詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

粕谷栄市「来世」

2011-01-01 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
粕谷栄市「来世」(「現代詩手帖」2011年01月号)

 粕谷栄市「来世」は詩集『遠い 川』(思潮社)の続編(?)のような作品である。まだ『遠い 川』について書きたいことがあるのだが、新しい作品を読むと、先に新しい感想を書きたくなる。

 不信心な私は、来世のあることなど信じていないが、
若し、それがあるとしたら、死んで、私は、今度は、何
になって日々を送るだろう。

 人間は不思議なものである。「信じていない」ことも書くことができる。「来世」があると信じていないのに、もしなるとしたらと仮定し、そこからことばを動かして行ける。信じていないなら、たとえそういうことが仮定できるとしても、意味はない。そういう意味のないことを人間は考えることができる。ことばに、ことばを実際に動かしてしまうことができる。
 そして、いったんことばを動かしてしまうと、それを信じていようがいまいが同じようにことばは動きつづける。意味がないのに、あたかも意味があるかのようにことばは動いてしまう。

 もちろん、来世について、どんな智識もない上に、ど
んな功徳も積むことのなかった私のことだから、何やら、
うまいはなしがあるわけではない。

 「信じていない」と最初に書いたので、もちろんことばは「まっすぐ」には進まない。「どんな智識もない上に」というように、いったん、「原点(?)」に引き返してことばは動くのだが……。
 ことばはむずかしい。
 「来世についてどんな智識もない上に」といいながら「どんな功徳も積むことのなかった私のことだから」と粕谷は書く。あ、ここには、「来世」というのは「功徳を積む」とたどりつけるらしいという「智識」がしのびこんでいる。そうなのだ。「信じていない」「智識もない」とはいいながら、「来世」に関することをなんらかの形で聞いてしまっている。「知らない」のなかには「知る」が含まれている。
 これが「国語」のむずかしい点である。
 外国語なら、こんなことはない。あることばを「知らない」となったら、「信じる」もなにもない。「わからない」。けれども国語の場合は違うのだ。「知らない」は「聞いたことがない」とは違うのだ。
 「聞いたことはある」が「知らない」と言わなければならないことがあるのだ。「知っている」が「知らない」と言わなければならないことがあるのだ。「知る」とは単に聞いたことがあるということではない。「信じる」ことが必要なのだ。
 信じていないものは、知っていても「知らない」なのである。信じているとは、納得している、ということかもしれない。知っているだけではなく、それを自分の中できちんと消化している--ということが納得かもしれない。
 「智識」がなくても、他に知っていることをつないで、知らない、分からない世界へと踏み出すことができる。それが「国語」の力である。

 ちょっと、詩から離れてしまったかもしれない。

 来世を信じていない、どんな智識もないし、功徳も積んでいない--そういうことを踏まえて、もし来世があるとしたら、私はどうなるか、ということへ向けてことばを動かしていく。ことばは、いつでも、どこへでも動いて行けるのである。動いて行けるけれど、信じていない、智識がない、功徳も積んでいないという「条件」が重なると、その動きにはおもしろい制御がかかる。

 そこで、ある日、私は、自分が、一匹のげじげじであ
ることに気がつくのだ。

 来世を信じていない、功徳を積んでいないひとは来世から見放され(?)、人間ではなく、げじげじになる。
 ふーん。

 いや、そんなこともない。要するに、一匹のげじげじ
は一匹のげじげじで、自分が、げじげじであることも知
らない。何も知らない、何も分からない。

 来世を信じていない、どんな智識もないし、功徳も積んでいない--だから、粕谷は、いま動いたことばを必ず否定する。「何も知らない、何もわからない。」
 これは、しかし、ほんとうに不思議なことである。
 「何も知らない、何も分からない。」と書きながら、それでもまだまだ書きつづけることができる。いや、「知らない、分からない」と書くことで、「自由」を手に入れるのかもしれない。「智識」があると踏み出せない領域へ「無知」は踏み出すことができるのかもしれない。
 「何も知らない、何も分からない。」と書いたあと、粕谷のことばは、いっそう自在に動きはじめる。

 ある年の春、どこかの薯畑の泥のなかで生まれて、あ
たりを這いまわって、短い一生を過ごすだけだ。
 なにしろ、げじげじのことだから、それ以上のことは、
知る由もない。その最後の秋の日、薯畑の畔で、鴉に食
われて死んだことなど、余計な憶測というものだ。
 だが、げしげじにしてみれば、違うのかもしれない。
げじげじは、げじげじにしかない悟達を得て、げじげじ
だけの深遠な何かを持って、死ぬのかもしれないのだ。

