詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

粕谷栄市「笛」、財部鳥子「蒼耳(ツァンアル)」

2011-01-14 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
粕谷栄市「笛」、財部鳥子「蒼耳(ツァンアル)」(「鶺鴒」κ冬号、2011年01月10日発行)

 粕谷栄市「笛」は詩集『遠い 川』(思潮社)の1篇である、と言われたら、そうだと信じてしまう。どこに違いがあるかわからない。『遠い 川』の作品群自体、どれがどれだか私にはもうわからなくなっている。まったく同じである。

 声を上げる間もなく、笛は、ゆらゆら、湖の水のなかに沈んでゆき、やがて、
そのまま、見えなくなった。
 この世には、一度、それを失うと、ふたたび、取り戻しようもないものがあ
る。ゆらゆら、揺れながら、笛は、優しく、そのことを伝えて、暗い水に消え
ていった。
 月明かりの湖も、舳の灯も、長い黒髪の女も、もとより、私の愛憎の果ての
幻のようなできごとだったから、そんなことがあっても、しかたがなかったの
だ。

 そこに書かれているのは「幻」なのか、「現実」なのか。粕谷は区別をしない。幻と現実の区別は、意味を持たない。それが幻であろうが現実であろうが、ことばが動く。そのことばの動きは、対象が何であれ、同じなのだ。
 もう粕谷のことばはほかに動きようがない。そう感じさせる。どう動いても同じことを書いてしまう。--そして、この変わりなさがとても強烈である。まったく違うことを書いているのに(書かれている題材は毎回違うのに)、同じ動きをする。
 その「同じ」のなかに、永遠がみえる。
 永遠の定義はむずかしい。きっと、どう書いてみても間違うことになるのだろう。だから、それを私は定義しない。ただ、粕谷の「同じ」ことばの動きのなかに、永遠がみえると断定してしまう。
 最初に、そのことに気がついたのは、いつだったのか。砂丘で老人が踊っている詩を読んだときかもしれない。それは何年も前なのか、きのうなのか、あるいは明日なのか。どうも、あやふやである。読んでいないのかもしれない。そんな詩などどこにもない。あるのは、いま、ここに、こうして読んでいる詩だけであり、そのほかは、みんな私が勝手に読み違えたことばが動いているだけなのかもしれない。
 そんな、ありえないことを、私は思ってしまうのである。

 もう書くまい。粕谷の詩については、もう書くまい。粕谷の詩について書くかわりに、もっとほかのひとの詩を読んだときの感想を書こう--いつもそう思うのだが、読むと、どうしても書きたくなる。何か新しい発見(感想)が書けるとは思わないのだが、なぜかしら、読んだということだけでも書いておかないと、何か大切なものを手のひらからこぼしているような気持ちになるのだ。



 財部鳥子「蒼耳(ツァンアル)」は、病気で薬を飲んでいるときのことを書いている。中国にいたときの、幼い日の思い出である。

陳先生の煎薬をコップからもらってきてわたしに飲ませた母
それから筋向いの漢方の店で
「蒼耳」と「薄荷」を処方してもらった
まいにち白い粥を食べる
煎じた「蒼耳」と「薄荷」を飲む

「蒼耳」の小さな実には棘があって
狼の背に乗って移動するということだった
そして振り落とされたところで繁殖する

そのころのわたしは 粥と漢方
やさしい植物だけで出来ていた
猫のように「薄荷」で酔って寝ていた
空には耳があると思っていた

 この最後の1行がとても好きだ。
 この詩では、財部が、なぜ「空には耳があると思っていた」のか、具体的には書かれていない。次のページをめくると、別の詩がはじまり、私は思わず、そのページ表・裏の間に別のページがあるのではないか、と紙をこすって、剥がそうとしたくらいである。突然さにびっくりし、その突然の向こう側にあるもの(財部の側にあるもの)を絶対に見たいと思ったのだ。それくらい、好きになったのだ。

 でも、ここには何も書かれていない。
 書かれていないけれど--書かれている、とも私は感じる。私は「誤読」するのだ。私は「蒼耳」というものを知らない。財部の書いていることばから推測すると、草か藪(木)の実であるだろう。それはイヌダテのように狼の背中(体)にくっついてどこかへ行く。(行くのは狼だけれど。)そして、どこかで大地に根付き、そこで生きる。
 その「蒼耳」の運命を想像するとき、財部は「蒼耳」そのものになっている。狼の背中にとって、ここではないどこかへ行って、そこで元気に、真新しい命を生きるのだ。病気の体で、そういう夢を見ている。
 そして、どこともわからない広い野原で「蒼耳」になって成長していくとき、財部の肉体は空にまで届く。そして、空で、「耳」になる。「蒼耳」は「蒼空」の「耳」であり、財部は「空」の「耳」になって、大地の「蒼耳」を見下ろしている。(耳が見下ろすというのは、変だけれど、そういう変なことが可能なのが詩なのである。)
 あるいは、だれもいない大地で「蒼耳」になってそよぐとき、その「耳」は「蒼空」を渡っていく「声」を聞く。その「声」は「蒼耳」は狼の背中に乗って遠くへゆき、そこで新しい命になるという物語を語っている。
 どっちでもいい。
 病気で寝ている財部を超えて、「蒼耳」ということばのなかにある「耳」が、遠くへ行って、そこで何かしらの夢をみる、夢の物語を聞く……。
 その、ここに書かれていない「声」が最後の1行から、ふいに聞こえてきた。私は、そう感じたのだ。

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続・粕谷栄市詩集 (現代詩文庫)
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コメント (3)
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