詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

季村敏夫『ノミトビヨシマルの独言』

2011-01-24 23:59:57 | 詩集
季村敏夫『ノミトビヨシマルの独言』(5)(書肆山田、2011年01月17日発行)


 私は季村の詩を「誤読」している。季村が書いている「事実」ではなく、私は私が読みたいものを読んでいる。そういう過失を犯しているのはわかっているが、私はそれをやめられない。間違って読んでも季村のことばは、季村のことば自身の力でそこに存在しつづける。そういうことが「確信」できる。だから、私は好き勝手に読むのである。
 「わが父の教えたまいし歌」。

あとでわかる。遅れが思考の原型だということ、父を亡くした直後は理解できなかったのですが、初めての子を喪い、二人目の子が授かったころ、躯でわかったような気がします。初めに遅れありき、清水の舞台から飛び降りて考えればよいのですね。
  (谷内注、「躯」を季村は「身」+「区」の正字、匚の中に口三つと書いている)

 「遅れが思考の原型だ」という「哲学」。その抽象的なことばの内容は、はっきりとはわからない。いや、ぼんやりとだって、わからないのだが、直感的にわかったような気持ちになる。
 なぜか。
 「遅れが思考の原型だ」という文体に緩みがないからだ。余分な修飾語がない。どのような「遅れ」、どのような「思考」か、その「どのような」がないことによって、それこそ「原型」としての「遅れ」と「思考」が固く結晶している--そう感じる。そこには精神が張り詰めている。精神でしかありえないすばやい運動がある。
 この緊密さの一方、「初めての子を喪い、二人目の子が授かったころ、躯でわかったような気がします。」というのは、とてもゆったりした文体である。そして、そこには前の文章では書かれなかった「精神」のかわりに「躯」ということばが登場している。
 緊密な「精神」--ゆったりした「からだ」(と、季村には申し訳ないが、簡単に書き直して私の文章をつづける)、その組み合わせのなかに、私は、なんとなく「日本語」の文体そのものを感じるのである。
 「漢文」と「和文(?)」の組み合わせの確かさを感じるのである。
 この組み合わせ、そこから生まれてくる緩急の運動--それは、季村が多くのことばを潜り抜けてきているからである。そういうことを印象づける。多くのことばをくぐりぬけてきたからこそ、そこに揺るぎなさがあり、それを信じることができる。私がどんなに「誤読」しようが、季村のことばは「正確」でありつづけることができる--そう確信してしまうのだ。
 そして--といっていいのかどうかよくわからないけれど……。
 ここに書かれている「精神」(これは正確には書かれていないけれど)と「遅れ」と「からだ」の関係は、まさに、季村の「文体」なのだという印象と重なる。
 「文体」のなかには「遅れ」がある。「ことば」のなかには「遅れ」がある。「ことば」はいつでも全体的に遅れる。何かが起きる。何かを感じる。それは「精神」が先に感じることもあれば、「からだ」が先に感じることもある。逆もある。どっちの場合も、「ことば」はうまく動かない。うまく動かないのだけれど、なんとか動こうとする。そして、「遅れ」ながらも、なんとか、ある瞬間に追いつく。そのとき、「ことば」のなかで、「精神」と「からだ」が一致する。合体する。そして、そこに「人間」が立ち上がってくる。
 季村の「ことば」を読むと、その立ち上がってくる「人間」が見える--とは、私には言い切れないのだけれど、つまり、そんなことははっきりとはわからないのだけれど、動き--予感が感じられるのだ。
 それは、言いなおせば、私の「ことば」が季村の「ことば」に対して「遅れ」ているからである。季村の「ことば」に追いつけないために、季村の書いている「人間」を私ははっきりとはつかみつれない。けれど、あ、ここに「人間」がいる、とは強く感じるのだ。その「人間」は私の知らない人間である。(私は季村本人さえも知らない。)知らない人間であるから、その人間に対して「誤解」してしまう(誤読してしまう)のは仕方ないことだなあ、と私は思っている。(開き直っている?)でも、どんなに「誤解・誤読」しようと、「人間」は私の「誤解・誤読」とは関係なく生きつづける。それが「世界」である。その、不思議で、おもしろい「世界」への「入り口」が季村の「ことば」にはあるのだ。

過去と現在は同時に滾り、ここで起こっていることのなかに、未来まで押し寄せています。

 これは「遅れ」が「思考の原型」であるを言い換えたものである。「過去」と「現在」がたぎる。そのなかには、「未来」がある。「未来」があるということは、しかし、「いま」はわからないのだ。「いま」のなかに「過去」があることはわかっても、そこに「未来」があるとわかるのは--「未来」という時間になってからなのだ。
 「未来」さえも、「遅れ」てやってくるのだ。あらゆるものが「遅れ」てやってくる。「遅れ」て、ことばになる。
 いま、ここに書かれている季村の「ことば」さえ、やはり季村にとっては「遅れ」とともにやってきたものに違いないのだ。
 そのことを季村は知っている。
自分のことばは遅れている--そう自覚しながら、やってくることばを正確に受け止め、それを書く。あ、これは、すごい力だと思う。

神戸に舞い戻ってからです。父の酔態を聞かされ、ぞっとしました。羞恥を通り越したおもいに襲われました。過ちといっても、傷ついたひとがいる。父の狼藉を知らされたとき、この過誤をどう受けとめればよいのか、ずいぶん悩みました。ぞっとしたおもいは、わが父の教えたまいし歌、そのことに気づくことを私はいつも避けてきた。

