詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

鈴木志郎康「地図には載っていない」「二本の杖」

2011-01-06 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
鈴木志郎康「地図には載っていない」「二本の杖」(「現代詩手帖」2011年01月号)

 鈴木志郎康「地図には載っていない」は奇妙な詩である。

庭には草が生えている
地図には載っていない
ああ
草が根を張っている

その草の名称は
ヒメジョオン
雑草だ

草の詩を作った
夜中目覚めて
頭の中に
でも
翌朝起きて
憶えているだろうか
起きて
メモして
また寝た

 1連目は、3連目で書かれている「草の詩」そのものだろう。2連目も「草の詩」の内容かもしれない。
 雑草が地図に載っていないのは、それが細密な植物分布図(分布地図)でもないかぎり当然のことだろう。地図には動かないもの、ある程度の時間そこにあるものしか載っていない。時間とともにかわるもの(草のように生えたり枯れたりして存在が移り変わるもの)は載せようがない。
 そんなことはわかってる。わかっているけれど、そのことを思ってしまった。だから、それをことばにする。「無意味」なことばを、無意味なまま、そこに存在させる。それが詩である。もしかすると、そのことばは「根を張」るかもしれない。雑草のように生きるかもしれない。詩として、生きるかもしれない。
 --と、鈴木が考えたかどうかはわからないが、この夜中にふいに動いたことばをそのままとっておき、何とかしたいという気持ちはなかなかおもしろい。

 そして、ここまでなら、私は別に(?)困らない。このあと、鈴木の詩はもう1連つづくのだ。

そういえば
猫も
妻もわたしも
ひとはだれも
身体があやふやだからか
地図には載ってない

 困ってしまった。これは何だろう。この「論理」は何だろう。雑草・ヒメジョオンが地図に載っていないのはなぜ? 雑草の「身体があやふやだから」? 雑草が地図に載っていないと猫や人が地図に載っていないを結びつけるのは何?
 だいたい「ひと」が地図に載っていないのは、「ひと」の「身体があやふや」という理由からではないだろう。地図に「ひと」など載せない、というのが「地図」の文法だからだろう。植物も同じ。ふつうの地図には植物も載せないというのが、地図の文法、地図製作の論理である。
 とても変である。鈴木の書いていることは変である。変というのは、「論理」がない、「意味」がないということでもある。

 でも、ほんとうに意味がない? 論理がない?

 私は迷ってしまうのである。
 「身体があやふやだからか」の「あやふや」につまずいてしまう。「あやふや」ということばに触れて、鈴木の書いていることを信じてしまいそうになるのである。
 「あやふや」を鈴木はどうとらえているのか。雑草のように、身体はある一定の期間を過ぎたら雑草が枯れるように死んでしまうから「あやふや」というのだろうか。
 3連目が、急に気になるのである。
 そこで具体的に書かれているのは「草の詩」であるが、詩にかぎらず、ふと何かが頭の中に鮮明に浮かび上がることがある。それはその瞬間とても重要なことに思える。かけがえのない何か、絶対にことばにしておかなければならない何かに見えることがある。でも、それは「翌朝起きて/憶えている」かどうかわからないものである。言い換えると、「あやふや」なものである。
 そういうものがあるのだ。
 そこにある。けれど、それはいつまでもありつづけるとはかぎらない。そういうものを「あやふや」と鈴木は呼んでいる。ヒメジョオンも、それについて思いめぐらしたことばも、ひとも(妻もわたしも、猫も)、確かにいま、ここに存在する。存在するけれども、存在しつづけるかどうかはわからない。--だから地図には載せない。うーん、それは「論理的」な説明だなあ。「あやふや」なものは地図には載せないというのは確かにいえることではあるなあ。