 「知らない、分からない」と書いていたのに、何か、ここには、「知らない、分からない」ひとのことばではないものがある。知らない、分からないということばで耕した「ことばの領域、次元」がある。「哲学」がある。

 今日、そのげじげじは、私の家にいて、食卓で、私の
顔をして、私の飯を食っている。げじげじは、げじげじ
の来世で、この私になったか。いや、はじめから、私が、
そのげじげじだったか。
 毎日、この世のくだらない仕事に追われて、へとへと
に疲れて一生を終る私の、それが、最後のきれぎれの夢
の一つだ。遠いでたらめな来世の夢だ。

 「知らない、分からない」こそ、「知る、分かる」ということなのだ。ただし、それは「現実」に有効な「知る、分かる」ではない。
 「知らない、分からない」を出発点として動きはじめることばがたどりつく先は「夢」であり、その「夢」のなかで、ひとは「知る、分かる」のである。
 この「夢」のなかの「知る、分かる」こそ、私は「思想」だと思っている。そこには本能的な欲望がある。「知らない、分からない」から出発するから、それがたどりついた「思想」は、学校教科書でいう「思想」や「哲学」とは違うかもしれない。いわば、素人の「誤読」というものかもしれないが、「誤読」してしまう力のなかにこそ、本能的ないのちの動き--本能を裏切らない、本能に正直な「思想」がある。本能を行かそうと必死になって動くエネルギーがある。





遠い川
粕谷 栄市
思潮社

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志賀直哉(18)

2011-01-01 19:57:13 | 志賀直哉
「自転車」(「志賀直哉小説選 三、昭和六十二年五月八日発行)

 志賀直哉は「不快感」について敏感である。何度も出てくる。

最後に何か今まで食つた事のないものを食はうと、窯揚うどんを取り、不味いものだと思つた記憶がある。
                                (278 ページ)

それまでは物を売つたといふ経験がなかつたから、金を受取つた時、何か妙な不快(ふくわい)な感じがした。
                                (280 ページ)

 或日、私は森田から萩原の主人が私に「うまくペテンにかけられた」と云つてゐたといふ事を聞かされた。私はそれまでペテンといふ言葉を知らなかつたが、聞いた瞬間、この初めて聞く言葉の意味がいやにはつきりと解り、急に堪へられない気持になつた。
                                (281 ページ)

 小説は「ペテン」ということばをめぐる気持ちを追いつづける。そこに志賀直哉の正直が出てくるのだが、「ペテンといふ言葉を知らなかつたが、聞いた瞬間、この初めて聞く言葉の意味がいやにはつきりと解り」の、「聞いた瞬間」、「いやにはつきり解り」が、とても志賀直哉らしいと思う。「いやに」が特に志賀直哉をあらわしていると思う。
 「いやに」は「非常に、妙に、変に」というような意味なのだろうけれど、志賀直哉の「いやに」は「否に」と書いてしまいたいようなところがある。はっきりと解りたくはない、けれどはっきり解ってしまった。そこには何か自分のなかにあるものを否定する動きがある。自分のなかにあるものを否定することが「不快」の感覚を強める。
 それは窯揚うどんを「不味い」と感じた不快感に通じる。「不味い」と感じ、それを不快に感じるのは、「おいしい」という期待が裏切られたからだろう。自分のなかにあった「おいしい」という期待が否定されたのである。
 金を受け取ったときの「不快」と比較するとまた違ったものが見える。志賀直哉はそのときの不快の前に「何か妙な」というたとばをつかっている。「いやな」と「何か妙な」は違うのだ。「ペテン」ということばの意味は「何か妙な(に)」感じで「はつきり解」ったのではなく、あくまで「いやに」なのである。
 何が違うのか。
 「物を売つたといふ経験がなかつた」ということと、「ペテンといふ言葉を知らなかつた」の違いがある。「経験」と「言葉」の違いがある。
 「経験」はなくても、志賀直哉は「売る」ということばは知っており、また、その実際を知っている。経験がなくても知っているということは、志賀直哉の「肉体」のなかに「売る」ということに関する具体的なイメージがある。「売る」という行為は対象化できている。
 一方、「ペテン」ということばは知らない。だから対象化できていない。対象化できていないものが「肉体」のなかへ直接飛びこんできた。だから、志賀直哉はそれを全力で否定しようとしている。そのときの「否定」の気持ちが「いやな=否な」ということばを誘い出しているのだ。
 「ペテン」ということばが、志賀直哉の「肉体」のなかに入り、志賀直哉のなかにあるものを暴き出す。それは志賀直哉が否定されることである。その「ことば」と「肉体のなかにあるもの」の相互関係を、その運動を予感してしまう--それが「はつきり解り」ということかもしれない。

