詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

田原『谷川俊太郎論』

2011-01-30 23:59:59 | 詩集
田原『谷川俊太郎論』(岩波書店、2010年12月10日発行)

 詩は「外国語」であると私は思っている。詩人それぞれが独特の「国語」を確立している。これは日本語で書かれた詩を読むときの、私の基本的な考え方である。
 田原が谷川俊太郎を読むとき、そこには私とは違った視点が当然ながら出てくる。田原にとって谷川の詩は「谷川語」であると同時に「日本語」である。中国語から見た「日本語」があり、その「日本語」のひとつに「谷川語」がある。田原の論を読むと、私が見落としていた「日本語」の部分が見えてくる。中国語にとって日本語はどういうことばなのか、ということが見えてくる。
 「いるか」(「いるかいるか/いないかいるか/いないいないいるか/」ではじまる作品)について触れた部分。

この詩は日本語の表音文字であるひらがなの持つ曖昧さを上手に利用して表現している。筆者はこうした作品を中国語に翻訳する作業を通じて、韻律が間違いなく意味に勝っていること、日本語の現代詩における押韻や韻律の組み合わせが、否定しようもなく積極的な働きをしていることを理解した。

現代詩の純粋性からみれば、この類の作品における意味の軽視は創作の「ルール違反」だと指摘されやすいものだからである。或いは現代詩の範疇の外へ追い出される恐れもある。というのは現代詩作品は一旦意味と思想を喪失すれば、芸術の脱け殻と見なされるからである。

日本語には表音文字である仮名があるため、意味を考えずに、ただ仮名で詩の韻律のみを記録できるという客観的条件が備わっている。

中国語は、表音文字である漢字しかないため、個々の意味を持つ漢字で韻律だけを考えて詩を作るのは不可能なのである。

 「意味」と「韻律」の対立。「意味」イコール「思想」という視点、「意味」を「思想」と同列にとらえる視点。私はびっくりした。「音」も「意味」も、私と田原ではまったくとらえ方が違う。当たり前のことなのだろうけれど、そのことに私は驚く。

 あ、そうなのか。中国語は「音」よりも「意味」なのか。

 「韻律」というのではないけれど、私は「音」がわからないと「意味」がわからない。「音」でしか「意味」を理解できない。でも、中国語は「音」なしでも「意味」がわかるのか。漢字とはそういうものなのか。私はどんな漢字も読めないと、その意味がわからないし、その読むというのも読み方を調べて読めるようになれば意味がわかるというのではなく、「声」を通して耳で聞いたものでないかぎり、その「意味」がわからない。私はもしかするとカタカナ難読症だけではなく、漢字難読症でもあるのかもしれない。
 だから、田原の書いている「意味」と「韻律」の対立、「意味」重視の視点に驚いてしまった。私とっては「音」と意味」は同じものである。
 「音」のなかに「意味」がある。「音」を除外して「意味」はない。「音」そのものが「思想」である。
 ここからは、好みの問題になる。
 私は谷川のことば、その「音」は好きだが、一番好きな詩人とは言えない。谷川の音は洗練されすぎている。「音」になりすぎている。なめらかすぎる。ノイズがない。--そういう不満がどこかにある。ひっかからない。つまずかない。あまりにも自然すぎる。
 たぶん、それだけ谷川の日本語は、日本語そのものの音の本質(基本)をしっかりと肉体にしているということなのだろうけれど。

 「音」に関して、田原が書いている別の部分にも、私はびっくりした。「二十億光年の孤独」について触れた部分。

人類は小さな球の上で
眠り起きそして働き
ときどき火星に仲間を欲しがったりする

火星人は小さな球の上で
何をしてるか 僕は知らない
(或いはネリリし キルルし ハララしているか)
しかしときどき地球に仲間を欲しがったりする
それはまったくたしかなことだ

 これについて、田原は次のように書いている。

「ネリリ キルル ハララ」(寝る 起きる[着る] 働く)というナンセンスな擬態語、宇宙人のような言葉遣いによって、語彙を曖昧化させ、カタカナを使うことで、読者の鑑賞空間を複雑なものにし、それによって読者の想像空間を広げようとしている。

 えっ、「ネリリ キルル ハララ」は「寝る 起きる[着る] 働く」だったの? たしかに1連目と対比して「意味」構造を比較すればそうなるなあ。
 私はよっぽど馬鹿なのか、「ネリリ キルル ハララ」から遊んでいる火星人の子供しか想像してこなかった。火星人の子供はちゃんばらごっこをしている。体をひ「ねり」り、体を「きる」るし、どきどき「はら」はらしながら遊んでいる。そして、地球にも遊び友達がいるといいなあ、と思ったりしている。
 「リリ・ルル・ララ」というのは、どうしたって、口をついて出てくる「遊び」というか、楽しい「声」そのものだ。「意味」などない。「意味」があるとすれば、それは「楽しい」ということ。「肉体」がよろこんでいるということ。
 私は、どうしてもそう感じてしまう。
 「仲間」というのは、たしかに「働く/仲間」というのもあるのだけれど、やっぱり「遊び/仲間」が「仲間」の基本である。私の「日本語」では。私の「音」のつづきぐあいでは。だから、どうしても遊んでいる火星人の子供を思い浮かべたんだろうなあ。
 けれど、私の読み方は完全に「誤読」で、田原の方が詩の構想からいって、正しいと思う。
 そう思うからこそ、やっぱり、びっくりとしか言いようがなくなる。
 「意味」なのか。「意味」が「思想」なのか。
 私は「音」で「意味」を破壊し、遊んでしまう、その楽天的(?)なところに、谷川の美しさがあると思っていたので、「ネリリ キルル ハララ」をしっかり「意味」に固定して詩を理解する田原の「意味」指向、「思想」指向にびっくりしたのである。



