高塚謙太郎「スコヴィルの陽のもとで」、望月遊馬「プチトマトがえくぼに見える日」(「Aa」2、2011年01月発行)
高塚謙太郎「スコヴィルの陽のもとで」は、何やらわけのわからない注釈(?)と数字が書いてあるが、私はわけのわからないことはわからなくてもいいことだと考える気楽な性分なので、その部分は無視する。
で、本文。
これが「わかる」かといえば、わからない。ぜんぜん、わからない。けれど、「染まらない名のらない」の音がおもしろい。「非戦」と「繊維」の響きもおもしろい。何よりも「それが鎖骨の精神と、酒そそぎ、そそり立つ、とがった耳、」という音がおもしろい。「そ」れが「さ」こつの「せ」い「し」んと、「さ」け「そ」「そ」ぎ、「そ」「そ」りたつ、の「さ行」の動きが楽しい。
そして、
私はこれにびっくりしてしまった。ここには「さ行」の音がない。けれど、これがぴったり耳に響くのである。「さ行」に埋もれている「た行」が、突然「さ行」の底から噴出してくる。さこ「つ」、せいしん「と」、そそり「た」「つ」。それが「と」が「っ」「た」と響きあう。「が行」も、それ「が」、そそ「ぎ」、と「が」ったと呼びあう。
もうこうなると、そこに書かれていることの「意味」は、適当に、後からやってくる。「兎」のような臆病な「もの」(少年?)が、何事かを隠れた状態で見ているのだ。隠れて見ているのだから、そこに起きていることははっきりとは見えない。見えない部分がある。どうしたって、そういうものを想像力で補ってしまうので、世界は歪んでいく--なんてことは書いてはいないのだが、私は、高塚に代わって、世界を歪めて見てしまうのだ。
「抱ける心」は「砕ける心」なのか。「抱きしめた心」が「砕ける」。それは誰の心? 他人ではなく、自分の心からもしれない。というような、センチメンタルとは無縁な、突然の「砥」。その一文字に、私はテラスに残された「砥石」を思ってしまった。それが見えてしまった。なぜ、砥石? あ、兎をね、つかまえて、包丁で捌いたのだ。兎を捌くために、包丁を研いだのだ--あら、こわい。そんなことは書いてないのに、私は、ここに書かれているのは、兎が見た恐怖の世界に見えてしまうのだ。
逃げて、逃げて、隠れて、隠れているときの心臓の鼓動が聞こえないようにしっかり抱きしめて押さえていたのに、見つかってしまって、食べられてしまう兎。
そんな兎を見た。あるいは、そんな兎の人生(?)を想像した昔……。
「きらきら」の「きら」ではなく「らき」。まるで、どの強い眼鏡で、世界を強引に網膜に焼き付けられたような、春の幻。高塚は、絶対、食べられる兎のことを書いているのだと思うなあ。その兎にかわって、ことばを動かしているのだと思うなあ。
あ、でたらめな「誤読」?
知っています。私は、高塚のことばを「誤読」しています。というか、正確に読もうという気持ちは私にはない。まるっきり、わからないのだから。「わかる」ための手がかりすら、私にはみつけられない。私は、ただ、音にひかれ、その音を中心にして、その音をもつことばを勝手につなぎ直している。
次の部分も好きだなあ。
すかさ「ず」、よこに「ず」れ。「じ」そく。
「す」か「さ」ず、じ「そ」くの、ご「さ」。
これは、私には「恋」の定義に思えるのだ。「恋」というのは、何かしらの「誤差」の蓄積。それは瞬時の「ずれ」。何かの錯覚--そこから、恋ははじまる。
わからないねえ。わからないけれど、吐息と毛深いうなじが、いやらしくていいなあ。「恋」だね、と思う。「恋」っていやらしいから、大好き、などと勝手に思うのだ。
究極の「恋」というのは、好きなものを「食べること」なんじゃないかな?