ペテンというのはそれを計画的にしたといふ意味なのだから、その言葉だけを取つて云へば、萩原は誤解してゐるのだが、誤解されるのは腹の立つ事である筈なのだが、私は森田から聴いた時、不快(ふくわい)で堪へられぬ気持にはなつたが、萩原に対し、原を立てる事は出来なかつた。私は良心に頬被りをしてゐたのだ。ランブラーを買ふ事にした、その時とそれ程感じなかつたとしても、直ぐ、気付いて、頬被りで、忘れて了はうとしたゐたのである。
                                (282 ページ)

 ここに直接ではないが「経験」が出てくる。「良心に頬被りをしてゐた」という経験はだれにでもあるだろう。それを志賀直哉もしたことがある。何かを「頬被りで、忘れて了はうとした」こともだれにでもあるだろう。それは志賀直哉にもある。
 「ペテン」ということばは知らないが、ペテンであるかどうかは別にして、何かに対して頬被りをしたり、その何かを忘れてしまおうとした「経験」がある。
 そういう「経験」が、いま、ここであばかれている。(抽象的にではあるけれど。)
 ことばが「対象化」されていないものを暴き出し、対象化する。そうすることで、ことばがより正確にことばになる。--そういうことを予感して、「いやに」ということばをつかっているのだ。「いやに」ということばを頼りに、そういう対象化へと志賀直哉は無意識に進んでいるのである。
 「不快」からさらに進んで「堪へられない」というところまで気持ちが動くのは、そういう暴き出しと対象化が必然として予感できたからであろう。



志賀直哉〈下〉 (新潮文庫)
阿川 弘之
新潮社
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ジャン・ジャック・アノー監督「薔薇の名前」(★★★★)

2011-01-01 18:22:20 | 午前十時の映画祭
監督 ジャン・ジャック・アノー 出演 ショーン・コネリー、クリスチャン・スレーター、F・マーリー・エイブラハム

 ウンベルト・エーコの小説は私は読んでいない。長いので敬遠してしまった。読んでいないのにこんな感想は無責任かもしれないが、とてもよく「要約」された映画になっている。ショーン・コネリーの「過去」を描くシーンが少し物足りない。ことばでは「過去」が説明されるが、ショーン・コネリーの肉体にその「過去」の痕跡がない。つまり、「過去」が演技されていない。「過去」を演技するにはショーン・コネリーの肉体は頑丈過ぎるのかもしれない。あるいは、私が「007」のイメージでショーン・コネリーを見ているために、演技された「過去」を見落としているのかもしれないが……。
 殺されていく人物が戯画化されすぎている(肉体的にも)かもしれないが、この映画の暗い画面では、これくらいの戯画化がないと人物の区別がつきにくいかもしれない。僧侶(修道士)など、特に見分けがつきにくい格好(服装)をしているのだから。
 見どころは画面の暗さかもしれない。暗く汚れた画面にすきがない。まるでエーコの文体のようである。(と、読んでいないのに、私は書いてしまう。)その緊密な画面(画質)が反響し合って、塔の内部の迷路のような階段になる。ショーン・コネリーとクリスチャン・スレーターが行き違いになり、はぐれ、再び会うまでのシーンがとてもいい。声が反響し合って、どこにいるかわからなくなる。目にみえるもの、耳に聞こえるものが、逆に人間を混乱に陥れる。その不安な構造が、構造として映像化されている。
 外部から遮断され、しっかりと固められた内部、その複雑な構造--その構造そのものを内部から解体し、新しい構造につくりかえる。そういう「哲学」をそのまま再現した、象徴的なシーンだと思う。
 他の細部もとてもおもしろく描かれている。クリスチャン・スレーターは「迷子」から抜け出すために、セーターをほどいて出発点にしばりつけておく。それをたどってショーン・コネリーはクリスチャン・スレーター最初の部屋に戻ることになるのだが、その前、秘密の入り口をなんとかしようとしているとき、ショーン・コネリーは「カチカチカチ」という不思議な音を聞く。「カチカチカチ、という音が聞こえないか?」「私の歯がぶつかる音です」。セーターがほどけた分だけ、クリスチャン・スレーターは「薄着」になっていて、寒いのだ。こういう細部、細部を「事実」に変えてしまう丁寧さが、嘘(虚構--ストーリー)を本物にする。
 事件解決の手がかりとなる証拠、指先の黒いインクとそれを舐めたときの舌の黒いインクの色もしっかりと映像化されていて、映画はこういう細部で決まるのだと、改めて思った。