 「いるか」に突然もどるのだけれど……。
 読んでいると(私は音読はしないのだけれど)、「肉体」がうれしくなる。このよろこび。それを「思想」と呼んではいけないのだろうか。
 「思想」の定義は難しい。私は人間を幸せにすることができる「思想」が一番正しい「思想」だと考えている。そのことばに含まれる「意味」がたとえば地球全体を救うとか、貧困をなくすとか、差別をなくすとか--そういうものにつながらなくても、何かしらよろこびをもたらしてくれればそれを「思想」と信じている。そういう点から言って、「いるか」は大変な「思想」のことばであると思っている。
 「肉体」がうれしいだけではだめなんだ、という考えもあるだろうけれど。
 でも、私は「肉体」がうれしくないことはしたくないなあ。

 田原の「谷川論」からずいぶん離れてしまったかもしれない。--要点(?)は、田原の指摘で、私は谷川の「音」について、また考え直してみた。音に対する感じ方が、田原と私ではずいぶん違うなあと実感した、ということなのだけれど。まだ第一章「変化の哲学」という部分を読んだだけだけれど。





谷川俊太郎論
田 原
岩波書店

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ロドリゴ・ガルシア監督「愛する人」(★★★★)

2011-01-30 14:40:47 | 映画
監督 ロドリゴ・ガルシア 出演 ナオミ・ワッツ、アネット・ベニング、ケリー・ワシントン、ジミー・スミッツ

 ロドリゴ・ガルシアは女性をとても繊細に描く。私は女性ではないので、女性自身がどう感じるかははっきりとはわからないが、いくつものシーンで、「あ、女っぽいなあ」と思い、みとれてしまうのだった。
 たとえばナオミ・ワッツが妊娠したかもしれないと思い、産婦人科へ行く。そのときの担当医がたまたま大学の同級生である。ナオミ・ワッツは気がつかないのだけれど、医師が気づく。そして、思わず「あなたは○○と同じ部屋だったでしょ」というようなことを口にする。親密感(親近感)が、ふっと出てしまう。それをナオミ・ワッツが拒絶する。そのときの呼吸、それから、その拒絶に気づいて医師が反省し、謝罪する。そのひとつづきの感じが、どこがどうとは言えないのだけれど「女の現実」というものを感じさせる。「女」を見てしまった、という感じがする。
 アネット・ベニングが関係するエピソードでは、彼女の母がアネット・ベニングにすまないことをした、というのを家政婦に語り、アネット・ベニングはそのことを家政婦から間接的に聞く、そして泣いてしまうシーン。本人には言いづらいことを他人に語ってしまうというのは、まあ、男でも女でも同じようにあるのだと思う。そのあと、それを知って、その場で泣いてしまうという「素直さ」、そして家政婦に対して怒ってしまうところ、その急激な感情の噴出が女っぽい。
 女性をうまく描く監督にウッディ・アレンがいるが(彼の映画では女性がともかくすばらしい演技をする)、ロドリゴ・ガルシアの女性の描き方はウッディ・アレンとはまったく違う。ウッディ・アレンの場合、女性は何かしらのインスピレーションの源という感じ、男にとって魅力的、刺激的という匂いのなかで美しく輝く。ロドリゴ・ガルシアの女性は、女性同士のなかでいきいきと動く。あ、こんな輝き方かあるのか、と、ふと思うのである。そういう女性たちの姿は私にとっては初めてのはずなのだが、それでいて何かしらなつかしいような気持ちにもさせられる。きっと、そういう感情の動かし方というのは男の私にもあるはずなのだけれど、「社会」のなかで知らず知らずに抑制しているんだろうなあ、とも思う。
 ロドリゴ・ガルシアは、きっと、しっかりと女性のなかに溶け込んで人生を生きてきたのだと思うのである。
 その女性同士の自然な感情の動きの美しさ--それは、この映画のなかでは、妊娠したあとのナオミ・ワッツと盲目の少女との触れ合いのなかにふっとただよう。屋上でひなたぼっこをしているだけなのだが、とても気持ちがいいのである。見ていて、とても自然な感じがする。ナオミ・ワッツか盲目の少女になった気持ちになるのである。
 そういう「自然」が描けるからこそ、その後のシーン、ナオミ・ワッツがそのビルを出て行くと決めたとき、エレベーターのなかで少女と会うシーンが切ない。別れのあいさつをすべきなのかどうかナオミ・ワッツは悩む。結局、声をかけない。その小さな決意が、彼女の一番の「不幸」なのだ。他人に頼らないことを決意して生きてきたナオミ・ワッツの淋しさなのだ。--これが、最後の悲劇、出産に際して帝王切開を選ばないという決意につながる。生まれてくる子供は知ることはないのだが、ナオミ・ワッツは、子供の誕生をはっきりと自分が支えた、おまえのいのちを支えるのだから、おまえは安心して生まれていいんだと、肉体で告げる生き方につながる。

 あ、女の決意とはこんなに力強いものなのかと、男の監督の映画を通して知るのは、とても不思議なことなのだが……。
 女性には、この映画は、どんなふうに、ロドリゴ・ガルシアの視線はどんなふうに見えるのだろうか。

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