荒木時彦『sketches』(書肆山田、2010年12月20日発行)
荒木時彦『sketches』は風変わりな詩集である。詩集というより短編小説と思った方がいいかもしれない。複数の人物が出てくる。隣人らしい。隣人と言っても距離がまったくわからない。--そして、私はいま「距離がわからない」と書いたのだが、この「距離」というは、荒木の場合、「離れている」ではなく「くっついている」のである。からみあっているのである。
詩をことこまかに分析するのはかなりめんどうなので(特に私の場合、荒木の作品に登場する人物ではないけど視力に限界があるので)、はしょって書いてしまうのだが……。たとえば登場人物を、ABCと仮定する。そのAとBは別人のはずであり、別々の家に住んでいるのだが、それぞれを特定する刻印というものをもたない。区別がつかない。そのために、ほんとうは離れているのに、くっついてみえてしまう。
たとえば、
このことばを発したのはだれだろう。目の見えなくなった機織り職人(A)だろうか。隣人(B)だろうか。あるいは娘(C)だろうか。娘のこども(孫)だろうか。--ページを順に繰っていけば、機織り職人のような気がするが、そうでなければならない理由など何もない。
私はたまたまページを最初から繰り、ページの順に荒木のことばを読んでいるが、それは私のつくりだした「時間軸」であって、荒木、あるいは荒木のことばの発話者の「時間軸」とは無関係である。
私たちは、「いま」「ここ」に生きている人間が同じ「時間軸」を生きていると考えがちだが、同じ「時間軸」を生きているという保証はまったくない。目の前のひとが、私のまったく想像もしなかった「過去」を目の前に繰り広げても、それを防ぐ方法などない。それぞれの人間の「時間」は「離れている」のか「くっついている」のか、その距離感はあるようでもあるし、ないようでもあるのだ。
--そんなことが、あっていいのか。
いいか、悪いかは、とてもむずかしい。けれど、いま、ここに、荒木のことばがあることは「事実」である。(事実ではない、と強引にいうこともできるかもしれないが。)
そして、そのことばは、あらゆる「時間軸」を拒絶している。短編小説--物語なのに、ストーリーに従属することを拒絶して、ばらばらになったページのように存在している。そして、遠く離れたページと接続することを渇望しているようにもみえる。ページはとじられているが、そのとじられていることが逆にほんとうはばらばらなのだということを意識させるようである。
言い換えると、詩集は、1ページ目と2ページ目を繋げて読みなさい。そこに一定の「距離」があると仮定して読みなさいと命じているのだが、ことばは、とりあえず、いま、ここにあるだけであって、ほんとうの「接続」(あるいは切断)は、また別の形でこそ存在すると、それぞれの断章が語っている。まるで、絶望のように。透明に。そのことばは、ページのとじ糸を拒絶しているのだ。
別なことばでいえば、ことばは、ストーリーに従属することを拒絶して、そこで孤立している。そういうページがいくつもある、というだけなのである。
孤立する文体。--荒木が試みているのは、それかもしれない。ストーリーを拒絶し、孤立する。
孤立は「距離」ではなく、「距離」そのものをも拒絶した存在形式である。「離れている」のではなく、何とでも「くっくつ」権利をもったまま、ストーリーの時間を中断させる形式なのである。
その形式を、荒木は、詩と定義しているのかもしれない。
ふいに登場する「哲学的時間」。これを先に引用した部分に接続するとどうなるか。あるいは、先に引用した部分から切断するとどうなるか。
これは、とてもむずかしい問題だ。
たぶん、何もしないで、そこにそのまま、そのことばが存在するにまかせておけばいいのだろう。孤立させておくしかないのだろう。もし何かに接続させなければならないとしたら、それは他の断章ではなく、読者一人一人の個人的事情と接続させるべきなのだ。あるいは、読者が、そのことばを自分の内部から切り離し、そこにほうりだすべきなのだ。それを読むことによって。
接続も切断も、先の引用部分を回避し、別の断章(スケッチ)との間でも関係を回避し、ただ、読み手の肉体のなかの断章と接続させる--そのとき物語(ストーリー)は豊かになるだろう。読者のものになるだろう。
筆者のことばを読者の体験でからめとることを「誤読」というが、「誤読」以外に、ここに書かれていることばを接続させる方法はない。
孤立したことば同士の「距離」は、あって、ないのだ。
それは、孤立することで、あらゆることばに対して開かれるということでもあるのだ。拒絶と受容は矛盾した概念だが、詩においては、矛盾というものは存在しない。
詩そのものが矛盾であるから。
*
この詩集は、もしかすると、耳でことばを聞きとれるひとには、もうひとつ別の姿をみせるかもしれない。
人それぞれには「声」がある。それぞれの断章の距離を私はつかみかねたが、それは文字を読むからかもしれない。そこに「声」を聞き取るなら、また別個の空間が新しい距離とともに浮かび上がるだろう。どの断章がどの断章と「和音」をつくっているのか、はっきりと聞き取れるだろう。そこに、くっきりした音楽が浮かび上がってくるだろう。
このスケッチから「声」の距離をつかみ取るには、私の耳は役に立たない。私は音痴だった--とあらためて思い知らされた。
いつか、もっと耳の力が強くなったら、この詩集をもう一度読み返してみたい。
荒木時彦『sketches』は風変わりな詩集である。詩集というより短編小説と思った方がいいかもしれない。複数の人物が出てくる。隣人らしい。隣人と言っても距離がまったくわからない。--そして、私はいま「距離がわからない」と書いたのだが、この「距離」というは、荒木の場合、「離れている」ではなく「くっついている」のである。からみあっているのである。
