粕谷栄市「来世」(「現代詩手帖」2011年01月号)
粕谷栄市「来世」は詩集『遠い 川』(思潮社)の続編(?)のような作品である。まだ『遠い 川』について書きたいことがあるのだが、新しい作品を読むと、先に新しい感想を書きたくなる。
人間は不思議なものである。「信じていない」ことも書くことができる。「来世」があると信じていないのに、もしなるとしたらと仮定し、そこからことばを動かして行ける。信じていないなら、たとえそういうことが仮定できるとしても、意味はない。そういう意味のないことを人間は考えることができる。ことばに、ことばを実際に動かしてしまうことができる。
そして、いったんことばを動かしてしまうと、それを信じていようがいまいが同じようにことばは動きつづける。意味がないのに、あたかも意味があるかのようにことばは動いてしまう。
「信じていない」と最初に書いたので、もちろんことばは「まっすぐ」には進まない。「どんな智識もない上に」というように、いったん、「原点(?)」に引き返してことばは動くのだが……。
ことばはむずかしい。
「来世についてどんな智識もない上に」といいながら「どんな功徳も積むことのなかった私のことだから」と粕谷は書く。あ、ここには、「来世」というのは「功徳を積む」とたどりつけるらしいという「智識」がしのびこんでいる。そうなのだ。「信じていない」「智識もない」とはいいながら、「来世」に関することをなんらかの形で聞いてしまっている。「知らない」のなかには「知る」が含まれている。
これが「国語」のむずかしい点である。
外国語なら、こんなことはない。あることばを「知らない」となったら、「信じる」もなにもない。「わからない」。けれども国語の場合は違うのだ。「知らない」は「聞いたことがない」とは違うのだ。
「聞いたことはある」が「知らない」と言わなければならないことがあるのだ。「知っている」が「知らない」と言わなければならないことがあるのだ。「知る」とは単に聞いたことがあるということではない。「信じる」ことが必要なのだ。
信じていないものは、知っていても「知らない」なのである。信じているとは、納得している、ということかもしれない。知っているだけではなく、それを自分の中できちんと消化している--ということが納得かもしれない。
「智識」がなくても、他に知っていることをつないで、知らない、分からない世界へと踏み出すことができる。それが「国語」の力である。
ちょっと、詩から離れてしまったかもしれない。
来世を信じていない、どんな智識もないし、功徳も積んでいない--そういうことを踏まえて、もし来世があるとしたら、私はどうなるか、ということへ向けてことばを動かしていく。ことばは、いつでも、どこへでも動いて行けるのである。動いて行けるけれど、信じていない、智識がない、功徳も積んでいないという「条件」が重なると、その動きにはおもしろい制御がかかる。
来世を信じていない、功徳を積んでいないひとは来世から見放され(?)、人間ではなく、げじげじになる。
ふーん。
来世を信じていない、どんな智識もないし、功徳も積んでいない--だから、粕谷は、いま動いたことばを必ず否定する。「何も知らない、何もわからない。」
これは、しかし、ほんとうに不思議なことである。
「何も知らない、何も分からない。」と書きながら、それでもまだまだ書きつづけることができる。いや、「知らない、分からない」と書くことで、「自由」を手に入れるのかもしれない。「智識」があると踏み出せない領域へ「無知」は踏み出すことができるのかもしれない。
「何も知らない、何も分からない。」と書いたあと、粕谷のことばは、いっそう自在に動きはじめる。
「知らない、分からない」と書いていたのに、何か、ここには、「知らない、分からない」ひとのことばではないものがある。知らない、分からないということばで耕した「ことばの領域、次元」がある。「哲学」がある。
「知らない、分からない」こそ、「知る、分かる」ということなのだ。ただし、それは「現実」に有効な「知る、分かる」ではない。
「知らない、分からない」を出発点として動きはじめることばがたどりつく先は「夢」であり、その「夢」のなかで、ひとは「知る、分かる」のである。
この「夢」のなかの「知る、分かる」こそ、私は「思想」だと思っている。そこには本能的な欲望がある。「知らない、分からない」から出発するから、それがたどりついた「思想」は、学校教科書でいう「思想」や「哲学」とは違うかもしれない。いわば、素人の「誤読」というものかもしれないが、「誤読」してしまう力のなかにこそ、本能的ないのちの動き--本能を裏切らない、本能に正直な「思想」がある。本能を行かそうと必死になって動くエネルギーがある。
粕谷栄市「来世」は詩集『遠い 川』(思潮社)の続編(?)のような作品である。まだ『遠い 川』について書きたいことがあるのだが、新しい作品を読むと、先に新しい感想を書きたくなる。
不信心な私は、来世のあることなど信じていないが、
若し、それがあるとしたら、死んで、私は、今度は、何
になって日々を送るだろう。
人間は不思議なものである。「信じていない」ことも書くことができる。「来世」があると信じていないのに、もしなるとしたらと仮定し、そこからことばを動かして行ける。信じていないなら、たとえそういうことが仮定できるとしても、意味はない。そういう意味のないことを人間は考えることができる。ことばに、ことばを実際に動かしてしまうことができる。
