大西久代『海をひらく』(2)(思潮社、2012年10月10日発行)
--現代詩講座@リードカフェ(2012年10月31日福岡市中央区)
まず、読んでみましょう。(朗読)
ことばが硬い、ふつうはつかわない熟語やむずかしい感じもつかわれている。けれど、全体として美しく整っている感じがする、というのがだいたいの印象かなあ。
私の印象、私の読み方で、読み進んでみますね。
私は1連目の「物語り」という表現が、この詩では大事だと思った。漢語というが熟語がこの詩にはとても多い。「感涙」「諦念」「鮮烈」「事象」。私は、どのことばもたぶんつかわない。その漢語(熟語)のなかにあって、「物語り」が少し変わっている。ふつうは「物語」。「り」という送りはつかわない。これは、たぶん「漢語(熟語)」ではないのだと思う。
こういうちょっとかわったつかい方をするのは、作者がそのことばに何かの「意味」をこめているからだと思う。私はこのことばを、みんながつかうのとは違う感じでつかっています、という意思表示。
わかりにくい。わからないですね。でも、大事なことばというのは、ひとは必ずくりかえす。知ってほしいことはことばを変えて表現するのが、表現者(文学者)の癖のようなもの。
これもちょっと意地悪な質問だったかな。質問を変えてみます。
あ、いきなり抽象的なことばがでてきてしまったなあ。
もっと具体的に、何か思わない?
私が単純すぎるのかなあ。
「原初の水」は、つぎの「起伏」ということばを手がかりにすると、海の波の感じもするけれど、「水脈を伝って迸る」ということばを読むと、川というか水源を想像しませんか?
そうですね。
水源の水が集まってきて「海へ流れつく」。海は川の水の集まり。そういう「物語り」を私は想像する。「誕生」ということばもあるけれど、いわば海の誕生の物語りを書いていることになると思う。
森の奥の水源からいくつもの川が集まってきて、海にそそぐ。そうやって海ができあがる。そういうイメージが浮かぶ。
3連目はどうだろう。
そうですね。2連目で「水源」のことを想像したので、その関係でいうと川の岸辺という感じがする。けれどそのあとに「海は運ぶ」ということばがあるから、ほんとうは川ではないかもしれない。
で、いま、川と海が交わっているところ、という感想があって、これはいいなあ、と思ったんだけれど。
私はちょっと違った感じで読んだ。
「川と海の交わっているところ」、つまり海の近くだとして。
「海は運ぶ」「漂着する」ということばから、何か想像しない? 何を運んでいるんだろう。
私もそれを想像した。連想してしまった。
岸辺というのはその海の真ん中にある島の岸辺かな? ここではない、遠い海の、海そのものの岸辺。ほとんど海そのものだね。
そこから「大地という終息の場」へ「漂着する」。
海の真ん中に(海そのもののただなかに)葉っぱが落ちるというのは変だけれど、詩なのだから変なこところがあってもいい。ここでは、広い海から陸地へと波が押し寄せるという動きが書いてあるのだと思う。
そんなふうに読むと。
2連目は水源(山)から海への動き。
3連目は海から(島から)大地への動き。
2連目と3連目は向き合う形で存在している。
こういう向き合い方をなんというだろう。「呼応」という具合に呼べないかな?