 ジャン・ジャック・アノーの作品に「人類創世」がある。この映画にはとてもおもしろいシーンがある。そこに登場する男女は、最初「ドッグ・スタイル」で性交している。ところが、あるとき女が体位を変え、「正常位」の体位へ男を導く。(セックスで何が正常か決めるのはむずかしいことだが……。)男は驚くが、正常位によって、性交の瞬間、互いの顔を見ることができる。そこから感情の交流が生まれ、性交は愛の表現に変わる。このシーンは、ジャン・ジャック・アノーの手柄である。そして、その体位を最初に「発明」したのが女である、というのもジャン・ジャック・アノーの手柄である。
 「薔薇の名前」とはあまり関係がないのだが、この映画の中でも、女がクリスチャン・スレーターのセックスのてほどきをしていた。それをみて、ふいに思い出したのでつけくわえておく。
                        (「午前十時の映画祭」48本目)
 

薔薇の名前〈上〉
ウンベルト エーコ
東京創元社
薔薇の名前〈下〉
ウンベルト エーコ
東京創元社
薔薇の名前 特別版 [DVD]
クリエーター情報なし
ワーナー・ホーム・ビデオ

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ナボコフ『賜物』(33)

2011-01-01 17:43:00 | ナボコフ・賜物

ルドルフが思いがけずほろ酔い気分になって羽目をはずしたため、ヤーシャが力ずくで彼をオーリャから引き離したのだが、そのすべての舞台となったのはバスルームだった。それからルドルフは声をあげて泣きながら、いつの間にかズボンのポケットからこぼれ落ちていたお金を拾い集めていた。
                                 (74ページ)

 なぜズボンのポケットからお金(小銭だろう)がこぼれ落ちたのか、その理由は具体的に書いていない。しかし、理由はわかる。ルドルフに対してヤーシャが力ずくで何事かをしたからだ。そのとき、何かの拍子で小銭がこぼれたのだ。こういうことは、ひとはだれでも経験することかもしれない。何かの拍子で誰かと喧嘩し、そのとき小銭がポケットからこぼれる。そういう誰もが経験すること、その面倒な細部をナボコフは省略するのだが、この省略の仕方は絶妙である。その一方「泣きながら」という細部をしっかり書き込む。誰かと喧嘩したときズボンから小銭がこぼれる--そういう激しい喧嘩は誰にでもあることだが、その結果、「泣きながら」小銭を集めるということは、誰にでもあることではない。誰にでもあるのは--たぶん、小銭をそのままにして、その場を立ち去ることだろう。しかし、ルドルフはそうしなかった。そういう、ふいのリアリティをナボコフはしっかりと書き込む。これがナボコフの魅力である。
 これにつづく文章も私は大好きだ。

皆にとってなんと辛く、なんと恥ずかしいことだったろう。
                                 (74ページ)

 喧嘩は辛い。それはなぜか。そのあとに「恥ずかしい」という感情がやってくるからである。もしかしたら恥ずかしさこそが辛さの原因かもしれない。感情をひとことで書くだけではなく、その感情をもう一歩踏み込んで書く。そのとき、そこにリアリティが生まれる。





ロリータ、ロリータ、ロリータ
若島 正
作品社


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誰も書かなかった西脇順三郎(165 )

2011-01-01 12:51:45 | 誰も書かなかった西脇順三郎
誰も書かなかった西脇順三郎(165 )

 『豊饒の女神』のつづき。「桃」は後半がとてもおもしろい。

この寺にはまだ根岸のクコの生垣が
残つておりますそれでも見ていつて下さい
悲劇の誕生はおさけなさいましよ
銀のナイフをつけ露にしたたる
桃を出してどうぞめしあがつて!
つれの女とさつきとうふをたべたばかり
その危険な関係を謝した
遠く旅立つ人がいないのは悲しい
こんなに別離の情がわき出ているのに!
たそがれのきらめきが
藤だなのくらやみにゆれている

 突然出てくる「とうふ」にびっくりしてしまう。

つれの女とさつきとうふをたべたばかり

 なぜびっくりするかというと、桃をすすめられて、それを断るのには変な理由だなあと感じるからだ。とうふをたべたから桃が食べられない? そういう状況がわからない。いったい、何? 事実?