詩をことこまかに分析するのはかなりめんどうなので(特に私の場合、荒木の作品に登場する人物ではないけど視力に限界があるので)、はしょって書いてしまうのだが……。たとえば登場人物を、ABCと仮定する。そのAとBは別人のはずであり、別々の家に住んでいるのだが、それぞれを特定する刻印というものをもたない。区別がつかない。そのために、ほんとうは離れているのに、くっついてみえてしまう。
たとえば、
記憶と事実が違うことについて、現実的な問題がなければ、それはとりあえず置いておけばよいということだ。それは、問題の棚上げではなく、鷹揚さもときには必要だということだ。間違いがあれば、友人が正してくれる。
このことばを発したのはだれだろう。目の見えなくなった機織り職人(A)だろうか。隣人(B)だろうか。あるいは娘(C)だろうか。娘のこども(孫)だろうか。--ページを順に繰っていけば、機織り職人のような気がするが、そうでなければならない理由など何もない。
私はたまたまページを最初から繰り、ページの順に荒木のことばを読んでいるが、それは私のつくりだした「時間軸」であって、荒木、あるいは荒木のことばの発話者の「時間軸」とは無関係である。
私たちは、「いま」「ここ」に生きている人間が同じ「時間軸」を生きていると考えがちだが、同じ「時間軸」を生きているという保証はまったくない。目の前のひとが、私のまったく想像もしなかった「過去」を目の前に繰り広げても、それを防ぐ方法などない。それぞれの人間の「時間」は「離れている」のか「くっついている」のか、その距離感はあるようでもあるし、ないようでもあるのだ。
--そんなことが、あっていいのか。
いいか、悪いかは、とてもむずかしい。けれど、いま、ここに、荒木のことばがあることは「事実」である。(事実ではない、と強引にいうこともできるかもしれないが。)
そして、そのことばは、あらゆる「時間軸」を拒絶している。短編小説--物語なのに、ストーリーに従属することを拒絶して、ばらばらになったページのように存在している。そして、遠く離れたページと接続することを渇望しているようにもみえる。ページはとじられているが、そのとじられていることが逆にほんとうはばらばらなのだということを意識させるようである。
言い換えると、詩集は、1ページ目と2ページ目を繋げて読みなさい。そこに一定の「距離」があると仮定して読みなさいと命じているのだが、ことばは、とりあえず、いま、ここにあるだけであって、ほんとうの「接続」(あるいは切断)は、また別の形でこそ存在すると、それぞれの断章が語っている。まるで、絶望のように。透明に。そのことばは、ページのとじ糸を拒絶しているのだ。
別なことばでいえば、ことばは、ストーリーに従属することを拒絶して、そこで孤立している。そういうページがいくつもある、というだけなのである。
孤立する文体。--荒木が試みているのは、それかもしれない。ストーリーを拒絶し、孤立する。
孤立は「距離」ではなく、「距離」そのものをも拒絶した存在形式である。「離れている」のではなく、何とでも「くっくつ」権利をもったまま、ストーリーの時間を中断させる形式なのである。
その形式を、荒木は、詩と定義しているのかもしれない。
疑うということは、それが是か否かについて迷うことだ。人はそれを確かめた時点で納得する。もし確かめられなければ、そのうち忘れられてしまうこともあるであろう。しかし、疑い続けるということは可能である。一生をかけて。自分の生の是否について。
ふいに登場する「哲学的時間」。これを先に引用した部分に接続するとどうなるか。あるいは、先に引用した部分から切断するとどうなるか。
これは、とてもむずかしい問題だ。
たぶん、何もしないで、そこにそのまま、そのことばが存在するにまかせておけばいいのだろう。孤立させておくしかないのだろう。もし何かに接続させなければならないとしたら、それは他の断章ではなく、読者一人一人の個人的事情と接続させるべきなのだ。あるいは、読者が、そのことばを自分の内部から切り離し、そこにほうりだすべきなのだ。それを読むことによって。
接続も切断も、先の引用部分を回避し、別の断章(スケッチ)との間でも関係を回避し、ただ、読み手の肉体のなかの断章と接続させる--そのとき物語(ストーリー)は豊かになるだろう。読者のものになるだろう。
筆者のことばを読者の体験でからめとることを「誤読」というが、「誤読」以外に、ここに書かれていることばを接続させる方法はない。
孤立したことば同士の「距離」は、あって、ないのだ。
それは、孤立することで、あらゆることばに対して開かれるということでもあるのだ。拒絶と受容は矛盾した概念だが、詩においては、矛盾というものは存在しない。
詩そのものが矛盾であるから。
*
この詩集は、もしかすると、耳でことばを聞きとれるひとには、もうひとつ別の姿をみせるかもしれない。
人それぞれには「声」がある。それぞれの断章の距離を私はつかみかねたが、それは文字を読むからかもしれない。そこに「声」を聞き取るなら、また別個の空間が新しい距離とともに浮かび上がるだろう。どの断章がどの断章と「和音」をつくっているのか、はっきりと聞き取れるだろう。そこに、くっきりした音楽が浮かび上がってくるだろう。
このスケッチから「声」の距離をつかみ取るには、私の耳は役に立たない。私は音痴だった--とあらためて思い知らされた。
いつか、もっと耳の力が強くなったら、この詩集をもう一度読み返してみたい。
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