 「気づくことを私はいつも避けてきた。」というのは、意図的な「遅れ」である。そして、その意図的な「遅れ」のなかには、それに先立つ絶対的な「予言」のようなものがある。
 「遅れ」はいつでも「遅れ」抱けてはないのだ。
 「過去」と「現在」がたぎるとき、そこに「未来」があるように、どのような「ことば」にも「予言」のような絶対的な「未来」がある。
 季村のことばは、それをはらみながら動いている。だから、とても強い。強い力で響いてくる。



冬と木霊―詩集 (1974年)
季村 敏夫
国文社

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誰も書かなかった西脇順三郎(171 )

2011-01-24 00:43:58 | 誰も書かなかった西脇順三郎
 『えてるにたす』。「菜園の妖術」のつづき。

かんむりのひもをといて今か今かと
待つていたのにすずきの吸物も
なめてしまつたこのうすあかりの
せつない世界に待つ人もなく
なつてなでしこをもつオランダ人の
若木男の肖像だけがくらがりに
のこされてゆくこの坂の家にたれ
さがる白ばなのはぎのしげみに
ひとりのさびしい旅人がゆまりする
音がきこえるばかりだ
これもこじきの女神の
おとずれとなりうれしく思える

 ことばが行を跨いで行く。これは西脇の詩に頻繁することだけれど、「せつない世界に待つ人ともなく/なつて」というのは、「待つ人もなく」ということば自体で完結して見えるから、ちょっと困る。困る、というのは、あ、騙された、という感じである。「待つ人もなく」で「意味」を考えてしまったのに、そうじゃないのか、ずるいよ、という感じである。
 私は「誤読」が大好きだが、ひとの(西脇の)、「だまし」にのせられて「誤読」するのはいやなのだ。「誤読」はあくまで自分自身で「誤読」したい。
 それが私のわがままだとしたら、西脇の「だまし」はまた、西脇のわがままということになるだろう。
 --と、書きながら、私は、まあ、西脇を非難しているわけではなく、楽しんでいるのだけれど。

せつない世界に待つ人もなく
なつてなでしこをもつオランダ人の

 という2行は、そうした行のわたり(またぎ越し)のほかにもおもしろい要素がある。せつ「な」い世界を待つ人も「な」く、「な」つて「な」でしこをもつオランダ人の、と「な」の音の繰り返しの、その最中に、「待(ま)つ」「もつ」と「ま行」の音がはさまる。さらに「つ」の音もそれに加えることができるかもしれないが、この「ま」つ、「も」つの音の変化が「な」に挟まれてあるのは、なんとも不思議な美しさがある。
 「待つ/人も」「もつ/オランダ/人の」の、ふいに割り込んでくる「オランダ」という音もおもしろい。「オランダ」がわりこむことで「ひと」が「じん」に変わる。
 これは、西脇が考えてそうしているのか、本能的にそうしているのかわからないが、そういうおもしろさが西脇にはいつもついてくる。

 行のわたり(またぎ越し)では、

のこされてゆくこの坂の家にたれ
さがる白ばなのはぎのしげみに

 でも、私はだまされてしまう。「のこされてゆくこの坂の家にたれ」の最後の「たれ」を「誰」と読んでしまうのである。その前に「人」「オランダ人」「若き男」と「人間」がつづけて出てくるからだと思う。
 こんなことを思ってしまうのは、西脇の「っ」の表記が常に「つ」であるからかもしれない。旧かなつかいだからかもしれない。それに引きずられて「たれ」を旧かなで書かれたもの、「だれ」と読むのだ、という意識が動いてしまうのかもしれない。
 「さがる白ばなのはぎのしげみに」には濁音の美しさがある。鼻濁音の美しい繰り返しがある。

 その次の1行は、この繰り返される音が引き出した1行だと思う。

ひとりのさびしい旅人がゆまりする

 「ゆまり」。尿。小便をする。しかし、「尿」や「小便」では音が美しくない。
 この「ゆまり」は、それまでまったく登場しなかった音である。「ゆまりする」という音が、音自体として美しい。
 この「ゆまり」以前の音は、なんといえばいいのだろう--一種、技巧の音という感じがするのだが、この「ゆまり」は技巧を離れて、どこか、とんでもないところからふいにやってきた音楽そのもの、天から降ってきた音楽のように感じられるのだ。
 こんな印象は印象にすぎないのだが……。

ひとりのさびしい旅人がゆまりする
音がきこえるばかりだ
これもこじきの女神の
おとずれとなりうれしく思える

 このとき「きこえる」「音」は、尿をする、その尿の音ではなく、私には「ゆまり」ということばそのものの「音」に感じられる。
 「音」そのものが、ことばとも、それを指し示す現象とも離れて、純粋な音楽になる女「神」がもたらしてくれた音楽だ。そのとき、やってきたのは(訪れたのは)、「音」そのも、神をも超越した音楽。
 「おとずれ」のなかには「音」がある。「音・ずれ」としての「訪れ」。

 「意味」にはなりえない、こんな「たわごと」を書くことのが、私はとても好きだ。



西脇順三郎の絵画
西脇 順三郎
恒文社


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