 わからないものに驚いたとき、ひとはどんな反応をするのだろう。
 私は笑いだしてしまう。たぶん、笑うことで、ふいにやってきた緊張をほぐすのだと思う。これは私の自己防衛本能のようなものである。笑わずに、これ何? と真剣に考えはじめると苦しくなる。だから、笑ってリセットし直すのである。
 そういうリセットは、笑いながらも、どこか悲しいものを含む。淋しいものを含む。自分のなかからなじんでいた自分が離れていくような感じがする。
 そんなことを思っていると、

遠く旅立つ人がいないのは悲しい

 という行がやってくる。わけはわからない(意味の脈絡はわからない)のだが、そこに「悲しい」ということばがあるので、ふいになつかしいような、あ、これだ、この悲しみだ、私がいま感じているのは--と錯覚する。
 何もわかっていないのに、その行がこころに落ち着く。繰り返して読んでしまう。繰り返し読むと、なんとなく、肉体のなかで「悲しい」がほんとうになるような気がするのだ。
 追い打ちをかけるように、

こんなに別離の情がわき出ているのに!

 これも変だねえ。桃をすすめられ、ほかの女ととうふを食べたばかりだと思い出し、急に悲しくなる。
 もし、ここに旅立つ人がいるなら、そのひとにことよせて、悲しい気持ち、別離を悲しむ気持ちを発散することができるのに……。

 脈絡があるようで、ない。ないようで、ある。まあ、あるように、読んでしまうということなのかもしれない。
 こういう変な(変じゃない、これにはこういう意味がある、という声もあるかもしれないけれど……)行が、変だけではなく、おもしろいと感じるのはなぜなのだろう。なぜ何度も何度も読み返してしまうのだろう。
 私はやはり「音」に引きこまれるのだと思う。いろいろな音があるが、「た行」の音のつながりだけを取り上げてみると、

ぎんのないふを「つ」け「つ」ゆにし「た」「た」る
ももを「だ」して「ど」うぞめしあが「つ」「て」
「つ」れのおんな「と」さ「つ」き「と」うふを「た」べ「た」ばかり
そのきけんなかんけいをしゃし「た」
「と」おく「た」び「だ」「つ」ひ「と」がいないのはさびしい

 「連れ」の女と「とうふ」「食べた」、「遠く」「旅立つ人」--特に、そこに「た行」の音が集中して、豆腐と旅立つ人が不思議な感じで接近する。「その危険な関係を謝した」という行には最後に「た」が出てくるが、これは私には非常に印象が薄い。まるまる1行「た行」がなかったかのような印象がある。その「た行」の空白の1行が、さらに「つれの女……」と「遠く旅立つ人……」の「た行」の呼びかわしあいをくっきりさせるように思える。




北原白秋詩集 (青春の詩集/日本篇 (14))
北原 白秋,西脇 順三郎
白凰社
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岡井隆『詩歌の岸辺で』

2011-01-01 12:12:49 | 詩集
岡井隆『詩歌の岸辺で』(思潮社、2010年10月30日発行)

 岡井隆『詩歌の岸辺で』については、以前に少し書いたことがある。短い批評集なので、私はところどころ読んでは閉じるという具合に接している。
 「平田俊子『れもん』」は作品そのものについての感想もあるけれど、書き鷹についての感想もある。まあ、そのふたつは切り離すことはできないものだけれど……。

 詩の書き方につていは評論家風にはわかつてゐるつもりであつたが、いざ自分で書く身になつてみると惑ふ。しかしまあ書く外ないので書くが書きながらわかってくることもある。

 「書きながらわかつてくる」が、この文章のポイントだと思う。書きながらわかってくる、そのとき、どうするか。ある程度書いたところで何かが「わかる」。そのとき、それまで書いたものをどうするか。書き直すのか。それとも、それまで書いたことは「書きながらわかつてくる」ものと密接な関係にあるのだから、それを書き直すとまた違ったものになる可能性がある。だから(?)、書いたことは書いたこととして、とりあえず「わかつた」方向に進んでいく。
 このことを、岡井は平田の作品に則して言いなおす。