そして、いったんことばを動かしてしまうと、それを信じていようがいまいが同じようにことばは動きつづける。意味がないのに、あたかも意味があるかのようにことばは動いてしまう。
もちろん、来世について、どんな智識もない上に、ど
んな功徳も積むことのなかった私のことだから、何やら、
うまいはなしがあるわけではない。
「信じていない」と最初に書いたので、もちろんことばは「まっすぐ」には進まない。「どんな智識もない上に」というように、いったん、「原点(?)」に引き返してことばは動くのだが……。
ことばはむずかしい。
「来世についてどんな智識もない上に」といいながら「どんな功徳も積むことのなかった私のことだから」と粕谷は書く。あ、ここには、「来世」というのは「功徳を積む」とたどりつけるらしいという「智識」がしのびこんでいる。そうなのだ。「信じていない」「智識もない」とはいいながら、「来世」に関することをなんらかの形で聞いてしまっている。「知らない」のなかには「知る」が含まれている。
これが「国語」のむずかしい点である。
外国語なら、こんなことはない。あることばを「知らない」となったら、「信じる」もなにもない。「わからない」。けれども国語の場合は違うのだ。「知らない」は「聞いたことがない」とは違うのだ。
「聞いたことはある」が「知らない」と言わなければならないことがあるのだ。「知っている」が「知らない」と言わなければならないことがあるのだ。「知る」とは単に聞いたことがあるということではない。「信じる」ことが必要なのだ。
信じていないものは、知っていても「知らない」なのである。信じているとは、納得している、ということかもしれない。知っているだけではなく、それを自分の中できちんと消化している--ということが納得かもしれない。
「智識」がなくても、他に知っていることをつないで、知らない、分からない世界へと踏み出すことができる。それが「国語」の力である。
ちょっと、詩から離れてしまったかもしれない。
来世を信じていない、どんな智識もないし、功徳も積んでいない--そういうことを踏まえて、もし来世があるとしたら、私はどうなるか、ということへ向けてことばを動かしていく。ことばは、いつでも、どこへでも動いて行けるのである。動いて行けるけれど、信じていない、智識がない、功徳も積んでいないという「条件」が重なると、その動きにはおもしろい制御がかかる。
そこで、ある日、私は、自分が、一匹のげじげじであ
ることに気がつくのだ。
来世を信じていない、功徳を積んでいないひとは来世から見放され(?)、人間ではなく、げじげじになる。
ふーん。
いや、そんなこともない。要するに、一匹のげじげじ
は一匹のげじげじで、自分が、げじげじであることも知
らない。何も知らない、何も分からない。
来世を信じていない、どんな智識もないし、功徳も積んでいない--だから、粕谷は、いま動いたことばを必ず否定する。「何も知らない、何もわからない。」
これは、しかし、ほんとうに不思議なことである。
「何も知らない、何も分からない。」と書きながら、それでもまだまだ書きつづけることができる。いや、「知らない、分からない」と書くことで、「自由」を手に入れるのかもしれない。「智識」があると踏み出せない領域へ「無知」は踏み出すことができるのかもしれない。
「何も知らない、何も分からない。」と書いたあと、粕谷のことばは、いっそう自在に動きはじめる。
ある年の春、どこかの薯畑の泥のなかで生まれて、あ
たりを這いまわって、短い一生を過ごすだけだ。
なにしろ、げじげじのことだから、それ以上のことは、
知る由もない。その最後の秋の日、薯畑の畔で、鴉に食
われて死んだことなど、余計な憶測というものだ。
だが、げしげじにしてみれば、違うのかもしれない。
げじげじは、げじげじにしかない悟達を得て、げじげじ
だけの深遠な何かを持って、死ぬのかもしれないのだ。
「知らない、分からない」と書いていたのに、何か、ここには、「知らない、分からない」ひとのことばではないものがある。知らない、分からないということばで耕した「ことばの領域、次元」がある。「哲学」がある。
今日、そのげじげじは、私の家にいて、食卓で、私の
顔をして、私の飯を食っている。げじげじは、げじげじ
の来世で、この私になったか。いや、はじめから、私が、
そのげじげじだったか。
毎日、この世のくだらない仕事に追われて、へとへと
に疲れて一生を終る私の、それが、最後のきれぎれの夢
の一つだ。遠いでたらめな来世の夢だ。
「知らない、分からない」こそ、「知る、分かる」ということなのだ。ただし、それは「現実」に有効な「知る、分かる」ではない。
「知らない、分からない」を出発点として動きはじめることばがたどりつく先は「夢」であり、その「夢」のなかで、ひとは「知る、分かる」のである。
この「夢」のなかの「知る、分かる」こそ、私は「思想」だと思っている。そこには本能的な欲望がある。「知らない、分からない」から出発するから、それがたどりついた「思想」は、学校教科書でいう「思想」や「哲学」とは違うかもしれない。いわば、素人の「誤読」というものかもしれないが、「誤読」してしまう力のなかにこそ、本能的ないのちの動き--本能を裏切らない、本能に正直な「思想」がある。本能を行かそうと必死になって動くエネルギーがある。
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