶ月の速度で
ながれた

 「おなじ声」。三角は「おなじことば」ではなく「おなじ声」と書いている。「ことば」ではなく、「声」に「意味」を感じているのだ。「ことば」にも意味があるが、「音」にも意味があり、それを感じているのだ。その意味は、ことばでは言い表すことができない。そして、その言い表せない意味が、「おなじ」ということ、その繰り返しのなかで、「十年」と「三ヶ月」を重ね、隔たりをなくしてしまう。「十年」と「三ヶ月」は違うものなのに「おなじ」になってしまう。

 また、耳は不思議な能力を持っている。

花を活けるときには
くきをななめに切りなさい
枝を切るときには
断絶なさい
むやみに
花なんて咲かせてたまるか

のこされた耳は
ききのがさずに

 耳は「花を活けるときには/くきをななめに切りなさい」という「声」を聞きながら、同時に「むやみに/花なんて咲かせてたまるか」という「声」を聞いている。「花を……」は生け花の先生の声、「むやみに……」は三角自身の声であるだろう。違ったものを同時に、聞こえるものと聞こえないもの(実際には声には出されなかったもの)を同時にとらえてしまう。
 それは、たとえば「十年なんてあっていうまだったね」という「おなじ」ことばを発しながらも、そこに「別の声」が存在することをも意味しないだろうか。三角は「おなじ声で」と書いていたが、それは「違う声」である可能性もあったのだ。
 「声」のなかには、意味ではなく、意味を超えたもの、色合いがある。感情がある。「おなじ声」とは「おなじ感情」、おなじいらだち、おなじあきらめ--そいういう三角を苦しめる何かであるのかもしれない。
 耳はひとつの「音」(声)を聞きながら、常に、それを何かと比較しているのかもしれない。自分のなかにある何か、肉体のなかにある何かと比較しながら、自己と他者の間の距離を計っているのかもしれない。その距離には「十年」「三ヶ月」のように時間もあれば、「花を活ける」「花なんか咲かせてたまるか」という意識の距離もある。
 そういう測定を無意識におこない、自己と他者の関係をみつめなおす。耳にはそういうことができるが、目は--よくわからないが、たぶん、そういうことはできない。目の受け取る情報が多すぎるのかもしれない。耳の方が集中できるのかもしれない。耳の方が「関係」を把握しやすく、そして、またその「関係」を自己の「肉体」のなかに隠したまま、他者と接することができる--そういうことができるのかもしれない。自分の中の「声」を聞くのは自分だけであり、他人には聞こえない。他者の声と自分の声、その音を比較しながら、自分のなかで独自に「距離」をつくることができる。そういうことをするためにも、耳は絶対必要なのだ。

耳元で
たちのぼる湯気の
おとがして
わたしなんて
もっと生きればいい

 ここには「むやみに/花なんてさかせてたまるか」という「声」とはまた別の「自分の中の声」がある。耳は、他者と自分の声を同時に聞くだけではなく、また、自分のなかの声にもいくつもの声があることを同時に知り、同時にそれを聞くのである。
 耳は、そういう自分のなかにある「別の声」を遮断することもできない。これは自分の外部の声(音)なら手で耳をふさげば聞こえなくすることができるのとは対照的である。そのことを知っているというのは、三角にとって、強みであり、また苦しみである。耳を選び取ったものの悲しみであり、美しさでもある。

 うまく比較できないが(うまく説明できないが)、この耳と、三角の目(視力)を次の詩で比較できるかもしれない。「まちがいさがし」。

信号の点滅。
赤だったら
赤だったら赤だったら
赤だったらなあ!
赤だったらよかったのになあ!
赤だったらなあ!
赤だったら赤だったら


 耳はひとつの音を聞きながら「おなじ音」を聞くことも、違った「声」を聞くこともできる。けれど、目は、いまそこにある「色」しか見ることができない。
 もちろん信号の「赤」を見ながらトマトの赤を見ることができる人もいるだろうけれど、三角は「たちのぼる湯気」の音のなかに「汽笛」をきいたような具合には、「赤信号」のなかに「トマト」を見ることはできない。
 視力(目)では、関係をつくれない--肉体のなかに、納得できる関係を抱え込めないということが、ここから推測できる。「百舌」のなかで「鏡が割れる」と視力(目)に密接な鏡の破壊が描かれているのは、それがある意味では不幸ではなく、三角にとっては救いだからである。鏡が割れたからこそ、三角は耳により集中できたのだ。集中した結果、「たちのぼる湯気」と「汽笛」の「音」を「おなじ音」として肉体のなかに取り込み、そこに「記憶」を、記憶が抱え込む「人間関係の距離」を抱きしめることができた。でも、いまは、目が信号の「赤」をみつめているので、それができない。

