詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

伊藤悠子「あなたにあうためには」

2011-01-02 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
伊藤悠子「あなたにあうためには」(「左庭」18、2010年12月20日発行)

 伊藤悠子「あなたにあうためには」は読みはじめてすぐ、とても気に入った。1行を読んだ瞬間から次の行を読みたくなった。音が気持ちがいいのである。

アウローラ、あかつきのひかりよ
あなたにあうためには
はるばるといきてこなければならなかったのだろう
たどたどしくならねばならなかったのだろう

 「アウローラ」の最初の「あ」の音が「あ」かつき、「あ」なた、「あ」うと繰り返される。「アウローラ」が何を指すのかわからないが(たぶん、すぐあとで繰り返されている「あかつきのひかり」だろうと思うけれど)、私にとっては、それはわからなくてもかまわない。書いている伊藤には申し訳ないが、私は「意味」にひかれて読みはじめるわけでも、読みつづけるわけでもない。私がことばを読みつづけるのは、そのことばの「音」が私にとって気持ちがいいかどうかが一番重要である。私は黙読しかしないが、その黙読のとき、私の肉体の中で音が生まれる。自然にのどが動く。舌も動く。声帯が緊張したり緩んだりする。その感じがそのまま耳に伝わる。そして、そのときの肉体の反応が私にはとても重要である。気持ちよくないと、あとを読む気がしないのである。
 この詩は「アウローラ」という不思議な「あ」のゆらめきのような音がおもしろいし、それにつづく「あ」の繰り返しがうれしい。
 そして3、4行目では「あ」の音から一転して別なものになる。
 それぞれの行の頭では「はるばる」「たどたどしい」と濁音の多い音が繰り替えされ、行の終わりでは「ねばならなかったのだろう」が繰り返される。
 ことばの音楽が一気に広がって豊かになる。
 この豊かさの印象を土台にして、ことばはさらに別な音を探しはじめる。

まだみえない目には
まなざしがあり
ほのかにふかいまなざしは
しらせをきいて
おとずれたものをなでた

 「ま」だ「み」えない「め」には/「ま」なざしがあり、という「ま行」揺らぎ。そしてそれを「ほのかにふかい」と「ま行」を含まない音で破って「ま」なざしは、と再び「ま行」へ帰ってくる。
 「まなざし」が繰り返されたあと、そのことばのなかの「し」が選ばれて「し」らせをきいてということばへつながる。「ま行」から「さ行(ざ行)」へと音が動いているように感じられる。まな「ざ」「し」、おと「ず」れ。それから、なでるが絶妙である。なでるのなかに、な「ぜ」るという訛りの「ざ行」の誘いと、その誘いを拒絶する動きがある。「ざ行」を拒絶した音は、

やがて目がみえるようになれば

 と、「な」の音を選ぶ。「な」でた、「な」れば。(「で」という音と「れ」という音は、「ぜ」と「で」と音と似た感じの距離にある。)
 いちいち説明しているときりがないけれど、こういう感じで「音」が揺れ動いていくのだ。次のように。

そのまなざしは
あなたのたましいのふかいところでしだいにしまわれ
あなたじしんをてらすだろうか
それとも
ときおりこぼしてくれるだろうか
はるばるといきてきたものは
たどたどしくなったものは
いくどもつぶやいたよ
ほっとした
ほっとしたね
ただそれだけのことを
まるでじぶんたちのあしのはこびをこしかめあうようにね
アウローラ、あかつきのひかりよ
まだなまえももたない
あなかにあったあさのことだよ

 最後は、冒頭の「あ」が繰り返される。とてもうれしい。私の肉体はこのなつかしい響きに酔ってしまう。「あ」の繰り返しのあと「ことだよ」と「お」の音をたくさん含んだことばと「だ」という濁音の豊かさが響き、なんといえばいいのだろう、長調の音楽が「ド」の音をゆっくり響かせて終わるような自然な落ち着きがある。