 かういふ詩ははじめぱつと光太郎の「レモン哀歌」がひらめいてそこからレモンと檸檬の比較論に入つたのかそれとも全部計算されつくした上で書かれたのか、わたしはなんとなくそんなに計算されたものではないだらうと思つてゐる。小説家で最後の一行までイメージしたときにはじめて物語の初行を書き出すことができると言つた人があつたが詩ではどうだろう。計算と改作をかさねるマラルメタイプの詩人ならばどうか知らぬが、平田さんも漠然とした感覚で書きすすめるタイプではないかと思つてゐる。

 最後の「平田さんも」の「も」は、マラルメ派以外のほかの詩人と同じようにという「意味」があるかもしれないけれど、私は、ここは「平田さんも」のあとに

 私(岡井隆)と同じように

 を補って読む。平田さんも、「私も」、である。
 岡井はここでは平田の詩について感想を書きながら、岡井自身の「詩の書き方」を紹介しているのである。

 私は、こういう態度で書かれた詩がとても好きである。岡井の『注解する者』は、漠然とした感覚で書きはじめた詩だと思う。漠然とした感覚で書きはじめ、その途中途中で、いろいろな刺激に触れて、何が書きたかったかわかってくる。その「わかってくる」ものの方向へ進んでいく詩である。
 このとき、ことばが進むにしたがって、不思議なことに「未来」(ことばの先にあるもの)が見えてくるのではなく、「過去」(ことばの昔)が見えてくる。詩人の「過去」が見えてくる。どんなことばを生きてきたかが見えてくる。
 平田の「れもん」に関して言えば、平田は梶井基次郎「檸檬」を読んでいる。そして高村光太郎の「レモン哀歌」を読んでいる。それだけてはなく、「レモン哀歌」に登場する智恵子の詩も(ことばも)読んでいる。そういうことがわかる。そして、

 「もし光太郎が生きていたら/大きくて立派な彼の手は/みずみずしさをなくしたこの化け物を/無言で払いのけるだろうが」と付記して光太郎を攻めてゐるのである。

 と岡井は書いているのだが、そこには簡単に言うと、平田が男と女との関係をどう生きてきたか、男に対してどんなときに怒ってきたかという「過去」までが、光太郎の詩といっしょになって噴き出してくる。
 書く--書きながらわかる、というのは、実は「自分」がわかるということである。「過去」はすべてわかっていることのようであって、ほんとうはわからないものなのだ。そのわからない「過去」が書くことで「わかる」。
 これは別なことばで言えば、その瞬間、「私」というものが「過去」から瞬間的につくり直されるということでもある。その「つくりなおし」は微妙なものだし、「わからなかった」だけで「存在しなかった」ものではないので、「ここに変化がある」とか「いま、平田が自分の人生をつくり直している」といっても、変な印象しか与えないかもしれないが……。
 そして、それは「作り直し」というよりも、「過去」を「鍛え直す」、しっかりしたものにするということかもしれないが……。
 でも、私は、やはり「鍛え直す」よりも「つくり直す」と書いておきたい。「過去」を鍛え直し強固にしてしまうと、次がつくり直せなくなる。それは、ことばの運動としてかなり矛盾したことになる。作り直し、書き換えると、さらに次々に「作り直し」が起きてしまう、というのが「書きながらわかる」ということなのだから。「書きながらわかる」と、さらに「過去」がわかってくる。どんどん、「過去」へ行ってしまう。
 そして、矛盾したことを書いてしまうけれど、そうやって「過去」へ進めば進むほど、「過去」を作り替えれば作り替えるほど、なにやら精神と呼ばれるものはどんどん「未来」へ、まだ「未生」のものへと進んでいく。

 こういうことが、詩なのだと思う。詩に限らず、文学なのだと思う。



 あ、これは「我田引水」の感想であるかもしれない。
 「漠然とした感覚で書きすすめ」「書きながらわかつてくる」--これは、私のことでもある。私は私のやっていることを「正当化」するために、岡井のことばを利用しているのである。
 私は毎日詩の感想書いているが、書きはじめるとき、「結論」は決まっていない。なんとなくこういうことを書きたいという思いはある。そして書きはじめる。そうすると、思っていることがどんどん変わってくる。そして、それが変わったとき、私は「変わった」方向へことばを動かしていく。だから、この詩は大好き、と書きはじめて、これはつまらない、と書くことになったり、逆に、こんな詩は認めるわけには行かないと書くつもりが、これは大傑作であると書くことになってしまうこともある。どこへ突き進んでしまうかわからない。わからないから書く。わかっていたら、書く必要がないのかもしれない。



詩歌の岸辺で―新しい詩を読むために
岡井 隆
思潮社

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