わたしたちには
理由があります
わたしたちにはそれぞれ
事情があります
こわい

 耳は三角を落ち着かせ、安定させる。「花なんて咲かせてたまるか」「もっと生きればいい」というような一見矛盾しているようなことでさえ、肉体のなかで「納得」できるものになる。けれど、目は、そういう「納得」となって肉体のなかには広がらない。

こわい

 このひとことは、とても切実である。
 ひとは、耳、目、口のどちらかを選択して生きるというようなことはできないのである。耳も目も口も生きなければならない。




はこいり
三角 みづ紀
思潮社


人気ブログランキングへ
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

スティーブン・フリアーズ監督「わたしの可愛い人―シェリ」(★)

2011-01-05 22:31:47 | 映画
監督 スティーブン・フリアーズ 出演 ミシェル・ファイファー、ルパート・フレンド、キャシー・ベイツ

 感想を思いつかないくらい退屈な映画だった。キャシー・ベイツは、若いころミシェル・ファイファーの好敵手の高級娼婦だったという設定だが、キャシー・ベイツの方が美人に見えてしまうくらい私はミシェル・ファイファーが嫌いなのであった。
 ミシェル・ファイファーがルパート・フレンドに夢中になるのは若い男だからだろうか。美男子だからだろうか。そして、ルパート・フレンドがミシェル・ファイファーに夢中になるのはなぜだろうか。母親と同じ年代の、引退寸前(引退した?)高級娼婦のどこがいいのだろうか? セックスの手管? なんでも買ってくれるから? 理由がぜんぜんわからない。それがどんな理由であれ、ふたりが相手に溺れる理由がわかればおもしろくなるだろうけれど、なんにも伝わってこない。
 クライマックスは、ミシェル・ファイファーがパリに帰って来て、そこへルパート・フレンドが押しかけるシーンだけれど、台詞ばっかりなので私は眠ってしまった。



シェリ (声に出して読む翻訳コレクション)
コレット
左右社

人気ブログランキングへ
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

誰も書かなかった西脇順三郎(167 )

2011-01-05 10:02:28 | 誰も書かなかった西脇順三郎
誰も書かなかった西脇順三郎(167 )

 『豊饒の女神』のつづき。「最終講義」。

けやきの木がまたかれている
先生の窓に梨色のカーテンがかかっている死の床の上で
なければタバコを
すわないと叫んでみても
やはりあの古いネツケがすいたい

 岡井隆が『詩歌の岸辺で』で平田俊子の詩に就いて書いている。平田は最初から最後まで計算されつくした上で書かれたものというよりも漠然とした感覚で書きすすめるタイプではないのか、と推測している。
 西脇はどうだろう。私には、西脇も漠然とした感覚で書きすすめるタイプだと思う。漠然とした感覚で書きすすめるだけではなく、書きまちがい(?)というか、書いている途中で気が変わったら、それはそのとき、前に書いたことを書き改めるのではなく、そのまま残して次へ進んでいくタイプではないかと思う。
 この書き出しには、特にそういう印象がある。何を書くか--それはまだ明確になっていない。「けやきの木」と「先生の窓」の関係は西脇のなかで決まっているわけではない。「けやきの木」は「先生」の部屋へ行く途中で見たものか。あるいは、「先生」の部屋から窓越しに見えるものか、決まっていない。「決まっていない」というのは変な言い方だが、西脇はどちらの意味と決めてそのことばを書いているのではないということだ。西脇が「体験した事実」と「ことば」は別のものなのである。西脇の「現実」と「ことば」は別のものであり、西脇は「ことば」を優先させて「現実」をつくっているのである。
 最初から最後までを計算しつくして詩を作り上げるのではなく、ことばを動かしてみて、その動きにしたがって詩を先行きをまかせる--そういう詩人だと思う。

先生の窓に梨色のカーテンがかかっている死の床の上で

は、「学校教科書」の「文法」では「先生の窓に梨色のカーテンがかかっている」でいったん終わって、「死の床の上で」は別のことばと1行をつくるべきものだろう。しかし、西脇はそれを1行にしてしまう。なぜか。

けやきの木がまたかれている
先生の窓に梨色のカーテンがかかっている

 これでは1行目と2行目が「対句」になってしまう。「いる」「いる」と脚韻を踏んでしまう。そして、こんな言い方が正しいかどうかわからないが、「対句」になることでことばがことばであることをやめて「現実」になってしまう。「意味」になってしまう。外から先生の窓を見ているのか、あるいは先生の部屋から外を見ているのかわからないが、「見る」ということ、そして、その「見る」が「けやき」と「窓」を結びつけてしまうことから「意味」が生まれてきてしまう。「かれている」が「木」と「窓」に結びつけば、それは「病室」になり「死」が暗示される。そういう窮屈さがどうしてもでてきてしまう。