 一方、ことばはどうだろう。ひとの考えは、夜中に目覚めて思いつく「詩」のように、ふいに消えるものもある。存在が「あやふや」であることもある。ところが、書かれてしまうと、それは「あやふや」ではなくなる。「意味・論理」は「あやふや」でも、そのことば自体は「あやふや」ではない。いつでも読むことができる。
 そうすると、それは地図に載せてもいいもの? 地図に載っているもの?
 いや、そうじゃないぞ。
 詩はやっぱり「あやふや」なものなのである。だから、地図には載っていないのだ。どこかに「載る」ことで「定着」してしまっては、それはもう詩ではない--鈴木は、そういいたいのかもしれない。
 ここから鈴木は、逆にことばを動かしていく。詩について語りはじめている。そこにある、けれども、それ以外は何の意味も持たない「あやふやなことば」、それが詩であるという方向に進んでいくのだと思う。
 あらゆる「感動」を排除し、ただそこにある、わけのわからない「あやふやなことば」う詩として提出しようとしているのだ。ことばを解体し「あやふや」にしてしまうことこそ、詩なのである。

 「二本の杖」は鈴木の実体験を描いているのだろうか。

左の股関節を手術した
人工股関節に置換して
リハビリ中
歩くのに
二本の杖を使っている
右の杖に力を入れて
前に進む
左の杖は支え
ところが左の杖に力を入れて
しまって
アイタタとなる
左脚に負担が掛かり
痛いのだ
力の入れ方を間違えたということ
この失敗を
笑ったものだろうか

 最終行の疑問。答えられますか? 「あやふや」な気持ちになる。鈴木は、いま「あやふや」を書きたいんだなあと、思った。

胡桃ポインタ―鈴木志郎康詩集
鈴木 志郎康
書肆山田

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石川厚志『が ないからだ』

2011-01-06 22:59:59 | 詩集
石川厚志『が ないからだ』(土曜美術社出版販売、2010年10月30日発行)

 石川厚志『が ないからだ』はタイトルがしめすようにわざとつくられた「文体」を詩として読ませる作品である。
 「が ないからだ」。

私が何でそれを見られないかといえば
麒麟(きりん)の首がないからだ
私が何でそれを頂けないかといえば
かめれおんのべろもないからだ
私が何でそれを聴くことができないかといえば
兎の耳もないからだ

 読みながら、「長い」と感じた。「私が何でそれを見られないかといえば」という1行が長い。長い分だけスピードが落ちる。スピードが落ちるというのと、スピードを殺した文体というのは別物であって、スピードが落ちるという印象は、私には「欠点」としか思えない。
 「何で」と「といえば」が長い。余分なことを言っている。「何で」という「口語」もことばのスピードを落としている。このスピードが落ちる感じが、「麒麟」「かめれおん」「兎」の比喩を平凡な「比喩」によって、さらに遅くなる。「頂けない」(頂く)という動詞のつかい方も、ぞっとする。もっと簡単に「食う」とか「食べる」とすっきりしたスピードのことばでないと、「気取っている」という印象しか残らない。詩は「気取って書く」というのは、私は賛成なのだが、気取り方に問題がある。「わざと」の姿勢のあり方に問題がある。この詩集を読み通すのは、かなり苦しい。
 一転、「不条理な食卓」はおもしろい。

妻に怒られながら夕食をとる
ずるっと顎(あご)がずれる
何を怒られているのかが分からずに
ずるっとまた顎がはずれる
すると今度は顎がずれていることについて怒られるので
何とか元に戻そうとするが
どうしてなのか逆向きにずるっとずれてしまい
必然的に逆向きにずれてしまったこともまた怒られるので

 この詩も「同じことば」が繰り返されているという印象がある。しかし、微妙に違う。どこが違うのか。「不条理な食卓」は「同じことば」だが、「同じことば」ではない。「不条理な食卓」は「しりとり」になっている。
 しりとりというのは、最後のことばを引き継いで、それとは違うことばを重ねる遊びだが、「不条理な食卓」は同じことばを繰り返しながら、少しずつずれていく。「が ないからだ」は同じことばを積み重ねながら飛躍するのに対して、「不条理な食卓」は飛躍しない。ずるずるずると前のことばを引きずっていく。
 「飛躍」と「ずるずる引きずる」を比較すると「飛躍」の方がスピードがあるはずなのに、なぜか、そういう「論理通り」にはことばは動かない。「ずるずる引きずる」には「滑る」感じが濃厚なためかもしれない。飛躍するには自分自身のなかにエネルギーがいる。けれどずるずる滑る感じのなかには自分のエネルギーが必要ではない。
 別なことばで言えば、ずるずる引きずられて滑るとき、読者は、ひとつひとつのイメージを考えなくていい。前のイメージに寄り掛かっていられる。楽なのだ。この「楽」がスピード感につながっていると思う。
 「が ないからだ」は「麒麟」「かめれおん」「兎」と、いろんな動物を正確に想像しないといけない。これはつらいね。ところが「不条理な食卓」は「顎」と「ずれる」と「怒られる」が少しずつ変わっていくだけなのだ。少しずつだから「楽」に読むことができ、うれしくなる。
 文体そのものを詩にするときは、「楽」に読ませる工夫が必要なのかもしれない。