 で、ちょっと補足すると……。

 この「アウローラ」が何であるのか(あかつきのひかりなのか、それとも神の別の名前なのか)知らないが、そういうちょっと「不明のもの」をしっかりと呼び込むというか、自分の肉体になじませるためには、この詩で伊藤が実践しているような「繰り返し」と揺らぎがとても効果的だと思う。
 神(あるいは信仰の教義)というものは、その真理にたどりつけない。しかし、たどりつけなくても、その「ことば」を繰り返していると、ことばとともに「肉体」のなかでそれなりに「形」をとりはじめるものなのだ。肉体が、ことばではたどりつけないものを、なぜか納得してしまうのだ。そういう状態に達するために、ことばは「声」を通らなければならないのかもしれない。「声」を通ることで、「ことば」は「意味」とは別な形で「真理」に触れるのだ。それは、「真理」を求めるという運動のなかにある渇望、本能の「真理」かもしれない。幸せになりたいという願う本能としての「真理」かもしれない。それはきっと神の「真理」と呼応している。
 伊藤の書いていること、「アウローラ」が何かはわからないけれど、それに向き合うときの伊藤の「真理(真実)」、正直というものが、この詩の美しい音楽のなかにある。それを、とても強く感じた。






詩集 道を小道を
伊藤 悠子
ふらんす堂
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

誰も書かなかった西脇順三郎(166 )

2011-01-02 11:49:52 | 誰も書かなかった西脇順三郎
 『豊饒の女神』のつづき。
 だれの詩にも、まったくわからない行(ことば)というものがある。西脇の詩の場合、「わかる」といえる行の方が少なく、私はかってにわかったつもりになっているだけなのだが、そのかってにわかったつもりにもなれない行があるから、ちょっと自分がいやになるときがある。
 「九月」。

またカマクラへもどつた
戦争の時代には朝に道をきいて
金沢街道をまがると
茄子に水をやる
あの老人のまがつた足などを
ほこりのいたどりとともに見れば
夕に死ぬもかなり
すべて思い出である
つまらないものだけが
永遠のイメジとして残る
それはローソクを買いに出たのだ
昔のように茄子ときうりとみょうがを
きざんで醤油をかけて
白シャツをきてたべてみたい

 「つまらないものだけが/永遠のイメジとして残る」の「つまらない」は別のことばで言えば「淋しい」だろう。その「淋しさ」に「まがつた(まがる)」が同居するのは西脇の特徴である。
 そう理解した上で、

それはローソクを買いに出たのだ

 この1行が私にはまったくわからない。何を読み違えたのだろう。私はカタカナ難読症だからもしかしたら「ローソク」は「ろうそく(蝋燭)」ではないのかもしれない。そう思って何度か読み返すが、どうみてもローソクである。
 戦争の時代、夜停電があり(あるいは灯火規制があり電灯がつかないことがあり)、明かりが必要なのでろうそくを買いに行ったということだろうか。そう解釈すれば「意味」は通じるが、なんとも窮屈である。朝に道をきいて夕に死すという文脈からも「夜(ろうそく)」が出てくる余地はないように思える。
 これはいったい、何?
 わからない行を含むのだが、私は、実はこの部分がとても好きだ。「永遠」の定義が好きだし、「ローソク」のあとの3行が、とてもしゃきしゃきした音でつくられていて気持ちがいいのだ。「き」うり、「き」ざんで、白シャツを「き」ての「き」がつくりだすリズムが気持ちがいい。みょうが、醤油、シャツにも通い合う音がある。
 なぜ「白シャツをきて」という味とは無関係なことばがあるかといえば、もちろん書き出しの

つくつくぼうしが
もう鳴いている
断頭台に行く囚人のように
白いシャツ一枚をきてポプラの
なみき路をひとり歩く

と関係するのかもしれないが、そんな絵画的なこだわりよりも、「白シャツ」という音そのものが私には美しく感じられる。「白いシャツ」ではなく「白シャツ」というのもいいなあ。ことばが短くなって、その分、次のことばの登場が早くなる。この速度感が楽しい。




詩集 (定本 西脇順三郎全集)
西脇 順三郎
筑摩書房


人気ブログランキングへ
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする