詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

高塚謙太郎「スコヴィルの陽のもとで」、望月遊馬「プチトマトがえくぼに見える日」

2011-01-10 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
高塚謙太郎「スコヴィルの陽のもとで」、望月遊馬「プチトマトがえくぼに見える日」(「Aa」2、2011年01月発行)

 高塚謙太郎「スコヴィルの陽のもとで」は、何やらわけのわからない注釈(?)と数字が書いてあるが、私はわけのわからないことはわからなくてもいいことだと考える気楽な性分なので、その部分は無視する。
 で、本文。

染まらない名のらない、ビロードの音波から受け取った一葉の非戦、そして繊維。まだまだ平面への憧れは語られずにいる、もうそうやって完爾完爾になって、ほう、それが鎖骨の精神と、酒そそぎ、そそり立つ、とがった耳、薄葉の陰からきょろきょろするのが、少年よ兎のハバネロ、の、ことも考えてみてほしい。

 これが「わかる」かといえば、わからない。ぜんぜん、わからない。けれど、「染まらない名のらない」の音がおもしろい。「非戦」と「繊維」の響きもおもしろい。何よりも「それが鎖骨の精神と、酒そそぎ、そそり立つ、とがった耳、」という音がおもしろい。「そ」れが「さ」こつの「せ」い「し」んと、「さ」け「そ」「そ」ぎ、「そ」「そ」りたつ、の「さ行」の動きが楽しい。
 そして、

とがった耳、

 私はこれにびっくりしてしまった。ここには「さ行」の音がない。けれど、これがぴったり耳に響くのである。「さ行」に埋もれている「た行」が、突然「さ行」の底から噴出してくる。さこ「つ」、せいしん「と」、そそり「た」「つ」。それが「と」が「っ」「た」と響きあう。「が行」も、それ「が」、そそ「ぎ」、と「が」ったと呼びあう。
 もうこうなると、そこに書かれていることの「意味」は、適当に、後からやってくる。「兎」のような臆病な「もの」(少年?)が、何事かを隠れた状態で見ているのだ。隠れて見ているのだから、そこに起きていることははっきりとは見えない。見えない部分がある。どうしたって、そういうものを想像力で補ってしまうので、世界は歪んでいく--なんてことは書いてはいないのだが、私は、高塚に代わって、世界を歪めて見てしまうのだ。

抱ける心、砕ける心、砕ける巣穴。下から見える鼻の穴、の伸び縮み、側面からのぞき見るテラスの午後、運命はリンパ腺に脱兎のごとくに染んでしま、え、砥。

 「抱ける心」は「砕ける心」なのか。「抱きしめた心」が「砕ける」。それは誰の心? 他人ではなく、自分の心からもしれない。というような、センチメンタルとは無縁な、突然の「砥」。その一文字に、私はテラスに残された「砥石」を思ってしまった。それが見えてしまった。なぜ、砥石? あ、兎をね、つかまえて、包丁で捌いたのだ。兎を捌くために、包丁を研いだのだ--あら、こわい。そんなことは書いてないのに、私は、ここに書かれているのは、兎が見た恐怖の世界に見えてしまうのだ。
 逃げて、逃げて、隠れて、隠れているときの心臓の鼓動が聞こえないようにしっかり抱きしめて押さえていたのに、見つかってしまって、食べられてしまう兎。
 そんな兎を見た。あるいは、そんな兎の人生(?)を想像した昔……。

惑星は永遠にのびる涎のきらきら、のその、らき、の部分がインアウトと駆使され、モンスーンの覇権をつづる、指からにおいたつ、春のβ。

 「きらきら」の「きら」ではなく「らき」。まるで、どの強い眼鏡で、世界を強引に網膜に焼き付けられたような、春の幻。高塚は、絶対、食べられる兎のことを書いているのだと思うなあ。その兎にかわって、ことばを動かしているのだと思うなあ。
 あ、でたらめな「誤読」?
 知っています。私は、高塚のことばを「誤読」しています。というか、正確に読もうという気持ちは私にはない。まるっきり、わからないのだから。「わかる」ための手がかりすら、私にはみつけられない。私は、ただ、音にひかれ、その音を中心にして、その音をもつことばを勝手につなぎ直している。
 次の部分も好きだなあ。

恋。すかさず横にずれ、時速の誤差にこの国の安寧を、祈りを、切株を、

 すかさ「ず」、よこに「ず」れ。「じ」そく。
 「す」か「さ」ず、じ「そ」くの、ご「さ」。

 これは、私には「恋」の定義に思えるのだ。「恋」というのは、何かしらの「誤差」の蓄積。それは瞬時の「ずれ」。何かの錯覚--そこから、恋ははじまる。

枝垂れ桜のよもどす吐息のその毛深いうなじに流し込み、やはりそこを血の源流とさだめて、足をくむ。クッキーのよう。

 わからないねえ。わからないけれど、吐息と毛深いうなじが、いやらしくていいなあ。「恋」だね、と思う。「恋」っていやらしいから、大好き、などと勝手に思うのだ。
 究極の「恋」というのは、好きなものを「食べること」なんじゃないかな?
 兎を食べたとき、きっと兎に恋している。
 書いていないなあ。こんなことは高塚は書いていないなあ。だから、私は、そう読みたいのだ。高塚の書きたかったことを読みたいのではない。わけのわからないことばに出会いながら、私は、私の読みたいものは何か--それを探しているのだ。
 こりかたまったことばをほぐして、とんでもないことを感じさせてくれる「音」としてのことば--それが高塚のことばのなかにある。