で、4連目。
「海は森と呼応する」。「呼応する」がでてきますね。
これは2連目と3連目のことを説明しなおしている。言いなおしていることになる。詩に限らず、大事なことは何回かことばをかえてくりかえされる。そのくりかえしに目を向けると詩の全体が自然に見えてくるように思う。
水は山から(大西は「森」からというのだけれど)海に流れ、海は波を大地の岸辺へと寄せてくる。岸辺で森と海が出合っている。そして、それぞれの「源」は森と海。岸辺から遠いところ。その遠いものが、岸辺で呼応している。
森と海は出会いながら、遠くへ広がり、同時に結びついている。
こういう矛盾した瞬間に、詩があるのだと思う。
あ、すごいなあ。
光によって逆に影ができる。そういうのは矛盾のようで矛盾ではない。世界には矛盾だけれど、矛盾じゃないもの、矛盾じゃないけれど矛盾するものがあるね。
それは、そのまま、「ありのまま」受け入れるしかない。あることがらを一方からとらえて、こうだと断定すると、その断定自体に間違いはないのだけれど、それは断定した瞬間にだけ成り立つことがらであって、別の立場からみると違ってくる。だから、ことばの断定にこだわってはいけない。
詩を書くというのは、ことばを「断定」するのことだけれど、断定しながら同時にそうじゃなくてもいい、という感じが必要。「誤読」されてもいい、という覚悟がひつようなのかな。
ちょっと脱線したけれど。
矛盾の結びつき、これを大西は別なことばで言いなおしている。
「生も死も飲みこんだとばり」。生と死が矛盾ではなく、対立ではなく、「も」という並列のことばでつながっている。共存している。
何か反対なのもが出合う。それはしかし「対立」や「矛盾」ではなく、「共存」。
それは1連目の「空」と水平線(海)の関係にもつながる。それは対立するのではなく「呼応する」(呼びあう)。
大西は、そういう何か対立したものが呼応する(呼びあう)という運動をするときのことを「物語り」と感じているのかもしれない。
どんなふうにして呼びあうのか、なぜ呼びあうのか。
森の奥から流れてくる「水」、海に存在する「水」。それはつながっているからだ。そのつながりを自分なりの理解の仕方でとらえなおす--それが「物語り」。
大西が自分のためにつくる「物語り」ということになる。
最後の連。
ここで私が注目するのは「三半規管」ということば。「肉体」をあらわすことばなのだ。森と海が呼応する、呼びあう--その声を大西は実は聞いている。その声のなかに「物語り」を聞いている。波の音を聞きながら、その波が生まれてきた過去(森から流れてきたという過去)を聞き、それから波がいましていること(何かを陸に漂着させているといういま)を聞き、それが「記憶」と重なるのを感じる。川が海へ流れているのを見た記憶、それから海に何かが漂着するのを見た記憶--それが出会いながら、「海の物語り」をつくりあげる。「物語り」を語ることが、「海をひらく」ということ。「海」は私にとってはこういう存在である、と語ること。
その「物語り」の奥には、「いつか鎮まっていった悲しみ」というようなものもある。海は「緘黙(沈黙)」しているが、そこには「物語り」があるはずだ。
この詩は、とてもていねいにつくられていて、しかも構造がしっかりしている。
1連目で「物語り」というキーワードをきちんと書いて、2連目で「物語A」を書き、次の3連目で「物語A' (Aダッシュ)」くりかえす。そういう構造を利用して書きたいことを説明しながらことばの世界を広げていく。「呼応」ということばで、それがA+A' であることを説明し、最後でそれを「肉体の内部」に取り込む。
このとき「肉体」と「海」が呼応する。この「呼応」(物語りの誕生)を、大西は「ひらく」と呼んでいることがわかる。
そういう詩だと思います。
という具合に読んで来ると、詩はどんなふうに見えて来るかな。
そうですね。ほんとうにいい詩だと思う。
「海」は大西の「肉体」の内部、こころ、精神の象徴のようなものとして描かれている。「海をひらく」は「こころをひらく」、あるいは自己を語るということと同じ「意味」でつかわれていると思う。
それがとてもよくわかる、というか、きちんと伝わって来る。だからこそ、ちょっと最後に私は不満をいいたい。
ありがとう。
ひとつのことを言いなおしていく、ととらえると、それはこの詩の形式にもあてはまるよね。
この詩は海のことを書いている。海は森の奥の水源から出発した一滴の水からはじまる。その海は海のなかにあるものを岸辺へと届ける。そんなふうに呼応しながら世界が成り立っている。その記憶、大西のなかにある海の記憶を、こうやってことばにして「ひらいている」というのがこの作品だと思うけれど、そこに「音楽」がない。「音楽」がないというと言い過ぎなのだけれど、「カノン」という形式まで利用(応用)しているのに、その音楽が耳に聞こえてこない。三半規管という耳につながる「肉体」の具体的なことばさえあるのに、なぜか音楽があまり聞こえてこない。
それはなぜかなあ。
たぶん、最初にみんなで詩を読んだときの、その最初の印象の奥にあるものが影響してると思う。
この詩には漢字の熟語が多い。そして漢字というのは不思議なことに、正確には読めないけれどその意味がわかることがある。「緘黙」の「緘」という文字は手紙の封につかわれたりするから「緘黙」なら閉ざして黙っている、沈黙と似たようなものだな、とか。あるいは「瀝る」はサンズイがついているから「水」に関係することばだな、送り仮名が「る」だから、「こぼれる」? 違うな、「したたる」かな? いいや、「したたる」にてしおこう、という感じになる。
こういうとき動いているのは「目の記憶」だね。「目」でことばを読んでいる。で、この「目」というのが不思議。たとえば「三半規管」というのは、そんなものは肉眼では見えないというか、ふつうに目で見る世界ではないね。それがこんなふうにことばにして書かれてしまうと、まるで「見える」ように錯覚してしまう。これは「脳」が錯覚しているというか、正しく判断しているというか--これはむずかしいのだけれど。
脱線してうまくいえないのだけれど。
この詩に音楽があるとしたら、それは「目で見る音楽」であって、「耳で聞く音楽」ではない、という感じがする。それが何となく、私には「古い詩」のようにも感じられる。
あ、そうか。「現代詩文庫」が発刊されたころ、詩を書いていたひとなんですね。その最初の「現代詩」のもっていることばの感じが、漢字のつかいかたなんかに出ているのかもしれない。むかし書かれた「男性詩人の詩」という感じがどうしてもしてしまう。
そこが私には、不満というか……。今回、受講生から「みんなで読むならこの詩が読みたい」という声があって、この詩をを取り上げたのだけれど、ブログで紹介したとき、この詩について書かなかったのは、そういう理由です。
--現代詩講座@リードカフェ(2012年10月31日福岡市中央区)
まず、読んでみましょう。(朗読)
海をひらく
海に向かい叫びあるいは感涙の時をもつことがある 波のカノ
ンにかたくなさを預けて 空をよび合う水平線に諦念の色はほ
どける 祈りの底で震える希望 鮮烈な事象に立ち向かう海は
いくつもの物語りを内包する
原初の水の起伏はどのようなものであったか 水脈を伝って迸
る水の集積 満々たる水が海へ流れつくとき 青の深みへと生
存の手を浸した種の歓喜 誕生は水からはじまる
岸辺に落ちたひと葉 風の裁量を避け 陽に灼かれ越境線を漂
う 信じること 背を伝う波音を快楽として 海は運ぶ 漂着
する至福 大地という終息の場はととのえられる
海は森と呼応する 海に漂う月は森を冥く照らす 生も死も飲
み込んだとばりを察知する 森が夜通し震えるのは海の負荷を
知るからだ
瀝る青を纏って 日々の底に定着してゆく 三半規管に宿る波
音 取り出し謳い 体に染みた冷ややかさを懐かしむ 記憶の
底でひらこうとする いつか鎮まっていった悲しみ 波線と荒々
しさを秘めた海の緘黙
<質問>わからないことばは、ありますか?
<受講生1>わからないことばはないけれど、「風の裁量」のように、ふつうにはつかわ
ないことばがある。
<受講生2>「海の緘黙」の「緘黙」のように、だいたいわかるけれど、ふつうにはつか
わない「硬いことば」が多い。
<質問>いま、「硬いことば」が多いという感想があったけれど、ほかにはどんな印象が
しますか? どこがいちばん気に入りましたか? どのことばが好き?
<受講生3>最初の「叫び」と最後の「緘黙」の呼応が好き。硬いことばだけれど整って
いる。
<受講生4>「海は森と呼応する 海に漂う月は森を冥く照らす」。照らすのにくらい、
というのが印象的。
<受講生2>後半が好き。前半はうわっつらな感じ。後半は宗教のひとかなと思った。
「瀝る青」が好き。
<受講生1>「空をよび合う水平線」「色はほどかれる」が好き。
ことばが硬い、ふつうはつかわない熟語やむずかしい感じもつかわれている。けれど、全体として美しく整っている感じがする、というのがだいたいの印象かなあ。
私の印象、私の読み方で、読み進んでみますね。
私は1連目の「物語り」という表現が、この詩では大事だと思った。漢語というが熟語がこの詩にはとても多い。「感涙」「諦念」「鮮烈」「事象」。私は、どのことばもたぶんつかわない。その漢語(熟語)のなかにあって、「物語り」が少し変わっている。ふつうは「物語」。「り」という送りはつかわない。これは、たぶん「漢語(熟語)」ではないのだと思う。
こういうちょっとかわったつかい方をするのは、作者がそのことばに何かの「意味」をこめているからだと思う。私はこのことばを、みんながつかうのとは違う感じでつかっています、という意思表示。
<質問>では、何が違っているのか。どこが違っているのか。
<受講生>……。
わかりにくい。わからないですね。でも、大事なことばというのは、ひとは必ずくりかえす。知ってほしいことはことばを変えて表現するのが、表現者(文学者)の癖のようなもの。
<質問>「物語り」はこの詩では、どんなふうに言い換えられていますか?
<受講生>……。
これもちょっと意地悪な質問だったかな。質問を変えてみます。
<質問>では、この詩は「何の物語り」? 2連目だけからだとどんなことを想像する?
「原初の水」って何だと思う?
<受講生2>水、誕生、ということばから羊水を連想する。
<受講生1>人間の根本、生命の源。
<受講生3>地球ができたときの水。
あ、いきなり抽象的なことばがでてきてしまったなあ。
もっと具体的に、何か思わない?
私が単純すぎるのかなあ。
「原初の水」は、つぎの「起伏」ということばを手がかりにすると、海の波の感じもするけれど、「水脈を伝って迸る」ということばを読むと、川というか水源を想像しませんか?
<受講生1>森のいちばん奥。
そうですね。
水源の水が集まってきて「海へ流れつく」。海は川の水の集まり。そういう「物語り」を私は想像する。「誕生」ということばもあるけれど、いわば海の誕生の物語りを書いていることになると思う。
森の奥の水源からいくつもの川が集まってきて、海にそそぐ。そうやって海ができあがる。そういうイメージが浮かぶ。
3連目はどうだろう。
<質問>「岸辺に落ちたひと葉」の岸辺とはどこだろう。
<受講生1>水源に「岸辺」というのは違う感じがするけれど、そのあたり。
<受講生3>川かなあ
<受講生2>川だけれど、もっと海に近い川。海と交わっているようなところ。その岸。
そうですね。2連目で「水源」のことを想像したので、その関係でいうと川の岸辺という感じがする。けれどそのあとに「海は運ぶ」ということばがあるから、ほんとうは川ではないかもしれない。
で、いま、川と海が交わっているところ、という感想があって、これはいいなあ、と思ったんだけれど。
私はちょっと違った感じで読んだ。
「川と海の交わっているところ」、つまり海の近くだとして。
「海は運ぶ」「漂着する」ということばから、何か想像しない? 何を運んでいるんだろう。
<受講生1>「名もしらぬ遠き島より」の「椰子の実」。
私もそれを想像した。連想してしまった。
岸辺というのはその海の真ん中にある島の岸辺かな? ここではない、遠い海の、海そのものの岸辺。ほとんど海そのものだね。
そこから「大地という終息の場」へ「漂着する」。
海の真ん中に(海そのもののただなかに)葉っぱが落ちるというのは変だけれど、詩なのだから変なこところがあってもいい。ここでは、広い海から陸地へと波が押し寄せるという動きが書いてあるのだと思う。
そんなふうに読むと。
2連目は水源(山)から海への動き。
3連目は海から(島から)大地への動き。
2連目と3連目は向き合う形で存在している。
こういう向き合い方をなんというだろう。「呼応」という具合に呼べないかな?