兎を食べたとき、きっと兎に恋している。
書いていないなあ。こんなことは高塚は書いていないなあ。だから、私は、そう読みたいのだ。高塚の書きたかったことを読みたいのではない。わけのわからないことばに出会いながら、私は、私の読みたいものは何か--それを探しているのだ。
こりかたまったことばをほぐして、とんでもないことを感じさせてくれる「音」としてのことば--それが高塚のことばのなかにある。
*
望月遊馬「プチトマトがえくぼに見える日」もわからなさでは同じである。わからないのだけれど、
あ、「丁寧」とはそういうことなのか、と直感的にわかる。実感する。この「丁寧」のつかいかたはいいなあ、と思う。ぐい、と「暮らし」をつかみどりにする力がある。
「丁寧」は、ここでは「毛糸を人差し指でいつくしむように結んだりほどいたりする。」ということばで言いなおされている。「人差し指」というこだわり、「いつくしむ」というこころの動き、「結んだりほどいたり」という繰り返し。
望月の書こうとしている「内容(意味)」はどうでもいい--と書いてしまうと望月に申し訳ない気がしないでもないのだが、私は詩の「内容(意味)」ではなく、「丁寧」というそのことばのつかい方そのものに、詩を感じるのだ。
望月のもう一篇の詩「地球儀のように行きだおれたい」の次の部分。
ここもいいなあ。「図工」はきっと小学校の「図工」のこと。これが中学へ行くと「美術」にかわる。なぜなんだろう。まあ、そんなことはいいのだけれど、図工と美術はたしかにつながっていないといけないね。つながっている「時代」(空間? 哲学?)がたしかにあるのだ。
そういうものを「丁寧」の力で望月はつかみとる。
作品の全体は私にはわからないが、そういう細部が私にはわかる。そんなふうに私は「誤読」する。
高塚謙太郎「スコヴィルの陽のもとで」は、何やらわけのわからない注釈(?)と数字が書いてあるが、私はわけのわからないことはわからなくてもいいことだと考える気楽な性分なので、その部分は無視する。
で、本文。
染まらない名のらない、ビロードの音波から受け取った一葉の非戦、そして繊維。まだまだ平面への憧れは語られずにいる、もうそうやって完爾完爾になって、ほう、それが鎖骨の精神と、酒そそぎ、そそり立つ、とがった耳、薄葉の陰からきょろきょろするのが、少年よ兎のハバネロ、の、ことも考えてみてほしい。
これが「わかる」かといえば、わからない。ぜんぜん、わからない。けれど、「染まらない名のらない」の音がおもしろい。「非戦」と「繊維」の響きもおもしろい。何よりも「それが鎖骨の精神と、酒そそぎ、そそり立つ、とがった耳、」という音がおもしろい。「そ」れが「さ」こつの「せ」い「し」んと、「さ」け「そ」「そ」ぎ、「そ」「そ」りたつ、の「さ行」の動きが楽しい。
そして、
とがった耳、
私はこれにびっくりしてしまった。ここには「さ行」の音がない。けれど、これがぴったり耳に響くのである。「さ行」に埋もれている「た行」が、突然「さ行」の底から噴出してくる。さこ「つ」、せいしん「と」、そそり「た」「つ」。それが「と」が「っ」「た」と響きあう。「が行」も、それ「が」、そそ「ぎ」、と「が」ったと呼びあう。
もうこうなると、そこに書かれていることの「意味」は、適当に、後からやってくる。「兎」のような臆病な「もの」(少年?)が、何事かを隠れた状態で見ているのだ。隠れて見ているのだから、そこに起きていることははっきりとは見えない。見えない部分がある。どうしたって、そういうものを想像力で補ってしまうので、世界は歪んでいく--なんてことは書いてはいないのだが、私は、高塚に代わって、世界を歪めて見てしまうのだ。
抱ける心、砕ける心、砕ける巣穴。下から見える鼻の穴、の伸び縮み、側面からのぞき見るテラスの午後、運命はリンパ腺に脱兎のごとくに染んでしま、え、砥。
「抱ける心」は「砕ける心」なのか。「抱きしめた心」が「砕ける」。それは誰の心? 他人ではなく、自分の心からもしれない。というような、センチメンタルとは無縁な、突然の「砥」。その一文字に、私はテラスに残された「砥石」を思ってしまった。それが見えてしまった。なぜ、砥石? あ、兎をね、つかまえて、包丁で捌いたのだ。兎を捌くために、包丁を研いだのだ--あら、こわい。そんなことは書いてないのに、私は、ここに書かれているのは、兎が見た恐怖の世界に見えてしまうのだ。
逃げて、逃げて、隠れて、隠れているときの心臓の鼓動が聞こえないようにしっかり抱きしめて押さえていたのに、見つかってしまって、食べられてしまう兎。
そんな兎を見た。あるいは、そんな兎の人生(?)を想像した昔……。
惑星は永遠にのびる涎のきらきら、のその、らき、の部分がインアウトと駆使され、モンスーンの覇権をつづる、指からにおいたつ、春のβ。
「きらきら」の「きら」ではなく「らき」。まるで、どの強い眼鏡で、世界を強引に網膜に焼き付けられたような、春の幻。高塚は、絶対、食べられる兎のことを書いているのだと思うなあ。その兎にかわって、ことばを動かしているのだと思うなあ。
あ、でたらめな「誤読」?
