詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

為平澪『割れたトマト』

2012-11-28 11:07:44 | 詩集
為平澪『割れたトマト』(土曜美術社出版販売、2012年11月20日発行)

 ことばは「意味」に整理されてしまうとつまらない。けれど、ことばは「意味」をどうしてももってしまう。どうすれば「意味」から逃走(?)できるか。
 為平澪『割れたトマト』は、そういうことを考える手がかりになるかもしれない。標題の作品。

さんじゅうよんさいにもなって
母親にトマトをふたつ
おもいっきり なげつける

母は心臓が悪い
母は老化がはやい
母は寝たきり

さんじゅうよんさいにもなって
母親にトマトをふたつ
おもいっきり なげつける

割れたトマトは
私の頭だったのか
母の心だったのか

先端から まっしぐらに
数々の ヒビが入り
ふたつとも
赤い涙を流していた

 4、5連目は「意味」しか書かれていない。トマトは頭だったり(比喩)、心だったり(比喩)して、それは割れて(事実)、涙を流している(比喩)。為平の憤りと悲しみがきちんと書かれている。
 で、その「意味」は説明の必要がないくらい簡単にわかる。わかったつもりになってしまう。で、それが、つまらない。だいたい、トマトが「ふたつ」というのがおもしろくない。

割れたトマトは
(そのひとつは)私の頭だったのか
(他のひとつは)母の心だったのか

 これでは、私の「頭」が苦しみ、母の「心」が悲しむ、ということが完全に「分離」してしまう。「ひとつ」のことではなく「ふたつ」のことになってしまう。1連目にあるトマトを母に投げつけた理由が、私の頭の苦しみをわかってくれない母への怒りであることが、「ふたつ」にきちんと整理されてしまう。
 でも、それって、ほんとうは整理されていないものじゃないかな?
 整理されていないからこそ、怒りが爆発する。つまり、母に対して怒っているのか、自分に対して怒っているのか、母が悲しんでいるのか、私が悲しんでいるのか、その区別ができない「ひとつ」が、まあ、こういうときの「肉体」のあり方だと思うけれど、それを為平は「ふたつ」に整理してしまって、その「整理」のなかで「意味」がきちんと動いていく。
 こうなると、詩は、「わかりやすい」けれど、つまらない。つまり「わかった」と簡単に言いきってしまって、それでおしまいになる。
 ほうとうに、わかったの? というか、それは「わかってしまって」いいことなのか。他人の気持ち(肉体)なのに、なぜ、そんな簡単に「わかる」のか。
 そんなところに、詩はあるのか。
 わたしは、ない、と思う。そこには頭で理解する「意味」はあるが、詩はない。なぜ、詩がない、と断定してしまうかというと、「他人」にであった気がしないからである。そして、あ、これこそ私が探していた私だ(私の気持ちだ)という感じにはなられないからである。まあ、こういうことは、感覚の意見だから、特に「理由」というほどのものではないのだが。

 で、それなら、なぜこの詩を取り上げて何かを書こうとしているかというと。
 というか、この詩のどこに詩を感じたのか、というと。
 言い替えると。
 では、この詩のどの部分が私には「わからない」かというと。

さんじゅうよんさいにもなって
母親にトマトをふたつ
おもいっきり なげつける

 この3行は1連目と3連目と、2回繰り返されている。なぜ、2回おなじことばをくりかえしたのか。「さんじゅうよんさい」とわざわざ2回も「ひらがな」で書いているのか。
 「意味」から考えるなら、3連目はなくてもかわらない。為平が母親にトマトを投げつけ、その割れたトマトを見て、頭か、心か、それが涙を流していると感じたという「ストーリー」はかわらない。「意味」とは「ストーリー」に組み込むことのできる「こころ(気持ち)」のことだ。
 で、なぜ、2回くりかえしたのか--それはわからないのだけれど、その「意味」はわからないのだけれど、くりかえしてしまう、その「くりかえし」のなかにある「肉体」の動きはわかる。一度では気がすまない。気がすまないというのは、「肉体」のなかにまだ「気」が残っているからだね。「気」を吐き出してしまいたい。だから、「気」を吐き出せるまで、ひとはくりかえす。為平は2回だったが、ひとによっては3回、4回かもしれない。
 ひとが怒ったり、悲しんだりしているのをみると、そういう「状態」に出合うでしょ?怒りも悲しみも「1度」で十分「意味」はわかる。怒っているのだ、悲しんでいるのだ、ということはわかる。でも「1度」だと、「程度」がわからない。
 くりかえしのなかには「程度」という、何か、変なものがある。そして、その「程度」こそ「怒り」や「悲しみ」の「思想」にあたる根幹なのだと私は思う。何度も何度も肉体を通り抜けてあふれる「感情」は、くりかえすことで「思想(肉体)」になる。これは奇妙な言い方になるが、頭で「理解する(わかる)」ことがらではなくて、実際に肉体を動かすしかない「こと」、動きのなかで「覚える」何かなのだ。
 このときの「覚える」は「記憶する」の「覚える」ではなく、「知る」である。そして、その「知る」は「思い出す」でもある。あ、こういうものが自分の肉体にもあるということを「思い出す」。「肉体」を「知る」。
 「怒り」「悲しさ」は「名詞」だけれど、あらゆることは「名詞」ではなく、「動詞」のなかで、「肉体」をとおして、「こと」として「覚える」必要があるのだ。
 これは、そして、このことこそ為平の「肉体」のなかで起きていたことでもある。為平はおなじことばをくりかえすことで、自分の肉体を動かしていた。そして、肉体の奥から自分がほんとうに思い出したいものを見つけ出そうとしている。それを「知り」、それをはっきりと「覚える(これは記憶する、という意味)」にくりかえすのである。「覚える」は「つかえる」ということでもある。怒って悲しんで、トマトを母親にぶつけるということは「覚える」必要がないようなことかもしれない。「覚え」なくても、「つかえる」ことだとひとはいうかもしれない。そうであるなら、実際にトマトをぶつけて、これはする必要のないことだったと「覚える」、「つかわない」ということを「つかう」ことができるようになる--そうするために、為平はくりかえすのである。
 
 くりかえしのなかに「思想」がある。「意味」をこえる「肉体」がある。詩には昔からリフレイン(くりかえし)があるが、それは「意味」ではなく、「意味」を「肉体」がこえるためにおこなう「儀式」のようなものである。くりかえさなければならない「肉体」のなかの、ことばにならない「程度」の発露がリフレインなのである。





割れたトマト (現代詩の新鋭)
為平 澪
土曜美術社出版販売
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