で、4連目。
「海は森と呼応する」。「呼応する」がでてきますね。
これは2連目と3連目のことを説明しなおしている。言いなおしていることになる。詩に限らず、大事なことは何回かことばをかえてくりかえされる。そのくりかえしに目を向けると詩の全体が自然に見えてくるように思う。
水は山から(大西は「森」からというのだけれど)海に流れ、海は波を大地の岸辺へと寄せてくる。岸辺で森と海が出合っている。そして、それぞれの「源」は森と海。岸辺から遠いところ。その遠いものが、岸辺で呼応している。
森と海は出会いながら、遠くへ広がり、同時に結びついている。
こういう矛盾した瞬間に、詩があるのだと思う。
<質問>この矛盾した出会い、結びつきは、他に書かれていない?
<受講生4>「海に漂う月は森を冥く照らす」。海の上の月は海に反射して海が輝く。
けれど森の上の月は反射しない。光によって、森の中に影ができる。
あ、すごいなあ。
光によって逆に影ができる。そういうのは矛盾のようで矛盾ではない。世界には矛盾だけれど、矛盾じゃないもの、矛盾じゃないけれど矛盾するものがあるね。
それは、そのまま、「ありのまま」受け入れるしかない。あることがらを一方からとらえて、こうだと断定すると、その断定自体に間違いはないのだけれど、それは断定した瞬間にだけ成り立つことがらであって、別の立場からみると違ってくる。だから、ことばの断定にこだわってはいけない。
詩を書くというのは、ことばを「断定」するのことだけれど、断定しながら同時にそうじゃなくてもいい、という感じが必要。「誤読」されてもいい、という覚悟がひつようなのかな。
ちょっと脱線したけれど。
矛盾の結びつき、これを大西は別なことばで言いなおしている。
「生も死も飲みこんだとばり」。生と死が矛盾ではなく、対立ではなく、「も」という並列のことばでつながっている。共存している。
何か反対なのもが出合う。それはしかし「対立」や「矛盾」ではなく、「共存」。
それは1連目の「空」と水平線(海)の関係にもつながる。それは対立するのではなく「呼応する」(呼びあう)。
大西は、そういう何か対立したものが呼応する(呼びあう)という運動をするときのことを「物語り」と感じているのかもしれない。
どんなふうにして呼びあうのか、なぜ呼びあうのか。
森の奥から流れてくる「水」、海に存在する「水」。それはつながっているからだ。そのつながりを自分なりの理解の仕方でとらえなおす--それが「物語り」。
大西が自分のためにつくる「物語り」ということになる。
最後の連。
ここで私が注目するのは「三半規管」ということば。「肉体」をあらわすことばなのだ。森と海が呼応する、呼びあう--その声を大西は実は聞いている。その声のなかに「物語り」を聞いている。波の音を聞きながら、その波が生まれてきた過去(森から流れてきたという過去)を聞き、それから波がいましていること(何かを陸に漂着させているといういま)を聞き、それが「記憶」と重なるのを感じる。川が海へ流れているのを見た記憶、それから海に何かが漂着するのを見た記憶--それが出会いながら、「海の物語り」をつくりあげる。「物語り」を語ることが、「海をひらく」ということ。「海」は私にとってはこういう存在である、と語ること。
その「物語り」の奥には、「いつか鎮まっていった悲しみ」というようなものもある。海は「緘黙(沈黙)」しているが、そこには「物語り」があるはずだ。
この詩は、とてもていねいにつくられていて、しかも構造がしっかりしている。
1連目で「物語り」というキーワードをきちんと書いて、2連目で「物語A」を書き、次の3連目で「物語A' (Aダッシュ)」くりかえす。そういう構造を利用して書きたいことを説明しながらことばの世界を広げていく。「呼応」ということばで、それがA+A' であることを説明し、最後でそれを「肉体の内部」に取り込む。
このとき「肉体」と「海」が呼応する。この「呼応」(物語りの誕生)を、大西は「ひらく」と呼んでいることがわかる。
そういう詩だと思います。
という具合に読んで来ると、詩はどんなふうに見えて来るかな。
<質問>ここには何が描かれている?