けやきの木がまたかれている
先生の窓に梨色のカーテンがかかっている死の床の上で

という2行は、いわばその「死」を踏まえてことばを加速させたものだが、ここからが西脇独特の音感(リズム感)のおもしろさだ。「意味」へぐいと突き進みながら、その「意味」を「無意味」に変えてしまう。

けやきの木がまたかれている
先生の窓に梨色のカーテンがかかっている死の床の上で
なければタバコを

 「なければタバコを」には「意味」がない。「意味」に通じるものがあるかもしれないが、この1行は完結していない。「未完」である。あらゆる可能性へ向けて開かれている。「木」「窓」「かれている」「死」という「意味」を破るために、西脇はわざと、そういう不完全な1行を挿入しているのだ。「意味」をつくるのではなく、「意味」を破る--それが西脇の詩であるかぎり、西脇は詩の構造を最初から計算して書くということもできはしない。ことばが「意味」になろうとする--そういう動きにであったら、それを否定する、というのが西脇の詩なのである。

けやきの木がまたかれている
先生の窓に梨色のカーテンがかかっている死の床の上で
なければタバコを
すわないと叫んでみても
やはりあの古いネツケがすいたい

 「タバコを/すわないと叫んでみても/やはりあの古いネツケがすいたい」という部分にも不思議な「意味」の破壊がある。タバコをすわないと叫ぶとことと、ネツケがすいたいと思うことの間には、「意味」がない。
 --ただし。
 私がいう「意味がない」にはひとつ前提がある。「ネツケ」がタバコの銘柄ではない、という前提が必要である。もし「ネツケ」がタバコの銘柄なら、「タバコを/すわないと叫んでみても/やはりあの古いタバコ(ネツケ)がすいたい」と「意味」をつくってしまうからである。すわないと叫んでみたものの、あのタバコだけはすいたい、と「意味」になり、また私たちがふつうになじんでいる「学校教科書」の「文体」になってしまう。
 私はタバコを吸ったこがないし、関心もないのでよくわならないが、「ネツケ」をタバコとは思わなかった。
 で、何と思ったかというと--「にっけい(ニッキ、シナモン)」である。にっけいの棒。それは「すう」というよりも「しゃぶる」「なめる」ということばのほうがふさわしいのかもしれないが、まあ、タバコのように口にくわえる。そういう口の動きを、わざと「すう」ということばで結びつけている。
 「古い」ということばも出てくるが、ここでは西脇は、「現実」から「思い出」(記憶)へと動かすということもしているのだと思う。「現実」(けやき、かれる、先生の窓)が「思い出」(にっけい)によってかき混ぜられ、時間が交錯する。そして、その時間の交錯は、

まだこの坂をのぼらなければならない
とつぜん夏が背中をすきとおした

 と「夏」を呼び込む。けやきが「かれる」は、ふつうに考えれば「秋」である。もちろん「葉」ではなく「木」と書いているのだから、それは季節は関係がないかもしれないが、「古いいねつけ」と、その前の不思議な文脈の破壊が時間の構造を解体し、それ以後のことばの自在な時間の往復を呼び込んでいるといえるだろう。
 西脇は、いつでも自在なことばの運動だけを優先している--と私には思える。そういう自在な運動というのは、最初から最後までを決めてしまう詩の書き方とはまったく違っている。何か漠然とした書きたいものはあるけれど、それを決めてはいない。書きながら探すということになると思う。
 「結論」(意味)を決めていない。だから、西脇の詩はおもしろい。



 「ネツケ」に関する補足。
 私は以前、新潟のことばは「い」と「え」があいまいである、と指摘した。(東北のことばに共通することかもしれない。)NETUKE、NIKKEI、NIKKI。ローマ字で書いてみるとよくわかる。「え」を「い」に変えると「ねつけ」はそのまま「肉桂(ニッキ)」になる。
 ここに「方言」(なまり?)を持ち込むことで、西脇の「いま」と「古い時間(古里の時間)」が交錯する。「いま」(東京)と「過去」(新潟)が交錯するとき、そこには幅の広い「時間」と「空間」が広がる。東京-新潟は日本のなかにとどまるが、「いま」と「過去」のあいだの「時間」のうちには西脇は日本を飛び出しヨーロッパにも行っているから、東京-新潟という「広がり」は「時間」を加えることでさらに日本-ヨーロッパという広がりを含むことになる。
 ことばは、その領域を自在に駆け回ることになる。その自在さが、冒頭でつくりだされたことになる。



西脇順三郎全集〈第1巻〉 (1971年)
西脇 順三郎
筑摩書房


人気ブログランキングへ
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする