中山直子「牛の瞳」(「ガニメデ」50、2010年12月01日発行)
ことばは「いきもの」である。生きているということは、互いに影響を与え合うということでもある。中山直子「死の陰の谷」を読んだあと、「牛の瞳」を読むと、そこに書かれていることが直接的に響いてくる。
牧歌的な風景である。あまりに牧歌的過ぎて、この詩を単独で読んだなら、通りすぎてしまうかもしれない。単独で読んだなら、牛との出会い、触れ合い--そこに「直接」ということばを思いつくことはなかったと思う。しかし、「死の陰の谷」を読んだあとでは、「直接」ということばが印象のなかに残っていて、それが響いてくる。
牛は「直接」、中山を見ている。「直接」見られていることを中山は感じている。そこには「ことば」がない。あたりまえのことなのだが、そのことに榎本はたじろいでいる。どうしていいかわからないので、秣をやってみる。「もそもそと長い舌で巻きとって/少し食べる」という牛の描写しか、ことばは動いてくれない。牛を描写しようにも「見る」ということば以外に動いてくれない。「また 見ている」。
「こいつ 興味津津なんですよ」と牛飼いは言う。そこには「ことば」がある。牛飼いは、牛をそんなふうに描写できる。客観的に(?)見ることができるということだ。ところが、中山は牛と直接的に触れ合ってしまっているので、そこに何からの「抽象的」な概念を持ち込めない。「抽象的」な概念というのは対象と離れていないとだめなのだ。変な言い方だが、自分とは違うもの、それを理解するための架空の橋(他者へ渡って行くときの橋)が「抽象的」な概念である。
ヘブライ人の「闇」を理解するために、ギリシャ人はそこに「死」という概念を架け橋として導入した。その架け橋を日本人も中国人も利用した。だが、ドイツ人は利用しなかった。
牛は、どんなことばをつけくわえない。ただ「見る」。その行為に牛飼いは「興味津津」という「架け橋」を渡してくれる。それはそれで納得がいくのではあるけれど、その「橋」を渡ることができるのは中山だけであって、牛は渡ってこない。どうすることもできない「断絶」(隔たり)がある。それなのに、牛は「見る」という行為で直接榎本に触れてくる。
「直接」触れ合ってしまったので、榎本は別れのことばを言う。触れあわなければ、牛に別れのことばなどかけないが、触れ合ってしまったから、ことばにする。出てくることばが、それしかない。
それが不思議におもしろい。何かしら、日常のなかで見落としてきた大切なものをふと思い出した気持ちになる。
そういう気持ちを、また牛は「直接」触れてくる。気持ちそのものにふれてくる。
「見る」とこ、中山から言えば「見られること」なのだが、その接触があまりに「直接的」過ぎるで、「見られている」ということばが、最後まで浮かんでこない。
牛になって(牛の立場で)、中山は牛を描写してしまうのだ。「興味津津」というようなことばを仲介にせず、ただ「見ている」。「まだ」見ている。
この「見る」とは何だったのか。
「夜明け」という詩のなかで、榎本はやっと見つけ出している。
「見る」「いつまでも」--そして、そのときその鳥を描写する榎本は鳥そのものになってやはり東の空を見ていたのであり、同時に「小さな永遠」を見ていたのだ。
何かに「直接」触れると、「永遠」が見えるのだ。
ことばは「いきもの」である。生きているということは、互いに影響を与え合うということでもある。中山直子「死の陰の谷」を読んだあと、「牛の瞳」を読むと、そこに書かれていることが直接的に響いてくる。
かっきりと大きく見開かれた
澄んだ瞳の牝牛が
牛舎の柵のそばまで来て
不思議そうに 私の顔をじっと見る
「よしよし」と言いながら
柵からはみ出した秣を
向こうに押しやる
もそもそと長い舌で巻きとって
少し食べる
また 見ている
「こいつ 興味津津なんですよ」
ニーダ・ゼクセンの牛飼いが言う
朝焼けいろをしたエリカの咲く
荒地の近く
「さよなら」と言っても
まだ 見ている
牧歌的な風景である。あまりに牧歌的過ぎて、この詩を単独で読んだなら、通りすぎてしまうかもしれない。単独で読んだなら、牛との出会い、触れ合い--そこに「直接」ということばを思いつくことはなかったと思う。しかし、「死の陰の谷」を読んだあとでは、「直接」ということばが印象のなかに残っていて、それが響いてくる。
牛は「直接」、中山を見ている。「直接」見られていることを中山は感じている。そこには「ことば」がない。あたりまえのことなのだが、そのことに榎本はたじろいでいる。どうしていいかわからないので、秣をやってみる。「もそもそと長い舌で巻きとって/少し食べる」という牛の描写しか、ことばは動いてくれない。牛を描写しようにも「見る」ということば以外に動いてくれない。「また 見ている」。
「こいつ 興味津津なんですよ」と牛飼いは言う。そこには「ことば」がある。牛飼いは、牛をそんなふうに描写できる。客観的に(?)見ることができるということだ。ところが、中山は牛と直接的に触れ合ってしまっているので、そこに何からの「抽象的」な概念を持ち込めない。「抽象的」な概念というのは対象と離れていないとだめなのだ。変な言い方だが、自分とは違うもの、それを理解するための架空の橋(他者へ渡って行くときの橋)が「抽象的」な概念である。
ヘブライ人の「闇」を理解するために、ギリシャ人はそこに「死」という概念を架け橋として導入した。その架け橋を日本人も中国人も利用した。だが、ドイツ人は利用しなかった。
牛は、どんなことばをつけくわえない。ただ「見る」。その行為に牛飼いは「興味津津」という「架け橋」を渡してくれる。それはそれで納得がいくのではあるけれど、その「橋」を渡ることができるのは中山だけであって、牛は渡ってこない。どうすることもできない「断絶」(隔たり)がある。それなのに、牛は「見る」という行為で直接榎本に触れてくる。
「さよなら」と言っても
まだ 見ている
「直接」触れ合ってしまったので、榎本は別れのことばを言う。触れあわなければ、牛に別れのことばなどかけないが、触れ合ってしまったから、ことばにする。出てくることばが、それしかない。
それが不思議におもしろい。何かしら、日常のなかで見落としてきた大切なものをふと思い出した気持ちになる。
そういう気持ちを、また牛は「直接」触れてくる。気持ちそのものにふれてくる。
まだ 見ている
「見る」とこ、中山から言えば「見られること」なのだが、その接触があまりに「直接的」過ぎるで、「見られている」ということばが、最後まで浮かんでこない。
牛になって(牛の立場で)、中山は牛を描写してしまうのだ。「興味津津」というようなことばを仲介にせず、ただ「見ている」。「まだ」見ている。
この「見る」とは何だったのか。
「夜明け」という詩のなかで、榎本はやっと見つけ出している。
やすらかな
風のない夜明け
すっくりと伸びた
杜松(ねず)の木の頂に
鳥が来て
東の空を見ている
いつまでも
それは過ぎゆく時の中の
小さな永遠の 記憶
「見る」「いつまでも」--そして、そのときその鳥を描写する榎本は鳥そのものになってやはり東の空を見ていたのであり、同時に「小さな永遠」を見ていたのだ。
何かに「直接」触れると、「永遠」が見えるのだ。