知っています。私は、高塚のことばを「誤読」しています。というか、正確に読もうという気持ちは私にはない。まるっきり、わからないのだから。「わかる」ための手がかりすら、私にはみつけられない。私は、ただ、音にひかれ、その音を中心にして、その音をもつことばを勝手につなぎ直している。
次の部分も好きだなあ。
恋。すかさず横にずれ、時速の誤差にこの国の安寧を、祈りを、切株を、
すかさ「ず」、よこに「ず」れ。「じ」そく。
「す」か「さ」ず、じ「そ」くの、ご「さ」。
これは、私には「恋」の定義に思えるのだ。「恋」というのは、何かしらの「誤差」の蓄積。それは瞬時の「ずれ」。何かの錯覚--そこから、恋ははじまる。
枝垂れ桜のよもどす吐息のその毛深いうなじに流し込み、やはりそこを血の源流とさだめて、足をくむ。クッキーのよう。
わからないねえ。わからないけれど、吐息と毛深いうなじが、いやらしくていいなあ。「恋」だね、と思う。「恋」っていやらしいから、大好き、などと勝手に思うのだ。
究極の「恋」というのは、好きなものを「食べること」なんじゃないかな?
兎を食べたとき、きっと兎に恋している。
書いていないなあ。こんなことは高塚は書いていないなあ。だから、私は、そう読みたいのだ。高塚の書きたかったことを読みたいのではない。わけのわからないことばに出会いながら、私は、私の読みたいものは何か--それを探しているのだ。
こりかたまったことばをほぐして、とんでもないことを感じさせてくれる「音」としてのことば--それが高塚のことばのなかにある。
*
望月遊馬「プチトマトがえくぼに見える日」もわからなさでは同じである。わからないのだけれど、
トマトの皮をむいていくような丁寧な日々ではあったけれども
あ、「丁寧」とはそういうことなのか、と直感的にわかる。実感する。この「丁寧」のつかいかたはいいなあ、と思う。ぐい、と「暮らし」をつかみどりにする力がある。
トマトの皮をむいていくような丁寧な日々ではあったけれども彼らが生きているということを知らないままだった。マフラーをまた編んでいたのは、母子とはちがう血のつながらない犬のためで、毛糸を人差し指でいつくしむように結んだりほどいたりする。
「丁寧」は、ここでは「毛糸を人差し指でいつくしむように結んだりほどいたりする。」ということばで言いなおされている。「人差し指」というこだわり、「いつくしむ」というこころの動き、「結んだりほどいたり」という繰り返し。
望月の書こうとしている「内容(意味)」はどうでもいい--と書いてしまうと望月に申し訳ない気がしないでもないのだが、私は詩の「内容(意味)」ではなく、「丁寧」というそのことばのつかい方そのものに、詩を感じるのだ。
望月のもう一篇の詩「地球儀のように行きだおれたい」の次の部分。
青空のもと、図工と美術がつながっていた。
ここもいいなあ。「図工」はきっと小学校の「図工」のこと。これが中学へ行くと「美術」にかわる。なぜなんだろう。まあ、そんなことはいいのだけれど、図工と美術はたしかにつながっていないといけないね。つながっている「時代」(空間? 哲学?)がたしかにあるのだ。
そういうものを「丁寧」の力で望月はつかみとる。
作品の全体は私にはわからないが、そういう細部が私にはわかる。そんなふうに私は「誤読」する。
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