詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

上坂京子『風と曼珠沙華』

2011-01-20 23:59:59 | 詩集
上坂京子『風と曼珠沙華』(深夜叢書社、2010年12月15日発行)

 上坂京子『風と曼珠沙華』の詩の特徴のひとつに「改行」がある。「風と曼珠沙華」。

暮れなずむこの夕暮れは
私の地球 あるいは頭蓋のめざめ それは
誰のものでもない私の知っているこの大地の夢
私のおも火(ひ)に焼かれ 未だに煙りも立たず燻る道
を持ち上げる野分けの風 ざわざわと

別離のない国から
朽ち葉のように運ばれてくる
小さな寝室 石に刻まれた名前 私もまた
裸の足を風に浸し勇気ある子供に立ちかえり
幼いおまえの手を取り翔ける雲になる

あの日
おまえが駆け抜けた野や庭一面に燃えわたる彼岸の花
それぞれに小さな空を掴みながら 浄土の雲を紅に染めうつし
おまえを捧げ永久に追放するしたくをした 保護者としての
烈しい苦悶のときを ヒューヒューと

過ぎゆく風を投げ合った 今宵のすべての天空が
白い布地となり包もうとしているもの 散乱した
こんなにも淋しいけれど甘美な生きてきた吐息 輝く勇気ある額(ひたい) やがて
おまえの寝息をききながら大地の夢をみる私 無涯の

脈打つ地球に鍬を打つ私は 石を貫く苔となり
おまえのかたちにおまえを覆い 忍び入る風雪を引き受けよう
ふたたび咲くことはないと聞かされたあの日の花は
たおやかに私の奥で赤く燃え
交配を怠ることはないのだよ

 3、4、5連の改行が特に変わっている。「ヒューヒューと//過ぎ行く風」「無涯の//脈打つ地球」。上坂の意図はどんなものかわからないが、私は、1行の空白を挟んでことばが呼び掛け合う「改行」、1行の空白をまたぎ越して接続することばとして読んだ。
 ふつうなら連続してあるべきことばの間に「1行」の大きな空白がある。そういう構造をもった作品として読んだ。
 これはいったい何だろう。この1行空きは何だろう。
 激しい断絶なのか。
 そうではなくて、これはことばの飛翔の痕跡なのだ。
 動いてきたことばが加速する。加速して、飛翔してしまう。その飛翔の痕跡として「1行の空白」を上坂は必要としているのだ。
 この詩は5連の構造をとっているが、ほんとうは5行なのである。1連が1行である。その1行のなかで、ことばはことばの脈絡を切る。

暮れなずむこの夕暮れは
私の地球 あるいは頭蓋のめざめ それは

 1行目は2行目につながらない。「夕暮れ」は「めざめ」というのは一種の矛盾である。「めざめ」とは一般的に「朝」に属するものである。「夕暮れ」が「朝」であるはずがない。--というのは、ことばのひとつの脈絡である。そういうものを上坂は叩ききる。叩ききられたことばの脈絡は、まるで首を切られたニワトリのように無鉄砲に駆け出し、ことばを探す。あたらしい頭を探すかのように。

暮れなずむこの夕暮れは
私の地球 あるいは頭蓋のめざめ それは
誰のものでもない私の知っているこの大地の夢

 「夕暮れが「めざめ」であるというのは、「夢」なのだ。「夢」のなかでなら、どんな矛盾でもありうる。
 脈絡を切られたことばは暴走し、そのスピードのなかから、まるでほとばしる血のように次のことばが飛び出してくる。そのとき、ことばは飛翔しながら、どこかで「過去」を引きずる。

私のおも火(ひ)に焼かれ 未だに煙りも立たず燻る道

 「思い」(思ひ、思ふ)、思うことはこころの火、こころの火なんて古くさいから、上坂は「頭蓋」の火というかもしれない。「思い(思ひ)」「思う(思ふ)」と漢字で書いてしまえばそこに「心」がこびりついてくるが「おもひ」なら「心」はこびりつかない。その「ひ(火)」を「頭蓋」の「火」と呼べば、それは「頭蓋の夜明け」、「頭蓋のめざめ」へとつながるであろう。
 ことばを叩き切り、飛翔すれば、それに呼応するように「過去」が逆方向に動いていく。より、過去へと動いていき、新しいことばと古いことば(それまでたどってきたことば)の亀裂を大きくする。
 それが、ふいに登場する「1行空き」なのだ。

私のおも火に焼かれ 未だに煙りも立たず燻る道
を持ち上げる野分けの風 ざわざわと

別離のない国から

 この不自然な(散文の「意味」において、「学校教科書」の作文の文脈において、不自然ということだが……)改行。意味の不連続。不連続でありながら、何かしら、「過去」を引っかき回すようなしつこい粘着力。

私のおも火に焼かれ 未だに煙りも立たず燻る道
を持ち上げる野分けの風 ざわざわと

別離のない国から
朽ち葉のように運ばれてくる

 「ざわざわ」は「野分けの風」を描写しているのか。それとも「朽ち葉」のたてる音なのか。きっと両方なのだ。1行空きの大きな空白を抱え込みながら、その空白をないものにしてしまうことばの粘着力。
 この粘着力にあらがうためには、だからこそ1行空きの空白が必要とも言える。

 こういう作品に「意味」を求めても何もない。何もない--というのは逆説で、あらゆるものがある。つまり、どう読もうとかまわない。だから、私は、この詩の「意味」(内容・ストーリー)については書かない。
 一瞬一瞬のことばの輝き--それが好きか嫌いか、それだけである。
 「こんなにも淋しいけれど甘美な生きてきた吐息」ということばは、私は大嫌いだが、それでも私は詩として許容してしまう。「たおやかに私の奥で赤く燃え」というのは、この詩のなかではいちばん嫌いな行だが、それでも私は詩として許容してしまう。
 変な比喩で申し訳ないのだが(さっき書いたことなのだが)、この詩のリズムは、どこか首を切られたニワトリの疾走に似ている。強烈な絶望と、強烈ないのちの粘着力がある。それが好きなのだ。
 あ、変なものを見てしまった、という印象が好きなのだ。


風と曼珠沙華
上坂 京子
深夜叢書社
コメント (1)
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