詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

浜江順子「足舐輪廻」、野村喜和夫「眩暈原論(その4)」ほか

2011-01-11 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
浜江順子「足舐輪廻」、野村喜和夫「眩暈原論(その4)」ほか(「hotel 第2章」26、2011年01月10日発行)

 「hotel 第2章」26では「エロス」を特集している。あ、なつかしい。これが同人誌だなあ、と思う。ことばを競ってみる。こんなふうにことばを動かせるんだぞ、と思ってもいないことを書いてみる。思ってもいないことを書いていても、どこかに「ほんとう」があらわれてくる。--か、どうかは、まあ、そのときの運次第だね。
 その特集のなかでは、浜江順子「足舐輪廻」がおもしろかった。

女は男のない足を夢想しながら、男の足を舐める。男は足があるかのように悦楽すると、死の断片が雪が降り積もるように、積み重なり、いつしか苦行の行為になっていく。

 笑ってしまったのである。おもしろくて。おかしくて。
 できることなら、「女は男のない足を夢想しながら、男の足を舐める。」ではなくて「女は男のない足を舐める。」と「夢想しながら」をやめてもらいたかったなあ。「夢想しながら」だと、想像力が肉体を動かしていく。想像力が「エロス」を駆り立てながら肉体を動かしていく。
 でも、これが浜江のいつものセックスなんだろうなあと思った。ちょっと「のぞき見」をしてしまったような錯覚に陥るのである。
 男の方も、「足があるかのように悦楽する」のか。
 女が「夢想」し、男が「装う」。
 そして、男にはその「装い」(うそをつくこと--肉体をかりたてること)が「苦行」である。それを女は、「あ、苦行をやっている」と感じてしまう。
 ケッサクだなあ。

 私の感じでは「女は男のない足を舐める。」と書いてしまうと、「想像しながら」ということばは「肉体」のなかにのみこまれ、消える。そして、肉体が想像力を封じ込めることによって、想像力が暴走すると思うのだ。想像力が肉体のなかで、ことばにならずに爆発するのだと思う。エクスタシーだね。
 女ではないので、女のことはわからないが、射精すまいと思っても射精してしまうのが男のエクスタシーだね。ここで射精すると思いながら射精するなんて、そんなことをしたって、なんにもならない。うまい具合に射精の瞬間をコントロールできた--なんていうのはばかばかしい自己満足。相手なんか気にせずに暴走すればいい。そうすれば、相手だって、負けまいと思って暴走する。互いに自分ではなくなってしまう。知らない他人になってしまう。それがエロスだろうなあ。
 射精すまい、堪えようと思って、それでも射精してしまう。このとき、裏切っているのは肉体? それとも感情? わからない。このわからなさのなかにこそ、「ほんとう」があるのだと思うけれど、--こんなところで、私自身のエロス論を書いてもしようがないかもしれない。
 浜江の詩のつづき。

エクスタシーは、指先を抑圧させ、過去への装置をコトリと内在させる。そこは潜む蚊を凍らすほどに、情熱の中に氷の刃がある。氷の情熱は鉱物となり、緻密な理性を欲望に埋め込む。

 「情熱の中に氷の刃」、「氷の情熱」--この矛盾に、エロスがある、と浜江は書く。たしかに矛盾の中にエロスはあると思うけれど、そこに書かれていることは、あまりにも「ことば」すぎる。「頭」でつかみとってきた「エロス」だね、これは。「抑圧」「装置」「緻密な理性」「欲望」。--こういう「ことば」って、セックスのとき思い浮かぶ? 思い浮かばないなあ。そういうことばは「肉体」のなから生まれてきた「声」には乗らない。あえぎで、つまり、母音だけで、抑圧、装置、緻密な理性、欲望と言ってみるとわかる。「頭」がよそから借りてきたことばなので、「声」にならないのだ。
 ここには、浜江のセックスの夢、かなえられないエロスが書かれている。それを書くために、浜江は、ことばをどこかから借りてきている。そういう印象が残る作品である。

 野村喜和夫は「オルガスムス屋、かく語りき」という作品を書いている。

オルガン、織る、織る蛾、
ガガガッ、おる、ん、
おるん、おろろん、おるよ、
おれが、ここにおるよ、
おれが、織るよ、折るよ、
織る蛾、折る牙、
おれが、おるが、がが、ガッス、
織るガス、織るガス、すか、すが、
すが、カス、スカスカ、滓、
すがすがしい、巣、織る蛾、
織るよおれが、
澄む巣、住む巣、
すがすがしい巣、ガッス、
ス、素、巣、すむ、
すむ、澄む、住む、
蛾すむ、ガガ住む、すむーす、
巣、無、無っす、蒸す

 ここに書かれていることばは「でたらめ」である。浜江のように「論理」をもっていない。文脈を、ことば自身はもっていない。けれど、そのかわりに、野村の肉体が文脈をもっている。肉体の中にことばにならない文脈があり、それがとぎれとぎれの「オルガスムス」の「音」を、あえがせている。「意味」をことば自身の文脈から剥奪し(強奪し、強姦し?)、ことばを破壊している。
 で、そのとき、そこにあるのは、ことば? 肉体?
 なんだからよくわからない。そのよくわからないことろが、エロスなんだなあ。
 「かす、スカスカ、滓」なんて、あらら、野村さん、お年寄りになったんだねえ、射精は滓を残すようじゃだめだよ。最後の一滴まで飛ばさないと、なんてからかいたくなるようなことばがある。
 どんなにがんばっても、ことばには「ほんとう」があらわれてしまう--と書くと、あ、怒られるかなあ。
 でも書いてしまったから、私は消さないのだ。
 この詩について、欲を書かせてもらうなら、音が音そのものになっていない、という感じが私にはどうしても残ってしまう。谷川俊太郎なら、同じことを、同じ方法で、もっと「音」そのものとして音楽にするだろうなあと思うのだ。
 野村のことばには「音楽」の「楽」が書けているような感じがする。



 野村喜和夫「眩暈原論(その4)」は、最後の部分がおもしろい。

重さの核と軽さの花びらとは、ひとつに渦巻く星雲である。底知れぬ墜落の痕跡が、硬く柔らかく、眩暈主体のうちにある。さんさんと失われてあれ、散るこめかみよ、かすむ仙骨よ。すると苦悩は、たちまちデミウルゴス的な陶酔を装われて。言い換えるなら、眩暈のただなかに眼が固定されると、今度はその眼が、中性子星のビームを放ち、まわりを動かす。眼なんかまわるのもか、まわっているのはまわりだ、眼のまわりで宇宙がものすごくまわるんです。

 借りてきたことば--肉体の外からやってきたことばも、ここまで動き回ると、もう「頭」を離れて、「肉体」そのものになる。ことばをつないでいるのは「意味」の文脈ではない。音を声にだすとことばになる、というよろこび--肉体の歓喜である。
 ここに、野村のエロスとエクスタシーがある。いいかえると、そこにあるのは、ことばなのか、あるいは肉体なのか分別できない状態がある。
 私は、こういう未分別なものか大好きだ。



飛行する沈黙
浜江 順子
思潮社

街の衣のいちまい下の蛇は虹だ
野村 喜和夫
河出書房新社

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コメント (2)
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