が ないからだ―石川厚志詩集
石川 厚志
土曜美術社出版販売

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志賀直哉(19)

2011-01-06 11:44:35 | 志賀直哉
「朝顔」(「志賀直哉小説選 三、昭和六十二年五月八日発行)

 「朝顔」は虻が蜜を吸う描写が印象的な小品であるが、読み返してみて、違う部分に志賀直哉らしさを感じた。

私は朝顔の水々しい美しさに気づいたと時、何故か、不意に自分の少年時代を憶ひ浮べた。あとで考へた事だが、これは少年時代、既にこの水々しさは知つてゐて、それ程思はず、老年になつて、それを大変美しく感じたのだらうと思つた。
                                (290 ページ)

 「あとで考へた事だが」というのは、きわめて散文的で詩情をこわすような表現だが、この「あとで考える」というのはなかなか厳しい姿勢である。生き方である。何かを感じたことなど、ふつう、ひとはあとからもう一度考え直そうとは思わない。そのとき、ふと感じて、そのままにしておく。
 ところが、志賀直哉は、ふと感じたことを、これはどういうことだったのかと考え、そこに「論理」を持ち込む。「論理」で感情を補強する。
 有名な(と、私が思っているだけかもしれないが)虻の描写のあとにも同じような文章がある。

虻にとつては朝顔だけで、私といふ人間は全く眼中になかつたわけである。さういふ虻に対し、私は何か親近を覚え、愉しい気分になつた。
                                (291 ページ)

 「虻にとつて(略)私といふ人間は全く眼中になかつた」という虻の「論理(わけ)」の発見が、志賀直哉の感情「親近」「愉しい気分」を補強している。
 志賀直哉は、いつでも「感情」に「わけ」をさがしている。そして、それをさがしあてるまで書くのだと思う。
 この作品の最後もおもしろい。志賀直哉は「虻」と書いた来たが、調べてみる虻と蜂は羽が違うということを知る。そして、

朝顔を追つて来たのは何(いづ)れであつたか。見た時、虻と思つたので虻と書いたが、いまもそれが何れかは分からずにゐる。
                                (291 ページ)

 朝顔の蜜を吸ったのは虻か、蜂か。いずれであっても、

虻は逆(さか)さに花の芯に深く入つて蜜を吸ひ始めた。丸味のある虎斑の尻の先が息でもするやうに動いてゐる。
 少時(しばらく)すると虻は飛込んだ時とは反対に稍不器用な身振りで芯から脱け出すと、次の花に身を逆(さか)さにして入り、一ト通り蜜を吸ふと、何の未練もなく、何所かへ飛んで行つて了つた。
                                (291 ページ)

 という美しい描写は変わらないと思う。しかし、それは私(あるいは他の読者)がそう思うだけてあって、志賀直哉にとっては、それが虻か蜂かわからないことには本当の美しさにはならないのだ。
 志賀直哉にとって「わけ」とは「事実」であり、それは志賀直哉だけの「事実」(たとえば、朝顔を少年時代にも美しいと知っていた、ということ)であっては不十分なのだ。「わけ」として成立するためには、他人と共有できる「事実」でなければならないのだ。
 ここに志賀直哉の厳しい美しさがある。ことばの美しさがある。



小僧の神様・一房の葡萄 (21世紀版少年少女日本文学館)
有島 武郎,志賀 直哉,武者小路 実篤
講談社

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