 望月遊馬「プチトマトがえくぼに見える日」もわからなさでは同じである。わからないのだけれど、

トマトの皮をむいていくような丁寧な日々ではあったけれども

 あ、「丁寧」とはそういうことなのか、と直感的にわかる。実感する。この「丁寧」のつかいかたはいいなあ、と思う。ぐい、と「暮らし」をつかみどりにする力がある。

トマトの皮をむいていくような丁寧な日々ではあったけれども彼らが生きているということを知らないままだった。マフラーをまた編んでいたのは、母子とはちがう血のつながらない犬のためで、毛糸を人差し指でいつくしむように結んだりほどいたりする。

 「丁寧」は、ここでは「毛糸を人差し指でいつくしむように結んだりほどいたりする。」ということばで言いなおされている。「人差し指」というこだわり、「いつくしむ」というこころの動き、「結んだりほどいたり」という繰り返し。
 望月の書こうとしている「内容(意味)」はどうでもいい--と書いてしまうと望月に申し訳ない気がしないでもないのだが、私は詩の「内容(意味)」ではなく、「丁寧」というそのことばのつかい方そのものに、詩を感じるのだ。
 
 望月のもう一篇の詩「地球儀のように行きだおれたい」の次の部分。

青空のもと、図工と美術がつながっていた。

 ここもいいなあ。「図工」はきっと小学校の「図工」のこと。これが中学へ行くと「美術」にかわる。なぜなんだろう。まあ、そんなことはいいのだけれど、図工と美術はたしかにつながっていないといけないね。つながっている「時代」(空間? 哲学?)がたしかにあるのだ。
 そういうものを「丁寧」の力で望月はつかみとる。
 作品の全体は私にはわからないが、そういう細部が私にはわかる。そんなふうに私は「誤読」する。


さよならニッポン
高塚 謙太郎
思潮社
キョンシー電影大全集 -キョンシー映画作品集-
田中 克典,望月 遊馬,長田 良輔
パレード


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トニー・スコット監督「アンストッパブル」(★★★★)

2011-01-10 13:41:02 | 映画
監督 トニー・スコット 出演 デンゼル・ワシントン、クリス・パイン、ロザリオ・ドーソン

 ★4個は大甘の採点かなあ……。正月映画は「武士の家計簿」「最後の忠臣蔵」はおもしろかったが、洋画には印象的なものがない。で、思わず★4個になってしまった。
 この映画でおもしろいというが、うまいもんだねえと思ったのが、デンゼル・ワシントンの機関車がバックで走ること。そうすると運転士はいつもバックミラーを見ていないといけない。で、カメラは走る機関車を横から(並走する形で)撮るのだけれど、そのとき必然的にデンゼル・ワシントンの顔がカメラの正面を向く。あ、やられたあ、と私は映画づくりとはなんの関係もないのだけれど、思っちゃいましたねえ。普通は、運転士は前を向いて運転する。その顔を正面から撮ると、背景はいつも運転席の後ろ。ぜんぜん風景が変わらないからね。走っている感じがしないからね。走る機関車を横から撮るとき、必然的に風景が入る。その風景の背景にして主役の顔が正面を向いている。これは高等テクニックだなあ。(これで、私は★1個余分につけてもいいかな、という気持ちになったんです。)
 映画は予定調和的な展開。走る貨車をみせるだけなんですが……。そして、あとくされなく、一気に90分で終わるのだけれど。
 ここで苦情というか、欲張りなことを言うと。
 貨物列車をもっとセクシーにしてほしかったなあ。たとえば、スピルバーグの「激突!」。トラックがまるで人間みたいな表情をしていたなあ。この映画では、スピード感はあるのだけれど、意外とはらはらしない。どうしてだろうと、いえば、暴走する貨物列車に「人格」のようなものを感じることができないから。--無人で、ブレーキが故障して、ただ走っているだけなのだから「人格」がないといえばそれまでなのだけれど、うーん、でもやっぱり「人格」がほしい。にくらしさがほしい。怖さがほしい。人間なんかに負けてたまるか、巨大な器械なんだぞ、という乱暴な自己主張があるといいなあ。脱線装置を壊して走るシーンなんかにそういうものを紛れ込ませることはできたと思うのだけれど。
 それから。
 ブレーキがかかって止まるとき、そのとき残念な表情がほしいなあ。デンゼル・ワシントンたちに負ける(?)のはわかりきっている。わかりきっているのだけれど、あ、負けてしまった、悔しい、という感じ、息切れがする感じ、あえぐときの苦しい息づかいがあると、この映画はすごくなる。傑作になる。
 映画はたとえ「もの」をとっても「もの」が人格をもたないかぎり、B級。「もの」が人格をもつと、はらはら、どきどきが強まり、突然A級映画になる。あの「2001年宇宙の旅」も、「ハル」が人格をもって人間に反乱するから傑作になっている。人格、というのは、「顔」でもあるね。「エイリアン」も、変な化け顔をもっているし、「ジョーズ」も顔をもっている。でも、この映画の貨物列車は顔をどこかに置き忘れている。暴走列車なのだけれど、どこかで暴走のスローモーションがあればよかったのかもしれない。スローの方がスピードを感じるということもあるのだから。
 で、もし、そういう貨物列車を撮ることができたとしたらの仮定ことだけれど、デンゼル・ワシントンは顔が優等生過ぎて、やっぱりだめだろうなあ。もっと悪の強い顔がほしいなあ。この映画には。成功するのはわかっているのだけれど、失敗するのもおもしろいかな、と感じさせる顔がほしいなあ。

 どうも、私は欲張りな観客みたいだ。





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