<受講生2>心象風景。
<質問>肉体のなかにあるこころがとらえた風景という意味かな?
<受講生3>海も山も動かない。動かない自然が描かれている。
<受講生2>とてもしっかりとつくられたことばの世界だと思う。
そうですね。ほんとうにいい詩だと思う。
「海」は大西の「肉体」の内部、こころ、精神の象徴のようなものとして描かれている。「海をひらく」は「こころをひらく」、あるいは自己を語るということと同じ「意味」でつかわれていると思う。
それがとてもよくわかる、というか、きちんと伝わって来る。だからこそ、ちょっと最後に私は不満をいいたい。
<質問>いま、この詩を心象風景ととらえる感想があったけれど、その「風景」の特徴っ て何?
<受講生4>自然、動かない。
<質問>その風景の反対のものって何だろう。
<受講生>……。
<質問>1連目に「カノン」ってことばが出て来るね。この「カノン」って、何?
<受講生1>音楽の形式で、ひとつの旋律を違う楽器で次々に演奏していく。
ありがとう。
ひとつのことを言いなおしていく、ととらえると、それはこの詩の形式にもあてはまるよね。
この詩は海のことを書いている。海は森の奥の水源から出発した一滴の水からはじまる。その海は海のなかにあるものを岸辺へと届ける。そんなふうに呼応しながら世界が成り立っている。その記憶、大西のなかにある海の記憶を、こうやってことばにして「ひらいている」というのがこの作品だと思うけれど、そこに「音楽」がない。「音楽」がないというと言い過ぎなのだけれど、「カノン」という形式まで利用(応用)しているのに、その音楽が耳に聞こえてこない。三半規管という耳につながる「肉体」の具体的なことばさえあるのに、なぜか音楽があまり聞こえてこない。
それはなぜかなあ。
たぶん、最初にみんなで詩を読んだときの、その最初の印象の奥にあるものが影響してると思う。
この詩には漢字の熟語が多い。そして漢字というのは不思議なことに、正確には読めないけれどその意味がわかることがある。「緘黙」の「緘」という文字は手紙の封につかわれたりするから「緘黙」なら閉ざして黙っている、沈黙と似たようなものだな、とか。あるいは「瀝る」はサンズイがついているから「水」に関係することばだな、送り仮名が「る」だから、「こぼれる」? 違うな、「したたる」かな? いいや、「したたる」にてしおこう、という感じになる。
こういうとき動いているのは「目の記憶」だね。「目」でことばを読んでいる。で、この「目」というのが不思議。たとえば「三半規管」というのは、そんなものは肉眼では見えないというか、ふつうに目で見る世界ではないね。それがこんなふうにことばにして書かれてしまうと、まるで「見える」ように錯覚してしまう。これは「脳」が錯覚しているというか、正しく判断しているというか--これはむずかしいのだけれど。
脱線してうまくいえないのだけれど。
この詩に音楽があるとしたら、それは「目で見る音楽」であって、「耳で聞く音楽」ではない、という感じがする。それが何となく、私には「古い詩」のようにも感じられる。
<受講生2>この人は団塊の世代のひと。十数年ぶりに詩集を出したと書いてあった。
あ、そうか。「現代詩文庫」が発刊されたころ、詩を書いていたひとなんですね。その最初の「現代詩」のもっていることばの感じが、漢字のつかいかたなんかに出ているのかもしれない。むかし書かれた「男性詩人の詩」という感じがどうしてもしてしまう。
そこが私には、不満というか……。今回、受講生から「みんなで読むならこの詩が読みたい」という声があって、この詩をを取り上げたのだけれど、ブログで紹介したとき、この詩について書かなかったのは、そういう理由です。
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